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『もののけ姫』全シーン非公式解説

 

はじめに

本稿は、宮崎駿監督作品、スタジオジブリによる『もののけ姫』(© 1997 Studio Ghibli・ND)に対する、いちファンの個人的解釈と解説を記すものです。

本稿で述べる解釈については、映画そのものから受け取った情報のみに依拠するものとし、ウェブ上のいろいろな俗説(サンとエボシは母娘なのか?)や、あるいは公式資料(もののけ姫ロマンアルバムという資料があります)も参照しないものとします。というのも、まず前者は情報の信頼性が保証できないものでありますし(私はサンとエボシは母娘ではないと思います)、後者は「普通の」ファン……単に『もののけ姫』が好きでときどきDVDやBDをレンタルしてきて観るよ、という方々が目を通しているとは限らないためです。また、作品理解の切り口としては「物語構造としてどうであるか」や「人物の思惑」、または「呪術的・魔術的意味合い」に重きを置きます。ですから自然、「展開」や「セリフ」、「キャラクターの表情」などについての解説が多くなることはご承知ください。

筆者はそういう「普通の」ファンですので、本書での解釈には公式見解や設定とは相反する部分があるだろうと思われます。ですから、この本はあくまで「私は『もののけ姫』をこういう風に観て、楽しんでいるんだ」という長い長い感想文のようなものです。本稿をお読みいただく皆様には、「なるほどこのシーンはこういう解釈もできるのか」とささやかな発見を提供できれば、これに勝る喜びはありません。


『もののけ姫』を分割する‐空間と時間の繋がり

最初に、『もののけ姫』の各シーンを、空間と時間によって分けて考えたいと思います。特に大きな区切りは空間の移り変わりで、『もののけ姫』には主に6つの「場」があると考えます。

1.  蝦夷の隠れ里の場・・・冒頭からアシタカが村を旅立つまで
2.  アシタカ旅路の場・・・アシタカがたたら場にたどり着くまで
3.  たたら訪問の場・・・・アシタカがたたら場を去るまで
4.  山犬の姫の場・・・・・アシタカをサンが介抱し姿を消すまで
5.  シシガミ狩りの場・・・シシガミ狩りが始まり首を飛ばすまで
6.  デイダラボッチの場・・エンディングに至るまで

『もののけ姫』では登場人物それぞれにも背景があり、思惑があり、それが複雑に絡み合って物語が進行していきます。ですから、出来事や登場人物の視点による分類では煩雑になることが予想されるためこのような大別としました。5と6は地理的には同じ場所ですが、シシガミのデイダラボッチ化とそれに伴う森の崩壊によって環境が大きく変わっているため、別の「場」として考えることとします。

次に本稿における時間の区切りについてです。これは一つの「場」の中で、時間が連続している場面を「1シーン」とカウントします。例えば「蝦夷の隠れ里の場」では、最初に祟り神が現れて村を襲撃し、これをアシタカが退治するまでが1シーンです。その次の場面では時間が夜になっています。

また、『もののけ姫』では(おそらくは意図的に)時間を飛ばしている部分も多く、一見すると連続しているように見える場面もあります。そうした場合には、どういった点で時間の経過がわかるかを解説した上で、別のシーンとして分けて考える場合と、それほど時間の断絶が大きくない場合にはひとまとまりのシーンとして扱う場合とがあります。

なお、本稿では作品名を指す場合は『』をつけて『もののけ姫』という表記で統一し、登場人物の台詞での「もののけ姫」は特に記号を付けずに表記します。

また、登場人物の名前は基本的にカタカナ(アシタカ、サン、エボシなど)としますが、一部漢字を併用したり(ジコ坊、モロの君など)、全て漢字(乙事主など)の場合もあります。エンドロールでの表記と合わせることも考えましたが、かえってわかりにくくなる部分もあるので基本はカタカナとしました。また、作中で名前のみで存在を仄めかされる人物・団体については、会話に登場したときに改めて触れるものとします。

『もののけ姫』概観‐ヒトと森の神々

本編に入るまえに、『もののけ姫』の世界観とおおまかな物語の流れをおさらいしておきましょう。本作は日本の古い時代(※1)を舞台として、人間の勢力(=たたら場)と森の神々(=モロの君、乙事主など)との戦いを中心に据えた物語です。たたら製鉄が発展し、人間は鉄を作ることで栄えている反面、そのためには森の木々を伐り、山を掘り出さなければいけません。この点で、『もののけ姫』はまず人と自然の対立を描いた作品だと言えます。

一方で、主人公のアシタカ(アシタカヒコ)は人間によって山を追われたイノシシ神から死の間際に呪いを受け、それを解く術を求めて西へ旅立ちます。その中で山犬の姫サンとの出会いや、エボシたたらの人々との関わりを経て、森とたたら場が共存する道を探ろうとします。これはアシタカの旅の記録でもあるわけです。

本来、森とたたら場の諍いにアシタカは無関係なはずです。アシタカの差し迫った問題は呪いによって食い殺される自分の身体であって、旅の目的もそこにありました。しかし、サン(森の勢力)に惹かれ、またエボシ(人間の勢力)が自分の呪いの発端であると知ることで、アシタカが関わる余地が生まれます。いわば、この二人はアシタカを物語の本筋と紐づける結び目なのです。

森と人の争いは予想だにしない形で終着点へ到達し、結果的には、人間側の勝利に終わったかのように見えます。しかし本当にそうだったのでしょうか? 本稿ではこの点も掘り下げて考えてみたいと思います。

では、前置きが長くなりましたが『もののけ姫』の世界へ旅立ちましょう。稀代の映像作品であり、重層的なテーマを含んだ荘厳な世界を、少しずつ紐解いていきます。

(※1)エボシが石火矢を「明国の」と言っていることから、1500~1600年くらい、日本では室町~戦国に相当する時代だと思われます。

1.蝦夷の隠れ里の場

シーン1 冒頭

一節の文言

むかし、この国は深い森におおわれ、そこには太古からの神々がすんでいた。」

 背景には霧に抱かれた深い森と険しい山々が連なり、神秘的な雰囲気を醸し出しています。ここでいう「神々」とは、「人間の理解が及ばないモノ」というような意味合いとして捉えるのが適当でしょう。今日でいう「神(=GOD)」とは異なる文脈です。また、峻険な山々は日本古来の山岳信仰の対象でもあり、ここにはアニミズム(※2)的な思想も現れていると見ることもできます。

カメラが下へと移動し、森の中を得体の知れない存在が徘徊していることがわかります。この文脈であれば、この得体の知れないなにかは、「太古からの神々」に近しい存在であろう、と私たちに予想させます。

(※2)アニミズム思想とは、草木や水、空、動物などあらゆるものに霊性が宿っているとする考えです。日本では古くから見られた思想で、現代でも農村部では「山の神」を祀る集会を開く地域があります。

シーン2 蝦夷の里、襲われる

➀野山を駆ける  

タイトルの表示から一転して、ヤックルにまたがって野山を駆けるアシタカです。このときのアシタカがなにをしているかというと、続く流れで「山の様子がおかしい」こと、「ヒイ様が皆を村に呼び戻している」ことなどが語られていますから、村の周囲を警戒し、はぐれた者がいないか見て回っているのでしょう。

アシタカは村の乙女たちから山の異変を聞き、じいじの下へ向かいます。余談ですが、このときアシタカが通っている通路は石垣でできており、囲いの中には稲のような植物が見えます。おそらく棚田の一種かと思われます。蝦夷の里は東北地方の深い山の奥にあるでしょうから、稲が青く茂っているのは7月~8月の、真夏です。

