【安藤家住宅】「横沢びな」と小笠原流礼法の節句飾り
はじめに
安藤家住宅は南アルプス市西南湖に所在する300年以上前の江戸時代後期に建てられた名主の家です。
前回は、安藤家住宅について紹介いたしましたが、今回は「安藤家住宅ひなまつり」(2024.2.9~4.8)と題して行われるひな飾りの模様を紹介いたします。
こちらのひな飾りは、庶民向けに作られた「横沢びな」と小笠原流礼法による節句飾りに特徴があります。また、この辺りのひな祭りは月遅れの4月3日です。そのため飾りは4月はじめまで行われます。
前回の安藤家住宅について紹介はこちらです。
安藤家住宅ひなまつり
古民家や郷土資料館などは季節に合わせた飾りを行うところが多いですが、こちらの安藤家住宅でも、ひな飾り、端午の節句飾り、七夕飾り、紅葉のライトアップなどを行っております。
江戸時代後期から昭和時代まで家庭で飾られた雛人形がおよそ300体展示されています。管理の職員に伺ったところこちらで展示している雛に人形はすべて市民からの寄贈品とのことです。そのため御殿飾りのように豪華なものもあれば、横沢びなのような庶民向けの人形も展示されているのです。
横沢びな
こちらで注目すべき「横沢びな」ですが、在地の庶民向けの雛人形で「添え雛」の一種です。「添え雛」とは雛段の周りに飾った、恵比寿、弁財天などの縁起物やおとぎ話などをモチーフにした人形のことです。
また「横沢びな」の「横沢」とは甲府の横沢町のことです。甲府駅の西側に横沢通りにその名がいまも残ります。江戸時代には横沢町に雛問屋が4軒あり、そのうちの2軒が、明治、大正時代に「横沢びな」を作り、売り子がかついで農村へ売り歩いたのだといいます。
明治・大正時代の庶民は豪華な雛飾りを用意することはできませんでした。それでも、子どもの健やかな成長を祝いたいという気持ち思いに対して安価で購入できるように作られたのが「横沢びな」だったといいます。
横沢びなのモチーフの中心は童子でした。
他には、高砂、七福神、記紀伝承上の人物、若衆、町娘など多彩なモチーフがありました。
初期の横沢びなは、埼玉で作られていた形を真似た「袴雛」という座った姿勢の童子の人形でした。下記画像の左端にあるのがそうです。
安価で購入できるよう作られているため、帯や背中を見ると和紙で作られています。人形の中身には藁が入れられていているそうです。こうして庶民でも節句を祝えるように甲府の問屋が作って売り子が売り歩いたのです。
横沢ひなが17体収納されていたとされる保管用の茶箱です。ネズミや湿気の害から防ぐため茶箱が用いられたことが多いといいます。
絵雛
横沢びなのケースの隣には、雛段を再現した絵を掛け軸にしたものがあります。「絵雛」というそうです。場所を取らずに飾られるとともに、掛け軸の中に段飾りの世界が表現されています。こちらも庶民向けでしょうか。
また、下記画像で絵雛の下に置かれているのが前述した「添え雛」と呼ばれるものです。
添え雛(浮世物)
ひな壇の周囲を飾ったと言われる「添え雛」ですが、「浮世物」とも称していたようです。浮世物は大正時代から昭和15年頃までさかんに売られていたといいます。縁起物や浦島・舌切雀・花咲爺などのおとぎ話のモチーフなど種類も多く作られたといいます。
小笠原流礼法の節句飾り
離れにある安藤家の茶室では「小笠原流礼法」による節句飾りが見られます。
小笠原流礼法は、室町時代に完成された武家の礼法(室町礼法)が元となったもので、今川流・伊勢流・小笠原流として伝えられた礼法のうちのひとつです。
南アルプス市に小笠原地区(旧櫛形町)があり、小笠原家初代の小笠原長清(1162年~1242年、応保2年~仁治3年)の屋敷跡があります。また、小笠原地区は江戸時代から近代まで、富士川舟運の陸路として信州と駿河を結ぶ駿信往還の宿場町として栄え、商店街にもその名残りがあります。
