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【笛吹市青楓美術館】ぶどう畑の中の最古の美術館(2)「小池唯則と津田青楓」を見に行く

はじめに

 笛吹市一宮町のぶどう畑の中にある山梨最古の美術館こと笛吹市青楓せいふう美術館では、半年ごとに展示替えを行っています。2022年度後期の展示は「小池唯則と津田青楓」(2022.9.7~2023.4.16)がテーマです。
 青楓美術館は小池唯則氏が私財を投じて開館させた美術館です。今回の展示は設立までの青楓と小池氏の交流を軸に関連した作品が展示されています。

小さな洋館風の建物
ぶどう棚の上に顔を出す美術館

 なお、青楓美術館の概要と2022年度前期の展示については拙稿をご覧ください。


小池唯則の足跡をたどる

 小池唯則と聞いても、知っている人はほとんどいないでしょう。青楓作品の収集家、研究家、そして青楓美術館の設立者として名前を聞くことはあるのですが、青楓との関わり以外の部分になると情報が希薄です。
 また、小池氏の青楓研究として活動は晩年のほぼ10年間なのです。小池氏の人物像がもう少し明確にならないかと思い、筆者は氏の経歴について文献にあたりました。まずは経歴に関する部分です。少し長いのですが以下、引用です。

 そんな津田青楓に魅せられたのが、一宮町の歴史家・小池唯則である。小池唯則は、明治36(1903)年、相興村(現・一宮町)の上矢作に生まれた。京北実業学校を卒業後、早稲田大学専門部の法科に学んだ。卒業後は、故郷に戻り相興小学校の代用教員を務める。昭和3(1928)年に立正大学高等師範科の歴史地理学校に入学、中等教員免許を取得し卒業後は京北実業学校で教鞭をとった。
 昭和29(1954)年、東京都練馬区に幼稚園を設立。その後、昭和32(1957)年、54歳にして東京都立工芸学校でデッサンや油彩画を学んだ。
 そして、昭和46(1971)年、はじめて津田青楓の杉並区高井戸のアトリエを訪ね、絵に魅せられ、作品の収集をはじめた。
 収集したコレクションをもとに昭和47(1972)年、故郷一宮に青楓美術館を設立。開館10年後の昭和57(1982)年に79歳で没した。

東八代広域行政事務組合『東八メモリーズ・こんなひとがいた。』サンニチ印刷、2002、121頁

 私はこの故郷を少年時代に失って、他郷で暮らしていたが、今回の戦争で家族が故郷に疎開したので、それをきっかけに、土地を少し手に入れた。

『青楓美術館図録』青楓美術館、1983

 京北実業学校というは東京都北区にあった京北学園白山高等学校のことです。それまでは山梨にいたようです。また、青楓美術館の展示資料より小学校は、相興小学校(現、一宮北小学校)を卒業しています。
 教職に就いて、その後幼稚園の経営をしています。故郷の一宮町へは家族が疎開してたことで、その後土地を取得しています。それが現在の美術館の土地や畑などです。
 また、偶然伺った話では、幼稚園は現在も残っています。小池氏の畑は美術館の至近にあり、近隣の方が代わりに管理作付けをされているとのことです。
 次に、小池氏は歴史研究家と言われていますが、調べた限りでは青楓以外の著述は「小池唯則『随筆・話の緒口』一泉社、1946」と「『小学館の幼稚園 』1964年2月号「がんばれらっせるしゃ 」小池唯則,中島章作画」のみ確認できました。幼稚園経営の傍ら幼児向けの読み物も書いていたようです。

小池唯則『随筆・話の緒口』一泉社、1946

 青楓と会った晩年から小池氏は表舞台に立った人物には間違ないようです。

 青楓美術館を運営していた頃の小池氏については、植松光宏『山梨の博物館』に小池氏の姿ととも様子が分かる記述がありました。

1981年頃の小池氏 出典 : 『山梨の博物館』

 この中で、著者の植松氏は、小池氏を次のように高く評しています。

 館長は、一宮町上矢作出身で、東京都練馬区で幼稚園園長をしている小池唯則氏。昭和49年秋、写真に見るような鉄筋コンクリート2階建ての美術館にふさわしい見事な建物を自費で造り上げた。(略)
 小池氏は自らを歴史学徒といっているが、どうして自費で美術館をつくった人だけあって、加えて日本美術には造けいが深く、なにより芸術文化のよりよい理解者である。問われれば絵画についての説明も自らするし、見学者に気さくに話しかけてもくれる温かみのある美術館運営を目指しているようである。

植松光宏『山梨の博物館』徴古堂書店、1981

 以上、青楓美術館での小池氏を紹介した数少ない資料でした。
 ほかにも小池氏に関する資料があれば紹介してまいりたいと思います。

小池氏の横顔と「ふるさと」の歌詞

「小池唯則と津田青楓」

 小池氏と青楓の交流が始まってからは詳細な記録が残っています。「『青楓美術館図録』青楓美術館、1983」や「津田青楓『津田青楓デッサン集-裸婦-』岩崎美術社、1976 」の小池氏による解説に詳しいです。
 「小池唯則と津田青楓」はその記録に沿ってその交流に関連する作品を展示しています。