➁『もののけ姫』と陰陽道  

祟り神が現れ、アシタカとじいじのいるやぐらを襲います。祟り神は赤黒いミミズのようなもので覆われているため、かなり生理的に嫌悪感を抱くビジュアルです。太陽の光に当たると一瞬だけその下のイノシシ(ナゴの守)の顔が見えます。これは、恨みや憎しみの念からなる「祟り」は陰陽道でいえば陰のエネルギーであるのに対して、太陽の光は陽のエネルギーであるため、祟り神を怯ませたものだと考えられます。

実は、全編を通して祟り神が太陽の下に出ているシーンはここしかないのです。後に祟り神となる乙事主も、深い森の太陽光が遮られた中でのことですし、その直後に夜が来ています。

③語りかけるアシタカ、荒ぶる祟り神  

鎮まれ、鎮まりたまえ! さぞかし名のある山の主と見受けたが、なぜそのように荒ぶるのか

アシタカが祟り神に向けて語りかけています。ここでも一種の信仰が生きていて、日本の自然の神々は豊穣や恵みを与えるばかりではなく、時に荒ぶり、人に牙をむく存在でもあるわけです。人間はそれに対して「どうか鎮まりください」と希うしかないわけですね。古くは邪馬台国の卑弥呼に始まり、今日でも大災害の折に私たちが祈りを捧げるのと、本質的には同じです。
一方で、後々登場するエボシは鉄と火薬という人間の力で、祈りの対象であった森の神々を征しようとするので、アシタカたち蝦夷の生き方とは真っ向から対立しています。

山刀を抜くカヤ。仲間が転んで足をくじいたのを見て、すぐさま抜刀しています。カヤはアシタカの許嫁ですから、村の中でもそれなりの地位にいるお嬢さんのはずです。そこで弱い者、傷付いた者を見捨てずに神に立ち向かうカヤの気高さが見えます。アシタカはそれを見て、祟り神を殺す決意をします。

弓を射るアシタカ。第一射は祟り神の目を、第二射では露出したイノシシの眉間を射抜き、見事に仕留めます。「これほど巨大なイノシシを弓矢で倒せるのか?」という疑問もありますが、まず「すでに石火矢で重傷を負っている」こと、「祟り神となり、肉体は腐り落ちている」ことを考え合わせると、アシタカの放った矢がまさにトドメとなったのだろう、と予想できます。

しかし、アシタカは代償として右腕に呪いを受けてしまいました。

アシタカ、呪いを受ける

「カヤ、触れるな。ただの傷ではない……!」

アシタカが傷に土をかけているのは、おそらくは温度を下げるためでしょう。実際に、その直後に水をかけると蒸発するような描写があります。祟りとは、恨みと憎しみとは、宿痾のように熱を持ち巣食うものなのです。

「いずこよりいまし荒ぶる神とは存ぜぬもの。かしこみかしこみ、仰す」

ヒイ様のこのセリフは、現代風にすると「どちらかからいらっしゃいました、荒ぶる神であったとは存じ上げませんでした。かしこまってご挨拶いたします」というような意味かと思われます。その後には普通の言葉遣いに戻っていることから、これは祭祀者の使う呪い言葉であろうと推測されます。この土地では、こうした祭祀がまだ強く生きており、人々の生活に根差しているのです。

汚らわしい人間どもめ、我が苦しみと憎しみを知るがいい……

このセリフの直後、イノシシ神の肉体は腐り果て、骨だけを残します。この前まではまだ周囲に祟りのニョロニョロがいますが、セリフの後はニョロニョロもただの赤黒い液体になっています。まさに、この大イノシシは憎しみのエネルギーによって命を繋いでいたのです。


シーン3 夜の里、アシタカの旅立ち

➀蝦夷の里の夜

時間が夜になっていますので、別のシーンとしてカウントします。村の中央、広場が映ります。数人の村人が上の方を見上げていますが、これはヒイ様をはじめ、村の長老たちが集まって会議をしているため、気になっているのでしょう。もしかしたら、いつもであればすでに村は寝静まっている時間帯なのかもしれません。

「さて、困ったことになった」

呪いをするヒイ様。使用しているのは磨かれた(ぎょく)と瑪瑙(めのう)のような石、動物の骨、植物の枝のようなものも見えます。これは針葉樹の枝で、冬でも緑の葉をつけることから洋の東西を問わず祭祀者や呪術師が生命の証と考えるイチイの一種ではないかと思われます。それぞれの石にも魔術的な意味合いがあるものと思われますが、不詳。とはいえ、蝦夷の里ではこうした呪術や、自然に対する信仰が重要な位置を占めていることがうかがえます。彼らは自然に敬意を払い、自然と調和して生きる民なのです。この点で、サンはアシタカを「森の敵」として認識しなかったとも考えることができます。

「アシタカヒコや、みなに右腕を見せなさい」

アシタカが右腕の痣をあらわにすると、里の長老たちは息を呑み、愕然とします。彼らはこの痣がなにものであるかを知っているのです。この場で知らないのはアシタカだけであり、視聴者はこの反応を見て、自分がアシタカと同じ「知らない」立場にいることを自覚します。

「その痣はやがて骨まで届いて、そなたを殺すだろう」

無言で俯くアシタカ。直後の長老たちの言葉にもあるように、アシタカは村を守ったのですが、にもかかわらず死の定めを負うこととなりました。当然、アシタカは深く絶望し、納得がいかないわけですが、それを表には出さず、精一杯こらえているのです。そんなアシタカに、ヒイ様はイノシシに重傷を負わせた「つぶて」を示し、西の国で起きていることを見定めるなら、呪いを絶つ道が見つかるかもしれない、と諭します。

蝦夷の歴史

「大和との戦に敗れ、この地に潜んでから500ゆう余年……」

史実での蝦夷征伐は文応2年(1320年)頃まで続いていますから、その500年程度後であれば、やや誤差はあるものの先に述べたとおり中国の明の時代と重なります。ここでの長老のセリフが示すのは、アシタカたち蝦夷の民は、すでに一度敗北した民族だということです。今や時代は大和朝廷と蝦夷の戦いではなく、人間の鉄の力と森の神々の対決へと移り変わっています。いわば、蝦夷の民は時代に取り残された一族なのです。

断髪するアシタカ  

髪を切り、村のご神体であろう巨岩へと捧げています。この、髪を自らの身代わりとする文化は日本のみならず世界中で見られる傾向です。また、髪を切り、村の共同体から去るということは、痣を受けたアシタカはこの村にとってもはや「ヒト」として扱われない「穢れ(ケガレ)」であるという示唆も含んでいます。

実はここで、断髪の際と旅装へ転身で、細かな時間経過があります。というのも、例の「つぶて」を懐に収めるタイミングは描かれていませんが、断髪の直前しかなく、その次の場面ではすでに旅装になっているため、若干の時間経過があると考えるのが自然です。が、ここでは別のシーンとして分けることはしませんでした。

➃カヤとの別離

「あに様!」

「カヤ! 見送りは禁じられているのに」

この「場」の結びとなる場面です。カヤはアシタカをあに様と呼びますが、兄妹ではなく村の許嫁である、というのは有名な話です。カヤは玉の小刀をアシタカに渡します。この場面は、この二人の今生の別れなのです。お互いにもう二度と会うことはないと理解した上で、せめてもの無事を祈って、この小刀のやり取りがあるわけです。これは後に、アシタカがサンに小刀を託すときにも詳述します。

「私もだ。いつもカヤを想おう」

涙を浮かべるカヤに、アシタカは微笑みかけて村を去ります。ではここで、先ほどのヒイ様とのやり取りを思い返してみましょう。あのときのアシタカは、内心穏やかではいられませんでした。村を守ったのに、なんでこんな目に遭わなくちゃいけないんだ……。というのが正直なところです。それはこの場面でも同じなわけです。しかしそこはアシタカ。カヤにそんな自分を見せたりはしません。ここでも精一杯、穏やかに微笑んで見せて、その直後、逃げるように村を去るのです。それ以上強がることができなかったアシタカの、人間的な限界だったわけですね。


