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ベッドの上で裸になりながら私は。

資生堂のメディア『花椿』webで連載されている漫画『ダルちゃん』に衝撃を受けて、うっかりツイートしたら結構広まってしまって、女の子たちが抱えている苦しさやもどかしさが一気に言葉になって溢れ出た気がした。ダルちゃんを読んでからずっと、「人間」になりたくて頑張っている女の子たちのことを考える。そして、私もそのうちの一人だ。毎日着飾る。それは自分の為なんだけど、そうすることで誰かになりながら生きようとしている。10話までのあらすじと、生きようと思った理由を残しておく。

みんな「擬態」して生きている

主人公の「ダルちゃん」は丸山成美という名前の24歳派遣社員を演じているけど、本当は普通の女の子に<擬態>しながら生きているダルダル星人。自分でもなぜ人間ではなくダルダル星人として生まれたのかはよくわかっていない。

“丸山成美”でいるときは、毎朝シャワーを浴びて、化粧を頑張って、窮屈なヒールを履いて、ニュースと占いを見ながら通勤して、給湯室での噂話に付き合う、ごく普通の派遣社員。「ちゃーんと普通の人間に見えるように惜しみない努力を続けて」いるんだって。

ダルちゃんは「この人間の世界にはそぐわない」と小学校のあたりで気づき始めてしまったものだから、こうしなきゃいけない、ああすれば良い、と必死で周りの女の子を観察してコピーして、この世界の仲間になろうとした。そうしなければ叱られたり、いじめられたり、バカにされたりしてきたから。女の子として合格点をもらえなかったから。

その絶え間ない努力の甲斐あって、24歳派遣社員になった今では咎められない、気に障らない、普通の女性に擬態することに慣れたらしい。たまに擬態しすぎて「自分が本当は何を考えているかわからなくなる」のだけど...

<擬態>という言葉のインパクトが強い。そして首を縦に振らざるを得ない。思い返せば私たちは「◯◯らしさ」を強要され続けてきた。女の子らしさ、子供らしさ、先輩らしさ、妹らしさ。その通り従っていれば波風立てずに生きていけるから、擬態するのは呼吸するのと同じようなことなんだよね。私は個性的とか、意思があるとか言われる部類だけれど、それでもどこか擬態しながら生きている。ダルちゃんが普通の女性に擬態しているように、私は「強い女性」に擬態している。そうしなければ、ダルちゃんみたいに自分を人間の世界に置いておくことができないから。

呼吸器を取り上げる女

擬態することは決して悪いことではないと思うの。でも人間はどうしても裸にさせたがる生き物だから、自分と同じ仮面をかぶっていない人を見かけると、その仮面を剥がしたくなってしまう。「その仮面では息苦しいでしょ、一度裸になって、私と同じものをつけようよ」って。

24歳派遣社員として人間の世界で平凡な生活を送っていたダルちゃんに、パチンとビンタを食らわす厄介な女「経理のサトウさん」が現れる。サトウさんは会社の飲み会で、男性社員からの侮辱(よくある自己肯定のための無意識の上から目線)をヘラヘラ笑いながら受け止めていたダルちゃんを一喝する。

「私はねあなたに そんな風に自分を扱って欲しくないんだよ」
「あなたの尊厳を踏みにじる奴らに あんな風に笑いかけちゃダメだよ」
「簡単につけ込まれて 人生を支配されちゃうよ」

ドラマだったらかっこいい女上司の登場で主人公の目が覚める、という展開だったのだろうけど、現実はもっと闇が深い。正義のヒーローが万人にとって正義であるとは限らないのだ。

ダルちゃんがこの件で最も嫌悪感を抱いたのは、自分を侮辱してきた男ではなく、サトウさんだった。ダルちゃんはとにかく“居場所”“役割”に敏感で、自分が人間の世界にいるためにそれらを必死で探してきた。だから、自分が「相手を満足させる役割」になれたのに、それをダメだと叱るサトウさんがとにかく憎かった。

