【昭和町風土伝承館杉浦醫院】地方病の「記憶」を伝え残す資料館(9) 第3回地方病を語る会
はじめに
地方病の記憶を後世に伝え残す資料館こと昭和町風土伝承館杉浦醫院において「第3回地方病を語る会」(2024.9.8)が開催されました。
近頃は再刊となった『死の貝』で地方病を知り杉浦醫院を訪れる見学者が増えていると聞いています。「語る会」にも『死の貝』読み県外から訪れた参加者がおられ関心の高さを感じました。
トップ画像は、『死の貝』と「語る会」のきっかけとなった『地方病を語り継ごう』です。
これまでの「地方病を語る会」の模様はこちらをご覧ください。
風土伝承館杉浦醫院
杉浦醫院は、杉浦健造と三郎の父子二代にわたる医師が、献身的に地方病の治療と予防対策にあたった医院の跡です。国の登録有形文化財に指定されています。昭和町では杉浦醫院を地方病との闘いの歴史を後世に伝える「風土伝承館」として保存公開されています。
近年の来館者の増加の理由のおおきな理由として、Wikipediaにおける「地方病(日本住血住虫症)」の記事によるところが大きいです。甲府市在住のさかおり氏が書き手となり記事を充実させたことが「秀逸な記事」となり、ネットから地方病が知られることになりました。
さらに、知名度を上げたのは、丹治俊樹著『世にも奇妙な博物館』でした。著者がラジオ出演の折りに杉浦醫院を話題にされました。
なお、筆者もnote記事にて地方病と杉浦醫院について記しております。
「死の貝」の復刊
さらに新たな動きとして小林照幸著『死の貝』の文庫化再刊が挙げられます。Wikipediaの主要参考文献とされながらも絶版になりしばらく経っていました。Wikipediaが元で文庫化再刊となり地方病がメディアで扱われる機会がさらに増えました。
この本は日本住血住虫症を全国レベル取材し解説したいへん分かりやすい内容です。この杉浦建造、三郎父子に関する記述は少ないのですが、それでも杉浦醫院が見学先に選ばれるようです。
流行終息宣言(再掲)
1996年(平成8年)2月19日に地方病流行の終息宣言が山梨県により出されました。県が終息宣言を出した理由として、1978年(昭和53年)を最後に新規患者が確認されていない。1976年(昭和51年)を最後に中間宿主になる寄生虫に感染した宮入貝が発見されていない。この2点によります。
これにより地方病対策は宮入貝の殺貝事業から5年間の監視事業へ移行しました。
2002年(平成14年)昭和町押原の源氏蛍発生地公園に終息宣言の碑が建てられました。現在は杉浦醫院に移設されています。
「地方病を語り継ごう」(再掲)
地方病の流行終息宣言から25年が過ぎ、地方病の「記憶」を持つ人は年々少なくなり、地方病は「記録」のみになりそうな状況にあります。そうした現状もあり、節目を迎え昭和町教育委員会と杉浦醫院は関係者の証言や寄稿を集め、2022年6月『地方病を語り継ごうー流行終息宣言から25年ー』を発刊しました。
地方病体験記には48人の手記が載せられています。後半は医療関係を始め各分野の関係者からのなどからの寄稿文で構成されています。
そのチラシに、筆者の心を捉えた言葉がありました。
「(略) その記憶を後世に伝え、経験を生かしつづけるために、(略) 」(太字は筆者)
地方病に115年かそれ以上の長い戦いの歴史がありますが、残すべきは「記録」ではなく「記憶」なのです。そして「活かす」のではなく「生かす」とあります。地方病の記憶と経験を過去のものとせずに、生きたものとのして残そうとする杉浦醫院の地方病伝承館としての姿勢が現れているのです。「記憶を生かす」ことこそふさわしい表現であると感じました。
巻末の資料や年表も充実しているため、「地方病」に関する調べものをするうえでたいへん助かりました。価格は300頁のボリュームで破格の1,500円(税込)です。
第3回地方病を語る会
前置きが長くなりましたが、昨年から始まった「語る会」も3回目となりました。『地方病を語り継ごう』に寄稿下さった方から生の話を聞くもので、今回は罹患体験した自身ともに早く亡くなった同級生に関するお話と地元でミヤイリガイの調査員の経験も持つ方のお話です。
会場は杉浦醫院2階の学習室です。募集定員は30人で満席でした。県外から訪れた方が何組もおられ、さらには地元の小学生の男の子2人(5年生と3年生)も家族と参加されており、関係者を喜ばせておりました。