2.アシタカ旅路の場

シーン1 アシタカの長旅

高原を駆けるアシタカとヤックル

険しい山道を進むアシタカなどが映し出されます。ここでも、時間的・地理的には大きな移動なのですが、物語の本筋とは絡まないので一まとまりとして扱います。二つ目のカットでは高山植物のような低木が見えることから、かなり標高の高い山越えをしていることがうかがえます。三つ目のカットで、広い平原を横切っているのがわかります。アシタカは東北の山奥から西へ西へと向かっているので、ここは関東平野の一端なのかもしれません。 大きな川を渡る場面では、手前に鮮やかな青色の鳥が見えます。水辺に生息するカワセミの一種だろうと思われます。

この移動の間、一貫して荘厳で雄大なBGMが流れているのも注目です。村を出たときのアシタカの複雑な心境を、厳しく美しい自然が少しずつ癒やしていくという表現でしょう。

シーン2 地侍の戦

➀「……戦?」 

人里に降りたアシタカ。地侍たちの戦に出くわします。黒煙が上がっており、屋敷が襲われているように見えます。遠くで逃げ惑う人々の中に、小さくジコ坊の姿も見えます。

「野郎! 兜首だ!」

アシタカを襲う侍のセリフです。兜首とは文字通り、兜をかぶった首、ということ。つまりある程度の地位にいる武将を指します。戦国の時代、敵将の首は勝者の証でありますからこうした表現になります。アシタカは赤い頭巾をかぶっていますが、これが侍たちには兜に見えたということです。

アシタカの右腕

「なんだこの腕は!?」

放った矢が侍の両腕を吹き飛ばした直後のアシタカのセリフです。アシタカの右腕が衣服の下で蠢き、人ならぬ膂力を発揮しています。矢は侍の腕ではなく刀の柄に当たったにもかかわらず、肘から先を丸ごと切断しているのですから、尋常ではない威力です。これは、呪いである祟り神の痣が同時に、人外の力をもアシタカに与えているという、最初の描写です。これ以降、アシタカの怒りや憎しみ、闘争心に呼応して、痣はその力をアシタカに与えていきますが、同時に呪いとして深く身体を蝕んでいきます。

「逃がさぬぞ! 見参!」

アシタカを追う侍のセリフで、『もののけ姫』でも特にわかりにくいセリフその一です。ここでの「見参」は「見参せよ」という命令形の略で、アシタカへの「逃げずに堂々と戦え」というほどの意味でしょう。これに対してアシタカは「押し通る! 邪魔するな!」と答えています。

③「鬼だ……

アシタカの矢が侍の首を飛ばし、それを見てもう一騎の侍が思わずこぼした一言です。鬼とは人外の魔であり、神よりも人に近しい存在。かつては人でありながら、魔となったモノへ使われる呼称です。図らずも、呪いによって人の枠を外れつつあるアシタカを適切に表しています。

岩間から流れ出す水で右腕を清めるアシタカ

「痣が濃くなっている……」

実際に、蝦夷の里で見たときよりも痣の範囲が広がっています。この岩の上には小さな祠があり、地元の人々にとって神聖な場であろうことが窺えます。こうした清らかな水は魔を退けるものですから、アシタカもそれを承知でこの場を選んだのでしょう。水に霊性を見出す文化は比較的一般的なものですが、中世以降の西洋では浄水技術の発達が遅れたことから、飲料水自体が貴重なものでした。そのため昼間からワインを飲むような文化が発達したという側面があります。つまり水の聖性はその貴重さとも結びついていました。一方で日本は水資源が豊富ですから、水(特に、山から湧きだす水)に霊性を見るのはアニミズム的な世界観に依拠しています。山岳信仰と相まって、神聖な山から湧きだす水もまた神聖である、というわけです。

シーン3 村の市、ジコ坊、アシタカ

戦場の近くにも暮らしがある

近隣の村のようです。竹を担ぐ人や、馬に乗った人物もいます。近くで戦が行われているとはいえ、こうして日常の生活も営まれているわけです。これは特に珍しいことではなく、戦争と人々の煮炊きが近距離であるのは、古くから世界中で見られる状況です。戦となれば物要りになり、そこには商機があるのですから、命知らずの商人たちも集まります。戦士たちも、ただ破壊するだけが能ではないので、戦の後のことを考えればこうした市や非戦闘員には極力手を出さない方が得策、というわけです。例外はあり、敵対関係にある領主の土地を荒廃させるためにわざと略奪を行う場合もあります。先の地侍の戦もこうした類のものでしょう。

白湯みたいな飯を食うジコ坊

ほとんど米の入っていない、煮ただけの代物なのでしょう。戦とあれば物価が上がり、米もまた値上がりするためです。周囲の人々は画面右に注目しています。その先には人だかりがあり、アシタカがいます。「おっ、いたいた」と立ち上がるジコ坊の後ろで町人風の男が米粒を吐き捨てますが、アシタカのような得体の知れないよそ者への態度としては、これくらいが普通でしょう。

「これでよいか」「なんだいこりゃ、おアシじゃないじゃないか」

米を買った代金としてアシタカが砂金を出し、米売りの女がこう返します。おアシとは「御脚(おあし)」、お金のことです。この地域で流通している貨幣まではわかりませんが室町時代だとするなら永楽通宝が出回っていたはずです。これは偽造貨幣(ビタ銭)も多く、実際の経済はまだ物々交換が主のところもあったようです。いずれにしろ、普段使用されている貨幣とは違うものを出されたので、女はそれをお金として認識していない、ということです。

「待て待て、拙僧が見てやろう」

ジコ坊が助け舟を出します。「銭が良いなら代金はワシが払おう。これを譲ってくれ」といかにもこの砂金が大層な高値であるようにふるまいます。米売りの女がジコ坊の顔と砂金を見比べているのに注目です。画面では映っていませんが、このときのジコ坊はよほど欲深そうな顔をしていたのでしょう。「この近くに両替屋はおらんかのぉ?」と周囲の人々を巻き込み、煽るのも流石の手腕です。僧侶というよりは、凄腕の商人といった風格があります。

アシタカと並んで歩くジコ坊。「礼などと申す気はない」とは先ほどの助け舟に関してのセリフです。「田舎侍との小競り合いに巻き込まれた折、そなたのおかげで助かったのだ」(※3)と謝辞を述べます。背後から荒くれが近づいているのを察し、二人は急いでその場を去ります。

(※3)物語の進行上、特段触れられていませんが、ジコ坊はそもそもなぜたたら場から離れたこの地域にいるのでしょうか? これは後ほど「天朝様の書付」や「唐笠連の師匠たち」との関わりを仄めかすところから、そうした背後の組織へのなんらかの連絡や謁見、報告のためにこの地に用事があったのではないかと推測されます。他の武僧たちがジコ坊を「お頭」と呼ぶところから、ジコ坊自身は実行部隊の長だと思われますから、なにかしら、ジコ坊本人でなければできないような任務に赴く途中か、その帰りなのでしょう。


シーン4 夜、旅のわけを話すアシタカ

ジコ坊との食事

アシタカは祟り神となったナゴの守の足跡をたどってここまで来た、と語ります。里に下りた途端わからなくなった、と言うアシタカに、ジコ坊は崩壊した村の跡を示します。「洪水か地滑りか」があったために、足跡がわからなくなったのだろう、ということです。

「ん、んまい……」

鉄鍋の米に味噌を足したジコ坊の一言です。米はアシタカが買ったものですが、室町くらいの時代であれば味噌のほうがより高級品です。それを惜しげもなく振る舞うのはジコ坊なりの誠意か、アシタカを油断させ、懐柔するための策でしょう。この鉄鍋がどちらの持ち物かは不明ですが、岩手の南部鉄器にも似ていますから、アシタカのものである可能性もあります。