津田青楓(96歳)
出典 : 『青楓美術館図録』
建物と吉井忠《老先生の執筆を見守る小池唯則》1972

 1階展示室におよそ15点、階段を含め2階に30点の作品と資料が展示されています。
 展示室の撮影は出来ませんので、館内にある「小池唯則と津田青楓の交流年譜」より抜粋し、本展を紹介します。

交流年譜は配布もされています

「昭和46年(1971年)7月7日、小池唯則が友人の紹介で初めて青楓の画室を訪ね、10号ほどの日本画を依頼した。」
「昭和46年(1971年)8月6日、小池唯則が青楓の画室を訪問」

青楓美術館「小池唯則と津田青楓の交流年譜」

 昭和46年から、二人の交流が始まります。小池氏には晩年の10年であり、青楓にとっても90歳を超えてからの付き合いです。

「昭和47年(1972年)8月16日、吉井忠と小池唯則が画室を訪問。吉井忠《老先生の執筆を見守る小池唯則》を描く。青楓から自画像が与えられる。」

青楓美術館「小池唯則と津田青楓の交流年譜」
吉井忠《老先生の執筆を見守る小池唯則》1972
出典 : 『青楓美術館図録』

 《自画像》は1階展示室入ってすぐ左にあります。《老先生の執筆を…》はすぐ右手です。チラシのカットに採用されている作品です。

「昭和47年(1972年)9月1日、韓国旅行に出かける小池唯則に宛てて、青楓が手紙を送る。」

青楓美術館「小池唯則と津田青楓の交流年譜」

 この書簡は図録にあるのですが、本展には出ていません。内容はかつて朝鮮陶器を見てきたことや、柳宗悦の名前が出てきます。

小池唯則宛書簡1972年9月1日
出典 : 『青楓美術館図録』

「昭和47年(1972年)10月2日、小池唯則が甲州のふるさとに美術館建設を計画していると聞き、その資金にするために「墨美」発表の作品の一部40点を寄贈する。

青楓美術館「小池唯則と津田青楓の交流年譜」

 小池氏は、作品を売って資金の一部にするなどもったいないとして、美術館の収蔵品にしています。また『墨美』は2階展示室の階段のところのケースの中にある本です。

「昭和47年(1972年)12月21日、小池唯則の希望により、その昔留置場にて読める「一粒の残り飯を寄せ集め透間風くる板をふせげり」の歌を料紙にしたためる。」

青楓美術館「小池唯則と津田青楓の交流年譜」

 この歌は表装されたものが、2階展示室の奥に展示されています。青楓は、1933年(昭和8年)プロレタリア運動に傾倒し《犠牲者》を描いたことで逮捕されています。

「昭和48年(1973年)7月、小池唯則が甲州の一宮町に計画中の美術館の設計図を見せに訪問。「青楓美術館」の名称を希望したので承諾する。」

青楓美術館「小池唯則と津田青楓の交流年譜」

 「青楓美術館」に決まりました。小池氏は青楓に会ってわずか2年で美術館の名前を頂くほどの信頼を得ていたことになります。

「昭和49年(1943年)6月14日、梅が丘の本郷新のアトリエに小池唯則の案内で胸像仕上げのモデルに行く。
小池唯則の希望に応じて漱石、河上肇、良寛の画像を描いて送る。」

青楓美術館「小池唯則と津田青楓の交流年譜」

 階段を上がったのところに、常にある胸像のことです。また漱石らの肖像画は階段に展示されています。

「昭和49年(1943年)10月23日、甲州一宮の「青楓美術館」開館第一日なれば、酒井億尋の車に小池唯則が同乗して、夫妻で秋晴れの中央道を往く。快適。二時間余りで着。土産として寄贈の《青楓張り混ぜ屏風》と書、画を館内に収める。」
「昭和49年(1943年)10月24日、小池唯則に迎えられ、ふたたび館に至る。」

青楓美術館「小池唯則と津田青楓の交流年譜」

 開館当日の様子です。張り混ぜ屏風は、1階展示室の畳スペースにあります。張り混ぜ屏風とは様々な絵や書、短冊等をスクラップ帳のように貼交ぜた屏風の事です。良寛の歌などが張られています。青楓は屏風を車のトランクに積んで持参したのです。

「昭和49年(1943年)10月29日、青楓美術館の感謝を込めた手紙を小池唯則に送る。」

青楓美術館「小池唯則と津田青楓の交流年譜」

 1階展示室ガラスケースにある書簡です。住所と切手のある封筒も展示されています。

「昭和50年、3月、甲州の青楓美術館に収めるための25点の作品を小池唯則に寄贈。」

青楓美術館「小池唯則と津田青楓の交流年譜」

 青楓と出会う以前の昭和30年代の日本画が二階展示室にあります。西洋画に見えるのですが日本画です。それも25点のうちの一部でしょうか。

「昭和50年5月18日、毛利武彦作の津田青楓像を青楓美術館に寄贈すると、手紙で小池唯則に連絡する。」

青楓美術館「小池唯則と津田青楓の交流年譜」

 《津田青楓像》は1階展示室《疾風怒濤》の隣にある、青いベストを着てひじ掛けに手を乗せている白髪の老人の画です。画中の「老聾亀人」とは耳の遠くなった青楓のこと。手紙はガラスケースの中に展示されています。