私はサトウさんだから、この展開に苦しくなった。「強い女性」に擬態している私は、ダルちゃんみたいにヌルヌルとヘラヘラと生きている女の子が苦手。でも羨ましくもあるから、ついつい否定的な発言したり、サトウさんのように「そうやって生きていては自分のためにならないよ、強くならなきゃ」と価値観を押し付けてきた。

きっとその行為によって「ダルちゃんたち」がやっとの事で見つけた“居場所”や“役割”を否定し、こっちの方が楽だから!と仮面を剥がしてきたんだろう。私がたかだか仮面だと思っていたものは、彼女たちには人間の世界で生きるための呼吸器だったかもしれないのに。

自分の意思だと思い込む意思。

8〜9話ではサトウさんを打ち負かしたいという気持ちから呼吸が乱れたのか、侮辱してきた男と一緒にホテルまで来てしまったダルちゃんが描かれている。もちろんホテルに行くなんて思ってはいなくて、男と飲みに行ったり仲良くする様を見せることで、サトウさんにこう言いたかっただけなのだ。自分の意思で彼を好んで、笑いかけているのだよと。

「私この人のこと好きになろう」
「そうすればサトウさんも 自分が間違ってるって気づくわ」

私はサトウさんのはずなのに、ここばかりはどうしてもダルちゃんを咎めることができなかった。自分の意思と見せかけて、見栄を張ったり、誰かに復讐したかったり、見返してやりたかったり、そんな衝動からしてしまう「やらなければよかったこと」をしたことがあるから。きっと誰しもあるはずなのだけど、それを正当化するために自分の意思からきた行動だと思い込もうとしているのだ。

10話では、今まで「あははぁ〜そうなんですねぇ〜」と男の話に相槌を打つだけだったダルちゃんが、初めて自分の意思を持つシーンが描かれる。とうとうベッドの上でその時がきて、ダルちゃんは拒絶した。男は襲うのをやめ、「そういうの さみーんだよ」と吐き捨てて帰って行く。サトウさんに一喝された時に感じた「自分は汚い雑巾みたい」という感情を超えて

「...私は 打ち捨てられた生ゴミみたい」

そうダルちゃんは思った。

この表現に泣きそうになりながら、私にもそんな時があったなと思い出す。誰かに付けられた傷を、自分でえぐって観察することで、悲壮感に満たされる快感を味わう。そして幽体離脱するように自分を客観視することで悲しみを他人事のように思いこみ、痛みを忘れていく。ベッドの上で裸になりながらダルちゃんはきっと、擬態をやめて自分の声で叫んだことに驚いて動揺しているんだろう。誰かの正解であることが自分の正解だったダルちゃん。自分の意思を持った結果、誰かの正解に当てはまらなくなっても「自分の意思が正解」という選択肢を持って生きて欲しいと強く願った。ダルちゃんと一緒に、あの時の私に声をかけるなら、なんでそんなことをと叱るのではなく、それで良いんだよと抱きしめてあげたい。

生きながら死ぬのか、死ぬために生きるか。

誰かの正解であるように生きるなんて、そんな精神的にクソダサいことをするのは精神的死と変わらないから絶対にしない。でも生きるためなら多少は自分で自分の肉を削ぎながら、血を捧げなければいけないということも知っている。だから私たちは<擬態>する。擬態が本体になってしまっては、死んでしまうも同然なのだけれど。

生きながら死ぬのか死ぬために生きるのか、死ぬほど生きるのか。言葉は面白い。順番が違うだけで、つなぎが違うだけで、全く意味が変わってしまう。

「人と生きる」ということは、言葉を紡ぐことと似ていると思う。何かのきっかけで触れ合う順番が変わると、交わりも関係も変化する。そしてどこかで口を噤んでしまえば、もうそこから先には何も生まれない。相槌を打っているだけでは人と生きてはいけないのだ。

それならば私は死ぬほどうるさく生きようと思った。語順や使い方を間違えたって良いから、正解を考えながら黙ったりはしない。拙くも言葉を紡いで、誰かと会話をしながら生きていきたいと強く思う。

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