「そなたを見ていると、古い書に伝わるいにしえの民を思い出す」

ここでアシタカが蝦夷の一族であることがはっきり示されます。同時に、これはジコ坊が単なる生臭坊主ではなく、鋭い観察力と深い知識を備えた人物であることも表しています。

「さ、そなたの米だ。どんどん食え」

それにしてもジコ坊、人の金で買った米をどれだけ食うつもりなのでしょうか。

「このようなものを見たことはありませんか」

例の「つぶて」をジコ坊に見せるアシタカ。この問いかけにジコ坊は、しばしの沈黙を挟み、「これよりさらに西へ西へ進むと……」と答えます。直接的な回答にはなってないのですが、これがジコ坊なりの情報の与え方のようです。つまり、「そなたの求めている答えははるか西の、シシガミの森にあるぞ」と暗に語っているのです。権謀術数渦巻く中で生きてきたジコ坊らしい言い方です。(※4)

またこの場面では、はじめのうちは勢いよく燃えていた鍋の火が、急に小さくなっているのも注目です。これは話の内容が単なる身の上話から、きな臭い暗部に接近しているという暗示でもあります。

(※4)なぜジコ坊はアシタカをシシガミの森へ、ひいてはたたら場へ誘導したのでしょうか。それはジコ坊がこの後にやらなければいけないことを考えればおのずとわかります。ジコ坊たちはシシガミ狩りを控えており、たたら場にはできる限り人手が欲しいわけです。その点、アシタカは先の戦で見た通り一騎当千、うまく利用すればシシガミ狩りに強い戦力が手に入る、というわけです。

シーン5 牛を追い立てるたたら場の衆

たたら場衆を襲う山犬

はげかけた山の狭い道を、たたら場の牛飼いたちが牛を伴って進んでいきます。朱い大きな傘と石火矢を携えているのは石火矢衆で、後のトキのセリフでもあるように牛飼いたちの護衛です。なぜ護衛が必要なのかは、この直後山犬が襲ってくるというところからも明らかですが、それだけではなく先のアシタカが立ち寄った村でもそうであったように、あちこちで地侍たちの小競り合いが頻発しており、牛やその荷は略奪の対象となりうるからです。護衛がごく少人数なのは、石火矢の威力を信頼していることと、たたら場の守りを薄くしないためだと思われます。

➁日本の旧き神々

「出たぞ! 犬神だ!」

斥候を担当する石火矢衆のセリフです。犬神とは本作では山犬のこと。
元々、日本はオオカミを神聖視する傾向にある土地です。オオカミは「大神(おおかみ)」。すなわち山の大いなる神です。クマやイノシシと違い、オオカミは極めて賢く集団での狩りを得意とする、社会的な動物です。その様に、島国社会、ムラ社会の日本人が尊い動物として神格を与えるのも不自然ではないでしょう。とはいえ、『もののけ姫』では犬神たちはたたら場と敵対する森の勢力であり、エボシたちの敵となります。これも人間の技術力が向上し旧来の尊崇と共生の対象であった自然が、開拓し征服する対象となったことを表しています。この山道がほとんど草木のない状態なのも、もしかしたらたたら場での燃料として使用するために伐採を進めた結果なのかもしれません。

石火矢からわかること

石火矢の発射シーンに注目してみましょう。発射した直後、大量の煙が出ているのがわかります。また、ゴンザが「急いて火薬を濡らすな」と言っていることもあり、ここで使用されているのは湿気に弱い黒色火薬であろうと推定できます。時代としては火縄銃も伝来していておかしくないくらいの年代に入っていますが、それらしいものはなく、エボシの使用する新式の石火矢がかろうじて近い様式をとっているようです。石火矢の発砲音が響く中、一瞬だけ森の中を進むアシタカが映ります。ここで、アシタカが近くに来ていることがわかります。

エボシの冷酷

「隊列を組みなおせ」

ゴンザの「谷に落ちた者はいかがします?」に対するエボシの回答です。谷底に落ちた牛飼いは捨て置き、たたら場への帰還を優先します。また、この後アシタカがたたら場に到着してからも、行方不明者を捜索するような素振りはありません。為政者としてのエボシの冷酷さが垣間見えるセリフです

シーン6 アシタカとサンの出会い

アシタカ、名乗る

川から怪我人を引き上げ、なにかの気配を感じてあたりを探るアシタカ。その前に現れるサンと山犬たち。サンの素顔が初めて露わになる場面です。サンはモロの傷口から血を吸いだしていますが、これは石火矢の「つぶて」が毒性を持っているためです。蝦夷の里でも、ヒイ様がナゴの守が祟り神となったわけを「深手の毒に気触れ……」と説明しています。サンは作業に必死で気が付いていませんが、モロの君はアシタカの存在を察知しており、牙をむいて威嚇します。

我が名はアシタカ!

アシタカの「名乗り」です。歌舞伎がそうであるように、主役がその出自と名前を宣言する場面です。同時に、ここでは「シシガミの森に住むと聞く古い神」に対して名乗らずにいては失礼にあたる、という蝦夷の自然への向き合い方が現れています。

「去れ!」

アシタカの名乗りに対するサンの返答です。乙事主が「森を去れ。次に会うときはお前を殺さねばならん」と言うように、森の神々は礼儀をわきまえた人間に対して、一度目は「警告」を行うのです。ここで、サンと山犬たちはアシタカをたたら場にいるような敵対する人間ではなく、古い時代の礼節を知っている人間として認識するわけです。そうでなければ、この場で襲われていたでしょう。
アシタカはサンの返答にひどく驚いた顔をします。これはまず、「森の神の一人」かと思っていたサンが普通の人間のように返答をしたこと自体に対する驚きと、人間であるサンが森の神々と共に森で暮らしているということに対する驚き、二重の驚愕だったと思われます。アシタカの蝦夷の里にあっても、あくまでも人間の領域と森の神々の領域は分け隔てられていました。
人が森の神に混じって暮らしている、というサンの存在は、『もののけ姫』の世界でさえ、とてつもない異端なのです。

すぐ後の場面で登場するコダマについても触れておきましょう。コダマとは「木霊」ですから、木に宿る精霊の一種です。『もののけ姫』は全編を通して、こうしたアニミズム思想が見て取れます。「森が豊かなしるし」である彼らをアシタカは以前から知っていたようですから、蝦夷の里でも見たことがあったのでしょう。

シーン7 森を抜けるアシタカと甲六

アシタカと甲六、自然観の違い

アシタカは怪我をした石火矢衆を背負って森を抜けようとします。その周囲を多数のコダマが付き従っています。ここで、アシタカはコダマを「道案内をしてくれているのか、迷い込ませようとしているのか」といたずら好きの妖精のように捉えているのに対して、甲六は「こいつらわしらを帰さねぇ気なんですよ」と気味の悪いものを見るような顔をします。ここでは、アシタカ(自然と共生する蝦夷の民)とたたら場の人々(自然を消費し征しようとする、力を持った人間)が対照的に描かれています。たたら場の人々にとって森は「敵」であり、恐ろしいものなのです。

「旦那、今度こそやばいですよ。ここはあの世の入口だ……」「そうだな、ちょっと休もう」

口先では同意しつつもまったく話を聞いていないアシタカ。意外と頑固者です。

シシガミの治癒力

「蹄が三つ……まだ新しい……」

シシガミの足跡です。アシタカは周囲を見回して遠くにシシガミの姿を認めるわけですが、シシガミが登場する前と後ではアシタカの虹彩のハイライトの入り方が違います。まさに「括目している」わけです。

