言葉から広がる新しい世界

「ママ、またウーバーイーツの自転車だよ」
「さっきもすれ違ったよな」
「次はピザのバイクが通ったよ。しかも二台続けて!」
「注文してる人がいっぱいいてるんやわ」
娘と二人でテイクアウトのパスタを受け取りに向かう道すがら、こんなやり取りをしていた。
私は生まれつきの全盲で、視覚を使わずに生活している。
夫は中途失明の全盲で、人生の途中から視覚を使わずに暮らすようになった。
私たちは二人で、目が見える小学四年生の娘を育てている。
一緒に外に出ると、娘は目に見えるものを言葉にして伝えてくれる。

私が目が見えないからと言う理由で娘に
「周りの景色や目に見えるものを説明しなさい」
と言ったことは一度もない。
夫もそうだ。
娘は私たちと生活していく中で
見えなくても言葉にすれば伝わるということを自然に身に着けてくれたんだと思う。

娘と外を歩いていて、新鮮だなと思う出来事があった。
夏の暑い日のこと。
マンションから出ると
「ママ、ちょっと待ってて!すぐ戻って来るから!」
そう言って走っていってしまった。
軽やかな靴音が遠ざかっていった。
かと思ったらすぐに戻ってきた。
「どうしたん?なんかあったん?」
尋ねる私に
「この間コンビニで見つけて、美味しそうだなぁと思ったジュースの空き缶が落ちてたんだよ。だから見て来た」
「見て来ただけ?」
「うん。それだけ、ママ行こうか」
そう言っていつものように手を繋いで歩き始めた。

目が見える人の「視界に入る」という感覚がこれなんだなと思った。
見えない私にとって、手で触れられないものや白杖(視覚に障害のある人が持つ杖)に触れないものを認識することは難しい。
ただジュースの空き缶が落ちていた、それだけのことだが、娘の楽しそうな口調と素早い動きで、生き生きとした情報として私の中に入ってきた。
私が一人で歩いていたとしたら、白杖が当たらないかぎりそこに空き缶が落ちていることにすら気が付かない。
見えているとこんな風にパッと目の前に情報が飛び込んでくるんだということが楽しくなった。

夫と歩いているときにはこんなことがあったらしい。
何気ない話をしながら歩いていた二人。
突然これまでの会話をピタッとやめて娘は黙り込んだ。
「どうしたん?なんかあったん?」
心配そうに聞く夫。
すると、声を潜めて娘が言った。
「お父さん…。前からおっぱいボヨンボヨンの人が来るよ…」
「そ、そうか…」
夫は苦笑いだったらしい。

私が一人で外を歩くとき、大切な情報源は三つある。
まず一つ目は、白杖で確かめられる、数十センチ先の路の様子。
路の凹凸や段差、スロープなどを杖先で確認しながら歩いている。
二つ目は、耳から入る「音の情報」。
行きかう人の足音、お店のドアの開閉音、通り過ぎる車の音など、町中にはたくさんの音が溢れている。
それらの音を大切な情報として、手掛かりにしながら歩いている。
三つ目は、「匂い」で感じ取れる情報。
パン屋さんやドラッグストア、本屋さんやコンビニなど、匂いも情報になっている。
これらを頼りに、考え事をしながら一人で歩くことも楽しい。

でも、誰かと一緒に歩くことは、一人で歩くときには得られない楽しさがある。
先ほどの「三つの情報源」にない「目に見えるもの」が一緒に歩いている人の言葉を通して、私の中に入ってくる。
「何かを伝えないといけない」
そんな大げさなものじゃなくていい。

「あ、ごみ袋が飛んで行ってる」
「へぇ、そうなんや!」

「鼻にピアスしている人がいたよ」
「そのピアスの人、服はどんなんやった?」

見えるものをただ言葉にしてくれるだけでいい。
目が見える友達の中には
「説明が下手でごめんね」
と言う人がいる。
「うまい下手なんて関係ないやん」
と私は伝えている。
説明してもらったことから会話が広がって、また新たな説明が加わっていく。
一緒に歩く人の言葉によって、その人らしさの溢れた世界が私の中に広がっていく。
私にとって「誰かと歩くこと」は面白い世界を知ることそのものだから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?