冒頭、進行役を務める館長から挨拶がありました。今回は東京、大阪、埼玉、静岡からも参加者がおられること。「地方病を語り継ごう」には48人の体験者の手記を寄せていただいていおり、この本を活かす方法として、書いて頂いた方の生の声を聞く機会を設けようと「語る会」を始めたことなどが語られました。
また、地方病教育推進研究会との共催であることから、事務局長で元教員のE氏よりあいさつと研究会の紹介と入会の案内がありました。研究会の活動は以下のもので筆者も研修会に参加しております。
・地方病の資料収集と整理
・児童向けに出張授業
・一般向け研修会の講師
・研修会(年2回)
「私の地方病」昭和町在住のAさんのお話
Aさんは昭和18年生まれ、杉浦醫院の向かいに実家があります。10年間公務員を務め、その後幼稚園を開園し昨年すべて引退したといいます。今は稲刈りをしたり、無尽に行ったりと自適な生活。81才となるがこれまで入院したこともなく「馬鹿でも達者」と笑います。
しかし、このあとお話を伺うと同級生はみな60代で亡くなっているのです。
Aさんから、昨年の地方病で自由研究をして入賞した児童の成果に目を見張ったことを紹介。「蛍が消えた町~昭和町の地方病との闘い~」と題された研究は「郷土学習コンクール」の小学校の部の最優秀に次ぐ6作品に贈られる優秀賞を受賞しました。
さて話を戻します。この杉浦醫院のあるのは昭和町の西条新田といいます。昭和町の北の外れに位置します。昭和45年の家は45戸150人が住む小さい集落でした。東西に600メートルの道路があり杉浦醫院はその中間に位置します。醫院の土地は3反歩(1反歩=300坪)ほどで水害を考慮してか50センチメートルほど土地は高く盛ってあるそうです。
池があるが周りは花木が植えてあり、駐車場のところはマダケの竹藪だったとのこと。診察が終わる午後からは飼い犬が放し飼いにされていて学校の帰りによく追いかけられたとか。
杉浦三郎先生は決して威張らない人で奥さん(健造先生の娘)も穏やかな人だったといいます。三郎先生はルノーの車を持っていました。輸入車ですがそれには訳がありGHQから4輪車の国産車は製造を禁じられていたからだそうです。
Aさんは3回(小4、小6、中2)も地方病にかかっています。杉浦醫院が近所だったおかげで3回とも早期発見で助かりました。
「大川で水浴びすると注射をしなければならなくなる」と当時の言葉です。つまり、鎌田川に入って水遊びをすると地方病に罹り治療のための注射を打つことになると言われていたのです。
しかしAさん危機感はなかったといいます。それはホタルが住む川できれいだったから、そんな危ない病気にかかるはずがないと思い込んでいたのです。
中学2年の時に6年生の男の子がひどい黄疸になって亡くなったのを見たといいます。また、叔父(昭和2年生まれ)は昭和37年に入院したが一向に治らないので調べたら地方病からの来る脳症だったそうです。Aさんも否応なしに地方病を意識せざるをえない状況になっていたようです。
結局子どもの頃、一緒に鎌田川で泳いだ同級生が60才にならずに亡くなっている。もし自分が川に誘わなければよかったのでは思うことがあるといいます。ほかにも同級生はみな早く亡くなってしまっています。
かつて農地の肥料として下肥を使っていたが、GHQが不衛生だといって昭和30年頃から使わなくなりました。各地で寄生虫による病気が減ったといいますが、地方病についても下肥をつかわなくなったことが撲滅の助けになったと思っているそうです。
また、近年水田にジャンボタニシ(外来種)が生息するようになったがこれに寄生する虫が広がりはしないか、また、側溝の隙間や水たまりどからミヤイリガイが増えて地方病が復活するようなことにならないか、心配はつきないそうです。
「地方病の記憶」中央市在住のTさんのお話
Tさんは昭和18年生まれで、家のある旧玉穂町は昔から有名な有病地でした。同級生たちも地方病に罹っていて治療薬スチブナールの注射を10本打った20本打ったと会話していたといいます。
かつてはホタルがいたのでヨシでホタル籠を編んだなどの思い出があるそうです。
農業をされていて、年に数回は地方病の撲滅作業に懸命に従事していたといいます。一番の効果は水路のコンクリート化で公共事業で10年15年かけてコンクリート化させたことが大きいといいます。
ミヤイリガイの調査員も地域で頼まれやっていた。もう最後の調査員だったといいます。
調査員については、前回の語る会で説明されたIさんが会場におられ活動内容について補足的に説明がありました。
質疑応答と参加者のお話
質疑応答では、質問の他にも、自身の体験や感想を語る方など活発な意見交換となりました。以下、質疑応答の概要です。