その直後、右腕が暴れ出し、アシタカは池の水に腕ごと突っ込んで事なきを得ます。ここでも、先述したとおり清水には浄めと退魔の効果があるためです。シシガミが立ち止まり、アシタカを見ている間、腕は暴れ続けますが、これは二通りの解釈ができます。
まず、シシガミの助けを得られなかったナゴの守の怨念や無念が、シシガミを前にして爆発している、という見方。一方で、シシガミはその視線だけでもある種の治癒の力、生命に干渉する力を持っており、それがアシタカに流れたために、アシタカの命と結びついている呪いが刺激されたという考え。あるいは、その両方なのかもしれません。この後のシーンで、アシタカが「急に体が軽くなった」と言っている(実際、このシシガミとの邂逅の前は汗だくだったのが、後では顔色一つ変えずに軽々と怪我人を運んでいる)ことからも、このシシガミとの接触自体に一定の効果があったと見ることは可能です。


3.たたら訪問の場

シーン1 エボシたたら

アシタカ、たたら場を訪れる

森を抜けたアシタカの前にエボシの大たたらが現れる場面です。次々に映し出されるのは製鉄に関わる作業をしている人々で、かなりの規模であることがわかります。また、エボシのたたら場はその周囲を尖った杭で囲まれています。これはサンや侍の襲撃に備えるという実際的な用意であると共に、物語的には「森」と「人」を分かつための境界、防壁としての意味合いもあるのでしょう。

「まるで城だな……」

エボシたたらを前にしたアシタカのセリフです。それに続いて、アシタカは頭巾の口当てを上げ、素顔を隠します。警戒心の表れですが、後ろの甲六は「エボシ様の大たたらでさぁ」と誇らしげです。ここにも、自然と共に生きるアシタカの文化と、自然を征しようとするエボシ達の文化の陰影が見て取れます。

シーン2 怪我人を届ける

アシタカの得体の知れなさ

甲六と負傷した石火矢衆をたたら場に送り届ける場面です。ここでアシタカとエボシが初めて出会うほか、ゴンザやトキなど、たたら場の主要な人々が登場します。

「怪我人を届けてくれたことまず礼を言う」

ゴンザのセリフです。これに続いて、「だが得心が行かぬ」と不信感を露わにします。というのも、アシタカはゴンザたちがたたら場に着いてから「半時もせぬうち」に、「谷底から大の大人を二人」連れてきたからです。それも、たたら場の衆にとってはもののけがうろつく危険極まりない場所であるシシガミの森を抜けて、となれば、常人にできることではありあせん。ここでのゴンザの不信は、「この得体の知れぬ者はもののけの仲間かなにかではないか」という疑念、その背後には、エボシのたたら場を守らねばならない、という使命感が垣間見えます。

エボシのカリスマ

「なにさ偉そうに。怪我人を捨ててきやがって」

ゴンザに対するトキのセリフです。これにゴンザは「仕方なかろう……」と抗弁しようとするものの、トキはバッサリと無視しています。視聴者に、要職に就いているはずのゴンザよりも、むしろたたら場で暮らすいち職人のトキの方が発言権が強そうだということを印象付けています。
エボシたたらは女性優位であり、女たちが男以上にたくましく働いていると、端的にわかる場面です。実際のところ、ゴンザは先のシーンで「谷に落ちた者は~」と怪我人を心配しており、見捨てる判断をしたのはエボシなのですが、たたら場の女たちはエボシに心酔しているため、その事実には思い至りません。このエボシへの忠誠はエンディングまで一貫して表現されています。

旅のお方。ゆるりと休まれよ

エボシからアシタカに向けられた最初のセリフです。この前のトキとのやり取りから、周囲の人々が視線や表情を変える中、アシタカだけが微動だにせずにじっとエボシを注視しています。エボシもまた、このセリフ直前にわずかな間があります。ここで、完全に初対面のはずの二人の間にすでに緊張感が漂っており、この後の衝突を予感させています。この後でアシタカが頭巾の口当てを取るのも、宿敵が去って緊張がほどけたことを暗示します。

シーン3 たたら場の夜

牛飼いの通夜

「静かにしねぇか、通夜やってんだぞ!」

アシタカを一目見ようとやってきた女たちに向けた牛飼いの言葉です。甲六は助けられたものの、他にも谷に落ちた牛飼いがおり、その追悼のためのお通夜のようです。アシタカがそこに混ざっているのは甲六を連れ帰った恩人であることと、ゴンザやエボシからしてもアシタカをどう扱うか決めかねている部分があったのだと思われます。

余談ですが、ここで黄色い声を上げている女たちの中で真ん中の紺色の着物の女性は、終盤、たたら場が侍に襲われる場面でもアシタカを見るや否や恋する乙女の顔になるので、注目すると面白いかもしれません。

「ふん! その米を買う鉄は誰が作ってんのさ!」

牛飼いの頭に反論する女のセリフです。これに「あたいたちは夜っぴいてたたらを踏んでるんだ」と続きます。「夜っぴいて」とは夜を徹して、の意味。たたら製鉄では炉の高温を保つため、絶え間なく空気を送り込む必要があり。そのための「ふいご」の役割を果たすのが踏んで動かす「たたら」です。

ナゴの守討伐の段

「良い村は女が元気だと聞いています」

頭に対して返答するアシタカ。アシタカが暮らしていた蝦夷の里も、ヒイ様を長とする女系の社会でした。このような女を頂点とする集団は古くは邪馬台国の卑弥呼がそうであるように、女性に一種の魔術的・霊的な神聖さを見出す傾向にあります。とはいえエボシがたたら場を取り仕切っているのは実際的な運営の手腕によるものでしょう。

「山犬なんかメじゃねぇさ。ナゴの守をやったときなんか見せたかったけん、なぁ?」

牛飼いのセリフです。エボシの戦果を誇らしげに語る一方、牛飼いの頭は複雑な面持ちで、「俺たちの家業は山を削るし、木を伐るからな」と言います。たたら場の人間たちの間にも、森に対する敵愾心や尊崇の度合いは温度差があるようです。この会話をきっかけに、ナゴの守が狩られる場面の回想へと移ります。

通夜は宴会へと移り、裸踊りも始まり、牛飼いたちは楽しげな様子ですが、BBGMはどんどん不穏なものになります。アシタカの外では人間たちの明るい世界が、内面では神が森を追われる陰惨な世界が展開しているのです。

「そこへエボシ様が石火矢衆を連れて現れたってわけだ!」

石火矢衆を率いるエボシ。この段階でゴンザはエボシに付き従っているようです。ゴンザ自身も元々石火矢衆の長だったのかもしれません。また、このときにエボシは自分で開発させた新式の石火矢を持っていますから、すでにそれなりの規模の組織と力を持っていたようです。

シーン4 エボシの秘密

エボシの笑いに込められた意味

鋼を検品するエボシ。アシタカは右腕の痣を見せ、呪いについて語ります。

「そのつぶての秘密を調べてなんとする」

「曇りなき眼で見定め、決める」

エボシにとってこの「つぶて」は新式の石火矢に関わる重要な秘密です。現代風に言えば軍事機密にあたるわけです。どこの馬の骨とも知れないアシタカにペラペラしゃべるわけにもいきません。そこでこの問答が出てきます。
アシタカの返答を受けて、エボシは心底可笑しそうに笑います。この笑いはアシタカの純粋さ、無知さに対する嘲笑というより、「そんな純な答えをよこすような若者をいたずらに勘ぐってあれこれと考えを巡らせていた自分」の滑稽さを笑っているのでしょう。もっと言えば、「曇りなき眼」など誰も持ちようがない、とわかっているゆえに出た、幼子のあどけなさに零れるような笑いだったのかもしれません。