小池唯則宛書簡1975年5月18日
出典 : 『青楓美術館図録』
《津田青先生像》毛利武彦1975
出典 : 『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和』

「昭和51年10月25日、岩崎技術社より『津田青楓デッサン集』出版、解説は小池唯則。」

青楓美術館「小池唯則と津田青楓の交流年譜」

 階段を上がったのところのケースの中にある本です。小池氏に贈られた古いデッサン画を一冊にまとめたものです。解説として小池氏が作った年譜は充実の内容です。

 ほかにも青楓晩年の富士山や書画があります。さらに青楓が絵手紙で有名な小池邦夫氏を描いたスケッチ画があるのですが、小池唯則氏と小池邦夫氏を勘違いしたものとか。

ぶどう畑のアートギャラリー「アート松下塾の仲間たち」

 「ぶどう畑のアートギャラリー」は、受付前のエントランススペースをサークルや個人の作品の発表の場として月替わりで提供する小さなギャラリーです。本ギャラリーのみの観覧であれば無料です。
 9月の作品展は「アート松下塾の仲間たち―ひかりアートは山梨のアート発信基地―」(2022.9.1~9.30)です。優しい雰囲気に包まれる展示会です。

「アート松下塾の仲間たち」
チョークアートのボード

 アート松下塾は笛吹市石和町にある絵画教室です。障がいのある方もいて生徒さんたちが自由な発想で制作されているそうです。本展は12名の20作品が展示されています。
 題材もタッチも自由です。特に中央の大きな作品「動物カーニバル」は世界地図の上に生息する動物たちがびっしりと描かれています。またその動物たちの色づかいがポップな色調ですが違和感がありません。このギャラリーの様子はNHK甲府放送局の地域ニュースでも紹介されました。

ひとつひとつ個性が光ります
染物でやさしく包まれた長椅子

ぶどう畑のアートギャラリー「一宮絵の会作品展」

 10月の作品展は「一宮絵の会作品展」(2022.10.3~10.30)です。地元の絵画愛好グループの作品展です。重要文化財慈眼寺の桜のほか、景色や植物など12点を展示しています。

「一宮絵の会作品展」
水墨、水彩、油絵など多彩

おわりに

 ぶどう畑のアートギャラリーは、筆者が訪問したときにも、こちらを目的に来られたご家族連れがいらしていました。ほかに青楓の作品を目的に来ている方もおられたようで、駐車場には車がいっぱいでした。館内の密を避け入館待ちでしたが、その間ゆっくり庭と周囲を眺めることができました。小さな美術館ですが、人が集う場になっていることは間違いありません。創設した小池氏の思いは引き継がれ、今も文化を通じた交流の場になっています。

統合(廃止)への動き

 青楓美術館を笛吹市春日居町の春日居郷土館・小川正子記念館へ統合するとする計画案が公表されています。山梨日日新聞(2022.9.2)によれば、市は老朽化、バリアフリー、大型バスの進入のためには周辺道路が狭い、等の理由から2025年度までに春日居郷土館を改修し青楓美術館を「統合」させる計画を公表しました。

山梨日日新聞2022年9月2日の記事

 私見になります。
 市は老朽化を理由に挙げています。しかし「耐震問題」とは言っていません。そもそも建物は鉄筋なのです。耐震はクリアしてるはずです。
 確かに、バリアフリーについてはトイレの改修や二階展示室への移動方法を考えないとなりません。腰かけぐらい展示室にあってもよいでしょう。
 大型バスの進入は、春日居郷土館であっても大型バスが必要なほどの需要は感じられません。

 統合されれば、「春日居郷土館・小川正子記念館・青楓美術館」になりますか。ならないでしょう。青楓作品の通年展示できるだけの展示場所がないからです。
 「統合」とは別々のものを一つにすること、学校の再編などで「統合」と言えば聞こえはよいですが、「統合」とは残るほうの目線です。他方にとってみれば「廃止」です。青楓の名前が残らないならば青楓美術館は「廃止」です。

 これは「計画」であり「決定」ではありません。しかし、予断を許さぬ状況です。小池氏の作った「ぶどう畑の美術館」です。山梨県最古の美術館です。この地に残ることを切に願い推移を見守っております。


参考文献
津田青楓『津田青楓デッサン集-裸婦-』岩崎美術社、1976 (解説、小池唯則)
植松光宏『山梨の博物館』徴古堂書店、1981
図録『青楓美術館図録』青楓美術館、1983
東八代広域行政事務組合編『東八メモリーズ・こんなひとがいた。』サンニチ印刷、2002
図録『背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和』芸艸堂、2020

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