まず小学校4年生の時に地方病に罹ったという女性から証言がありました。この方はスチブナールを20本打つために三神医院(飼い猫から日本住血吸虫の発見に至った三神三朗医師の医院)に通ったといいます。腹が膨れた患者も見たし、私たちの地域だけに地方病があったことが悲しいとおっしゃっていました。
別の女性からも証言がありました。その方は小5と中1で2度罹ったといいます。罹ると40度の高熱に苦しめられたといいます。
1度目の時は、自宅のある御影村(現南アルプス市八田地区)の斎藤内科で20本注射に通いました。
2度目には、県立中央病院で治療したがこの時は新薬で注射は10本だったが副作用に苦しめられたといいます。
続いて、『死の貝』をテーマにした甲府市内の読書会に参加されてきたという男性教員の方の発言です。『死の貝』というタイトルはあまりに衝撃的であるが悪いのは貝ではない。人間の都合で一つの生物を絶滅に追いやることへの是非などを語ってくださいました。
続いて、さいたま市から参加の男性です。大学進学で山梨を出るまで、杉浦醫院の近所に住んでいたといいます。
三郎先生に診てもらったといい、スチブナールも打っているといいます。先生が亡くなる前の最後の患者ではないだろうかとおっしゃっていました。数十年ぶりに訪れた醫院の建物がなつかしく感慨深いものがあると述べられていました。
ところで、治療薬スチブナールを注射する費用について質問がありました。館長の調べでは現代の金額で1回7000円から8000円程度、これを20回打って治療は終わります。国民皆健康保険制度もなく全額負担のため20回最後まで打てる農民はすくなかったといいます。三郎先生はお金をとらず時には患者にご飯を食べさせて返してやっていたという話もあります。
さらにスチブナールについて元山梨県衛生公害研究所の梶原徳昭氏が参加者としておられたので解説いただきました。
スチブナールは大正12年に宮川米次先生(山梨地方病研究所)らが開発した駆虫剤でした。副作用と言われたのはアンチモン(重金属)を使用しているためです。寄生虫がその場から離れるという効果はあるものの再び戻ってくるという欠点もあったといいます。
治療薬としてはプラジカンデルもあるが、山梨ではスチブナールが用いられていたといいます。
別の女性から感想です。
その方は、甲州財閥に関心があり郷土史の本を見たことがある。根津嘉一郎などの名前が上がるが、偉人らを扱った本の中に、いち農婦の杉山なかさんが扱われていたことに驚いたといいます。
するとなんと、杉山なかさんの親戚というMさんが本日ここに来られていることが紹介されました。なかさんは54才で地方病で亡くなりますが、亡くなる前に地方病の解明のために解剖を申し出るのですが、その理由が「人として生まれまだ何もしていない」と言っていたのだといいます。
感想を述べた方もおられて、こでまでより充実した「地方病を語る会」
になりました。
2024年度の出前授業(予定)
今年も有病地の小学校へ出向いて出前授業を行うとのこと。2024年度(令和6年度)の予定を伺ったところ、3校増えて7市17校だそうです。昭和町の小学校は社会科見学で杉浦醫院を訪れるためこの数に入っていません。
社会科で郷土について学習をするのは4年生の10月~12月で集中します。学校が増えるほど館長だけで手が足りず回り切れなくなります。
そうしたことから2024年度(令和6年度)は、館長のほか、「地方病教育推進研究会」のE氏とM氏の元教員3人で担当することになるそうです。
おわりに
「第3回地方病を語る会」を紹介しました。県外からの参加者がいらしたり、回を増すごとに内容が充実してきました。
筆者も微力ながら地方病の「記憶」を残す杉浦醫院の活動に賛同し今後も発信して参ります。
ところで、昨年に続き現代アートと杉浦醫院のコラボレーション企画「現代アートLIVE×杉浦醫院」(2023.10.13~10.27)が予定されています。アート散策としてお出かけていただくのもよいのでは思います。
昨年の模様はこちらをご覧ください。
参考文献
山梨地方病撲滅協力会『地方病とのたたかい(体験者の証言)』山梨地方病撲滅協力会、1979
山梨県衛生公害研究所、梶原徳昭『地方病とのたたかいー地方病流行終息へのあゆみー』山梨地方病撲滅協力会、2003
昭和町風土伝承館杉浦醫院編『地方病を語り継ごう-流行終息宣言から25年-』昭和町教育委員会、2022
丹治俊樹『世にも奇妙な博物館』みらいパブリッシング、2021
小林照幸『死の貝』新潮文庫、2024