アシタカ激昂

「この者たちの考案した、新しい石火矢だ。明国のものは、重くて使いにくい」

エボシの「秘密」です。石火矢衆が使っているものとは違う形状の石火矢を生産しているようです。終盤、「石火矢衆が敵となるかもしれないんだ」とエボシ自身が語るとおり、石火矢衆はあくまで「たたら場の職人」ではなく雇われの傭兵です。敵対したときに備えて兵器を開発するのは当然のことでしょう。
また、すでに述べた通り、「明国の」というところからおおよその時代が推定できます。病人の一人が「こわや、こわや。エボシ様は国崩しをなさる気じゃ」と茶化しますが、「国崩し」は史実では石火矢を指す別称でもあります。ここでは、戦乱の世で周辺諸国を平伏させ覇権を握る、というほどの意味でしょうか。

「愚かなイノシシめ、呪うなら私を呪えばいい」

激昂するアシタカに対するエボシの返答です。森や神々への畏怖を持つアシタカに比較して、エボシは非常に淡白な反応です。ここでアシタカの右腕がエボシを殺そうと蠢くのは、単にナゴの守の恨みだけでなくアシタカ自身の怒りややるせなさが共感しているのでしょう。この場面では、アシタカとナゴの守は共にエボシの森への攻撃の被害者なのです。

「その右腕は私を殺そうとしているのか」

「呪いが消えるものなら私もそうしよう。だがこの右腕、それだけでは止まらぬ」

 ここでのアシタカはエボシを敵認定していることがわかるやり取りです。端的には、アシタカは「呪いを消せるならエボシくらい殺してもいい」と言っているわけです。こうなるともはや「曇りなき眼」などどこにもありません。アシタカ自身もまた、恨みと憎しみにとり憑かれ、目が曇っているのです。

病み人の長

「生きることはまことに苦しくつらい……。世を呪い、人を呪い、それでも生きたい」

病人の長がアシタカを諌めるセリフです。『もののけ姫』全体を象徴するセリフだと言っていいでしょう。誰もが苦しみの中で、他を呪い恨みながら、それでも生きていたいと願っているのが本作なのです。

「シシガミの血は、あらゆる病を癒やすと聞いている」

アシタカをたたら場に引き留めようとするエボシのセリフです。続いて出てくる「業病」という単語はおそらくハンセン病のこと。病人たちが顔や体を包帯で覆っているのはこのためで、特に顔は「ライオンのような顔」になると言われています。

水路の上で立ち止まるアシタカ。水路、あるいは堀とは、ウチとソトの境界線を意味します。アシタカはまさに分水嶺に立ち、自分の行く末を思い悩んでいるのです。

曇りなき眼とは

「代わってくれないか」

たたらを踏むアシタカです。ここで女たちが歌っているのは職人歌で、単に口寂しいわけではなく、この歌で時間を計っています。仲間たちの一体感を高め、仕事への熱意を掻き立てる効果もあります。

「ここの暮らしは、つらいか」

トキに尋ねるアシタカのセリフです。先の場面で、アシタカは憎しみに駆られ、「曇りなき眼」を失っていました。ここで、たたら場の女たちから見たエボシ像、たたら場像を知ろうと努力しています。

シーン5 山犬の姫、襲撃

ヒロインの登場として観る

警報が鳴り響き、サンがたたら場を襲撃します。物語としては中盤に入っており、ヒロインの登場する見せ場としては遅い部類です。これは、『もののけ姫』という作品が単なるアシタカとサンのロマンスではなく、サン(森の勢力)とエボシ(人間の力)との衝突であることの傍証です。すでにエボシとたたら場については描き出したので、次はサンと森に場面が移る、という構成上の都合でもあります。

「やめろ! そなたと戦いたくない」

サンの剣戟を受け止めるアシタカ。すでに、ここでサンとアシタカは二度目の邂逅ですから、サンも容赦なく命を奪いに来ます。サンが被っている仮面は、顔と頭部を保護するだけでなく、サンの表情を隠し、「人間らしさ」を覆い隠しています。このときのサンは「森の神々」の一員なのです。それを、人外の生き物を思わせる仮面で表現しています。

本作の象徴

「あいつ、やはり!」「好きなようにさせておけ」

ゴンザとエボシのやり取りです。この直後、山犬の遠吠えが響き、サンは意を決したように大屋根を駆け下りていきます。遠吠えは、サンには「今夜こそあの女を仕留めろ!」というような鼓舞として聞こえたのでしょう。

このシーンはサン(森)とエボシ(人間)の対決であり、アシタカはそれを阻止することができないという、物語全体を暗示する構成になっています。終盤のシシガミ狩りにおける森の敗北を先取りしているとも言えるでしょう。

サンの仮面が砕ける

石火矢の一撃を受けてサンの仮面が砕けてしまいます。これ以降、サンは「森の神々」ではなくただの人間として描かれる、という暗示です。また、サンの仮面を打ち砕いたのがエボシではなくただのたたら場の女職人であることから、「人間の力が森の神々を打倒する」という結末の伏線でもあります。

祟りと曇りなき眼

屋根の骨組みをぶち抜くアシタカ。このとき、右腕の方がわずかに大きく膨らんで見えます。衣服の下では、あの痣がより深く、広く肌に染みわたっているのかもしれません。

余談ですが、この屋根の骨組みのぶっとい材木を大太刀(野太刀)で一刀両断しているのですから、ゴンザ様実は相当に腕の立つ武芸者です。

呪いを纏うアシタカ。アシタカの右腕に、黒い蛇のような影がまとわりつきます。この表現が現れるのは作中でこの一回きりですから、他の場面とは違う、異常な事態が起きていると見るべきでしょう。

ここで決定的な差異は、ここまではアシタカの怒りや闘争心をきっかけに右腕が暴走していたのに対して、この場面では、むしろ右腕とその呪いがアシタカに従っているように見えるということです。事実、これ以降は右腕が勝手に動き出すことはありません。このとき、アシタカの胸中に会ったのは「森の神から森を奪い、憎しみをまき散らすエボシへの怒り」だけでなく、「憎しみに囚われているサンへの怒り」、「争いをやめようとしないたたら場の人々への怒り」でもあったのではないかと感じられます。なにより、「サン(森)とエボシ(人)の争いを止めることができない自分自身への怒り」があったのではないでしょうか。そうした感情が祟りの恨みや憎しみさえ超えるほど強烈に表れたものが、この黒い影なのかもしれません。いわば、アシタカは祟りさえ征服したのです。

しかし、それは森を征服するためにナゴの守を追いやったエボシの行為と何が違うのでしょう? 一つの答えは、「これ以上憎しみに身を委ねるな!」というセリフです。アシタカは、怒り、恨み、憎しみながらも、「曇りなき眼」を持ち続けようとしているのです。

「賢しらにわずかな分を見せびらかすな」

もののけ姫のわかりにくいセリフその二です。「賢いふりをしてわずかばかりの分別を見せびらかすな」という意味です。エボシは先のシーンでアシタカの中に巣食う憎しみを見ていますから、「憎しみに身を委ねるな」というアシタカ自身の矛盾を突いています。


4.山犬の姫の場

シーン1 夜半

現在の状況

たたら場を出たサンとアシタカが山を駆けるシーンから始まります。かの有名な「生きろ。そなたは美しい」が出る場面ですが、その前に今のアシタカとサンの関係を整理しておきましょう。

アシタカから見たサン:
まずアシタカからすると、サンは人間でありながら森の一員という稀有な存在です。なにより一目惚れに近い感情を抱く相手でもあり、どうしても助けたい存在です。打算的な見方をするならば、呪いを解くという本来の目的に照らしても(エボシの言う通りシシガミが呪いも癒やすならば)シシガミに近しい人物ですから、せめて森とシシガミについて話を訊けるくらいには親しくならなければいけません。