小笠原家は、清和源氏の家系です。小笠原長清の祖父は甲斐源氏の祖は新羅三郎義光(源義光)、母は和田義盛(「鎌倉殿の13人」に登場)の娘です。
長清は源頼朝に、弓術、弓馬術を教える師範となり、その後も子孫たちが鎌倉将軍家に仕えてきました。こうしたことからやがて小笠原流が武家の礼法のひとつとなっていったのです。
「小笠原びな」と呼ばれる千代紙で作った折りびなもあります。
小笠原清忠著『小笠原流 結ぶ折る・包む』(ハースト婦人画報社、2011)に作り方があります。途中まで折り鶴と同じ作り方です。
また、受付で来館者にプレゼントされる折りびなも「小笠原びな」でした。
御殿飾りひな
土間に戻ります。御殿飾りが多数並べられています。御殿飾りは、明治、大正期から昭和30年代まで流行した雛人形です。
京の御所をモチーフとした「御殿」のなかに男雛と女雛を配置したものです。ただしこの「御殿」は場所を取るため、昭和30年代以降は住宅事情などからすたれて家庭用として段飾りが主流になっていきました。
この家で一番格式の高い部屋とされる、奥座敷に置いてあるのも御殿雛です。段飾りの上が御殿になっています。一番豪華なものを配置したのでしょうか。ちなみに、寄贈品のため安藤家の雛人形はありません。
古今雛、段飾り雛
客用の玄関の間に飾られてますが、中央は御殿雛に代わって昭和30年代以降に流行した段飾り雛です。「昭和53年」と書かれた赤ちゃんの写真が添えられておりました。元の持ち主だったのでしょう。
両側には古今雛のセットが並びます。古今雛は享保雛以降のもので明治、大正と長期にわたり流行しています。女雛は冠をつけているなど華麗さをもった作りです。
しかし、男雛女雛が段飾り状態になっていて多すぎやしないでしょうか。
天神人形
中座敷に7段飾り雛がありますが、その奥に見つけたのが天神人形です。
「天神人形」は学問の神様である菅原道真の人形です。学問のほかに農耕の神様とされ、明治時代までは、上巳の節句(桃の節句)において、女の子には雛人形を贈り、男の子には天神人形を贈る習慣があったといいます。
安藤家と田辺家
安藤家の系譜などなかなか公式な資料が見つかりません。以前伺っている話ではこの住宅には、寄贈される昭和50年代まで奥さん(安藤高保の妻か)が住んでいたといいます。
その安藤家と甲州市塩山の酒造家だった田辺家とは縁戚です。
カミソリと呼ばれた切れもの田辺七六(衆議院議員、小林一三の異母弟)の妻は安藤家(安藤高保)の従姉妹です。
田辺七六の次男(長男は夭逝)である田辺国男は山梨県知事、衆議院議員を務めた人物で、妻は安藤家の娘(安藤高保の長女)です。ちなみに、この田辺国男が県立美術館の建設にあたり高額なミレー作品《種をまく人》などの購入決めた知事です。
また田辺家では、田辺七六の実弟田辺宗英は後楽園の社長を務めており、田辺国男の息子、田辺篤は平成の大合併で発足した甲州市の初代市長です。
ところで、面白いものを見つけました。田辺国男は当時流行のテレホンカードを作って配っていたようです。「清潔な種をまく」ってありますが、令和のいまなら完全にアウトです。
おわりに
古民家の雛飾りというと、甲州市にある甘草屋敷が県下最大として有名で、塩山駅のすぐ裏のため来館者も大変に多いです。
一方で、安藤家住宅は、交通の便が車しかないため混雑もせずほぼ貸し切り状態でゆっくりと見られます。横沢びな、添え雛、絵雛、天神人形など、あまり他では展示していない人形なので面白いと思います。
横沢びなについては、中央市「豊富郷土資料館」でも展示されておりお目にかかることができます。
昨年の甘草屋敷のひな飾りの模様はこちらをご覧ください。
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