サンから見たアシタカ:
少なくともたたら場の人間たちと同じではない、ということはわかっています。先のアシタカの名乗りもあって、礼節を知り、森を尊重する心を持った人間であることも理解しています。しかし念願の宿敵であったエボシとの決闘を邪魔され、しかもたたら場の人間たちとも親しくしているようでした。敵ではないが、味方でもない、というわけです。

➁瀕死のアシタカ、詰め寄るサン

「お前撃たれたのか。死ぬのか」

このセリフにアシタカは答えず、ただ唇を引き結びます。アシタカとて、死は恐ろしく、傷は痛いのです。また、アシタカが倒れている地面には、血が広がっていません。もはや大きな出血もないほどアシタカの心臓が弱り、死にかけているのかもしれません。

「生きろ」「まだ言うか! 人間の指図は受けぬ!」「そなたは、美しい」

『もののけ姫』では「黙れ小僧!」と並んで一番有名なセリフでしょう。ここで注目したいのはサンの表情です。「そなたは美しい」と言われたサンが後ろに飛びのくまで、一秒未満の間があります。これは、サンは今まで森で人と関わらずに生きてきたので、こんなセリフを言われたのは初めてのことだったわけです。そもそも、サンに好意的な人間というのが今までただ一人もいなかった可能性さえあります。ですから、サンは一瞬、なにを言われているのか理解できずに固まってしまう、というわけです。このセリフを起点に、サンはアシタカを殺すのをやめにします。

サン、人間の自覚

「猩々たち、森の賢者と称えられるあなたたちが、なぜ人間など食おうというのか」

サンにしては堅苦しい話し方です。これは終盤で猩々たちと会話するシーンでも同様です。しかし、乙事主たちイノシシ神にはもっと普通の言葉遣いをしていますから、これはシシガミの森とその周辺に住む、いわば「ご近所さん」の神々へのかしこまった話し方なのでしょう。

「山犬の姫平気。人間だから」

猩々のこのセリフにサンは悔しげな、どこかが痛むような表情を見せます。要するに、図星なのです。サン自身、自分が人間であり、山犬にはなり切れないという自覚、負い目があるわけです。しかしそれを認めるわけにはいきませんから、この場面では山犬が激怒し、猩々に襲いかかります。

シーン2 夜の森、アシタカを運ぶサン

時間の経過

森の奥深くへと瀕死のアシタカを運んでいきます。このときのサンにはすでに敵愾心はなく、むしろ優しげですらあります。一見するとわかりにくいですが、この後にデイダラボッチがシシガミに戻るシーンが来ることから、すでに夜が更け、朝も近い時間であろうと推測されます。サンは若木を刈り取り、アシタカを横たえたすぐそばの地面に刺します。これは一種の捧げもの、アシタカの生命を補うために、シシガミに差し出した供物でしょう。

「お前は賢いね。この島には登らない方がいい」

湖で待つヤックルに向けたサンの言葉です。なぜ「この島」に登らない方がいいかと言うと、ここはシシガミが夜の姿から昼の姿に変わるための場であり、神域なのです。神の領域を侵せば、その報いを受けるのは必然です。しかし同時に、神に希うためには、神の縄張りへと踏み込まなければならないということでもあります。森に住まう神と動物たちはシシガミの領域に入ろうとするわけがないので、サンがそれをしているということは、サンもまた森を利用しようとする人間の生き方から逃れられないという暗示でもあります。

シーン3 夜明け、ジコ坊と狩人、シシガミ

➀朝まだき

ジコ坊と狩人が毛皮をかぶってデイダラボッチ(=シシガミ)を観察しています。ここで狩人たちは「シシガミさまを見ると目が潰れるわい」と、まだ森と神々への畏怖を抱いていることがわかります。これは、たたら場や町で暮らす人々よりも、森に分け入っていく狩人たちの方が、より自然の脅威や森の神々との接触が多いためでしょう。
怖気づくジコ坊が「天朝様の書付」を出します。天朝とはつまり朝廷、ひいては天皇のこと。森の神への畏れを人の神の威光で散らそうというわけです。ジコ坊は朝廷との接触を持つほどの地位にあり、たたら場への協力も政略の一端であるようです。これを受けて渋々、顔を上げる狩人ですが、デイダラボッチの姿を見るや否や、狩人としての本能からか、目が釘付けとなります。

アシタカの夢

シシガミの足が触れたところから勢いよく植物やキノコが生い茂り、瞬く間に枯れていきます。シシガミは生命を与えますが、植物の成長を極限まで早回ししているような印象です。こうして触れただけでも生命力を溢れさせるシシガミですから、「アシタカ旅路の場」でアシタカを見つめただけで快復させたのも、あながちありえないことではないかもしれません。

乙事主初登場

「鎮西(ちんぜい)の乙事主(オッコトヌシ)だ!」

夜明けと共にジコ坊たちは移動し、おびただしい数のイノシシ神の群れを発見します。その中でもひときわ大きな一頭、群れの長を見た狩人のセリフです。鎮西とは現在で言えば九州のこと。ジコ坊の「海を渡ってきたというのか?」というセリフは、本州と九州を隔てる海峡を指しています。このことから、たたら場とシシガミの森は、本州のかなり西部にあると推測されます。

「ばれた!」

乙事主は目が悪いはずですから、少なくとも視覚でジコ坊たちを発見したわけではないでしょう。イノシシは優れた嗅覚を持っていますし、人間を含め、動物は感情によって特定の匂い物資を発散しています。狩人の恐怖の感情を乙事主が嗅ぎ付けたとしても不思議ではないでしょう。

シーン4 目覚めたアシタカ、介抱するサン、乙事主

朝の森、サンの介抱

一夜明けて目を覚ましたアシタカ。傷はシシガミが癒やしたものの、ヤックルを撫でた拍子に、掌にまで広がった呪いの痣を目にします。ここは、視聴者としてもたたら場以来ずっと画面には映っていなかったこの痣が登場する(しかも、ずっと広がっている)ことで、否応なしにアシタカの死の定めを思い起こさせる場面です。アシタカもしばし愕然とします。

サンがアシタカに食事を与えます。生死の境をさまよったアシタカに自力で肉(たぶん干し肉で、かなり固い)を食べさせようというのですから、なかなかの剛の者です。仕方なしにサンが噛み含めたものをアシタカに口移しで嚥下させます。このときアシタカが涙を流しますが、その理由はこうしてサンが命を救ってくれたにもかかわらず、呪いによって死ぬことになる、というやるせなさでしょうか。
ここは、アシタカが作中で初めて弱さを見せる場面です。身体が弱っている分、精神的にも緩んでいるのです。また、カヤに対しては見せなかった弱さをサンの前では表に出しているわけで、カヤは守るべき対象であったのに対し、サンはある意味で対等な関係にあるという表現でもあるのでしょう。

➁イノシシ神の群れ、登場

「わたしの身体にも人間の毒つぶてが入っている」

イノシシ神たちに反駁するモロの君のセリフです。言葉通り、モロの右前脚の前方に、毛並みが乱れている部分があります。ここはちょうど、アシタカとサンが初めて出会ったときにサンが血を吸いだしていた箇所であり、エボシが放った石火矢が命中した場所です。

乙事主と対面する

「荒ぶる山の神々よ、聞いてくれ……」

怒り猛るイノシシ神たちに向けたアシタカのセリフです。しかしここでは、サンとモロの君にカメラが向いていることを指摘しておきましょう。サンはアシタカの右腕の痣を見てなにかを察したような顔になり、モロの君もまた、目だけで真剣な様子に変わります。ここで、山犬の一族にとってのアシタカが単なる外から来た森を尊重する人間ではなく、このシシガミの森との因縁を身に宿した、特別な事情を持つ人間に変わります。この点で、アシタカはようやくシシガミの森とそれを取り巻く争いの当事者、サンやエボシと同格の存在となるのです。

「山犬の姫、構わない。ナゴの守の最期を伝えたいから」

乙事主を前にしたアシタカは、サンを下がらせます。サンは驚きのあまり年齢相応の、素の表情が出てしまっています。サンからすれば、昨日今日森に入ったばかりなのに乙事主のような格の高い森の神と(自分以上に)通じ合っているアシタカは、全く出会ったことのないタイプの人間ですから、驚くのも無理はありません。

ここで乙事主はアシタカの左腕の匂いを嗅いでいるように見えます。果たして何日も前に接触しただけのナゴの守の匂いがアシタカに残っているのかは疑問ですが、祟りそのものには固有の匂いがあるのかもしれません。そして、その中には祟りを纏った者の匂いも、含まれているのでしょう。
乙事主は、アシタカを通じて「祟り神と化したナゴの守」の匂いを認めたのはないでしょうか。この後に「森を去れ。次に会うときはお前を殺さねばならん」というセリフが続きますが、これは森の神の「警告」である以上に、「祟り神とはいえ一族を手にかけたアシタカには、報復をしなければならない」というイノシシ神としての掟があるものと思われます。

シーン5 エボシと地侍の戦、ジコ坊の帰還

昼間。戦のあとエボシと合流するジコ坊

地侍とエボシの戦闘です。石火矢の火力は圧倒的ですから、少人数でもほとんど圧勝と言うところでしょう。石火矢衆のうちの二名が、ジコ坊に「お頭」と駆け寄っていきます。どうやら、赤い傘の武僧たちだけでなく、石火矢衆にもジコ坊の配下はいるようです。
こうして様々な組織に潜入工作員を置いているところを見ると、ジコ坊は僧侶というよりも一種の諜報員であり、現場の指揮官であることがわかります。

浅野の使者がたたら場を門前払いされますが、背後の侍二名に対して、使者の馬だけがずいぶんと落ち着かない様子です。普段は馬に乗ることなどない文官である、という描写かと思われます。

「天朝様?」「天朝様って?」

ジコ坊の出した書付を見たたたら場の女たちの反応です。彼女らからすれば、天朝様も帝もないのと同じなわけです。エボシがそれをジコ坊に示したのは、実用本位のエボシらしい「目の前にあり、役に立つものだけよこせ」という言外のあてつけです。

師匠連とは

師匠連(ししょうれん)。ここで初めて出る単語ですから、これは触れておくべきでしょう。作中では石火矢衆をたたら場に派遣したり、ジコ坊たち武僧兼隠密部隊を組織したりと、非常に力のある組織のようですが、実体は全く不明です。シシガミの首を天朝に献上するのはどうやらこの師匠連のオーダーのようですから、なんらかの利権と引き換えにエボシのバックについていると見ていいでしょう。
余談ですが、エボシはナゴの守を森から追い出した時点ですでに石火矢衆を従えていました。たたら場が現在の形になったのはその後ですから、長く見積もっても一年程度の間にこのたたら場を掌握したのでしょう。というのも、ナゴの守が蝦夷の里にたどり着くまでにそれほど長時間を要したとは思えないためです(もしもそうなら、ナゴの守は途中で事切れていたでしょう)。

エボシとジコ坊の力関係

「少年が一人訪ねてこなかったか」「さぁ」

ジコ坊の問いかけと、エボシの返答です。エボシは素っ気ない態度ですが、アシタカがたたら場にきたおかげでサンを取り逃がす羽目になったのですから、そのきっかけをつくったジコ坊への意趣返しでしょう。あるいは、アシタカを懐柔してジコ坊側ではなく自分の側につかせたいのかもしれません。エボシはジコ坊の手綱を握っているわけではなく、あくまでジコ坊(とその背後にいる師匠連)がエボシの上位にいるという前提があります。

地走り

「ありゃあ普通の狩人じゃねぇ。地走りだ」

地走りとは、クマやイノシシの皮をかぶり、獣に擬態した狩人たち。森への畏敬や尊崇からではなく、敵である森の神々を欺き、罠にかけるための人間の策略の一形態でしょう。
本来、強い獣の姿を模したりその皮をかぶるのは一種の模倣で、獣の強さを我がものとする、という意味合いがあります。しかし地走りたちが仕えるのはジコ坊、ひいては師匠連であり、あくまでも人間の用いる一つの戦略に過ぎません。なお、地走りという呼称は作中の造語のようです。

シーン6 月夜、アシタカとモロの君

お前にサンが救えるか

痛みに目を覚ますアシタカ。右腕の呪いがアシタカを苛んでいますが、たたら訪問の場で、アシタカは呪いを従えているように見えました。かといって、この呪いは元はと言えばナゴの守による人間に対する恨みと憎しみですから、そう簡単にアシタカに押さえ込まれたりはしないのです。機会さえあればいつでも暴れ出そうと待ち構えています。

モロと話すアシタカ。視聴者は特に違和感なくこのシーンを見ることになりますが、よく考えてみればモロにとって人間は森を侵す敵であるはずです。こうして人間と一対一で会話すること自体かなりイレギュラーな事態です。しかも、可愛い娘のサンにこれほど接近を許しているのですから、モロはすでにアシタカを認めているのです。
しかし、アシタカはそこには思い至らず、「サンをどうする気だ」と問い詰めます。モロが「いかにも人間らしい手前勝手な考えだな」と皮肉るとおり、アシタカといえども人間の傲慢さと無縁ではないのです。

「黙れ小僧! お前にあの娘の不幸が癒やせるのか」

『もののけ姫』の有名なセリフナンバーワンです。このモロの怒りは、先述のアシタカの無自覚な傲慢さに対するものです。アシタカはサンを救いたいと思いながら、サン自身が森の一員として暮らしていることを無視して「人間」のカテゴリに当てはめています。それに対してモロは激怒し、サンの身の上を語るのです。

➁人間として育ったサン

洞窟に戻ったアシタカは眠りに落ちるサンの顔を数秒見つめ、毛皮をかけてやります。その表情は複雑で、モロの君に言われたとおり、これからサンが人間との戦いでおそらくは命を落とすだろうことを、覚悟しているようにも見えます。

ここで、サンとアシタカが眠る洞窟にも目を向けてみましょう。サンは木の葉を重ねた上に毛皮をかぶっており、アシタカはイノシシかクマと思しき毛皮を寝床としてあてがわれています。
もしかしたら、普段はサンがこれらを使用しているのかもしれません。枕元には器のようなものがありますが、森の中で暮らすサンが一人でこれを作れるかどうかは疑問が残るところです。木彫りにも陶器にも見えますが、高温の窯を必要とする陶器を森で作れるとは思えないので、お手製の木の器か、盗品の可能性もあります。

サン自身もまた装飾品を纏い、顔に入れ墨を施しています。毛皮の処理や武器の槍などの作製も含めて、赤子の頃から森で暮らしてきたサンがこうした文化と技術を一人で身に着けたとは思えません。モロの君が教えたのでしょうが、これらはあくまでも「人間の文化」です。モロの君は、あくまでサンを人間として育てたのでしょう。


5.シシガミ狩りの場

シーン1 目覚めるアシタカ、不穏

サンとアシタカが仲良くなっていることに関する二、三の想像

洞穴でアシタカが目覚めたときには、すでに陽が高く昇っています。サンにかけたはずの毛皮がアシタカにかけられているところを見ると色々想像が膨らむものがありますね!
筆者は毎回ここでめちゃめちゃニヤニヤしてしまいます。目覚めたサンはアシタカの優しさに少し気恥ずかしい思いをしながら、アシタカに毛皮をかけてやったことでしょう。もしかしたら、眠っているアシタカの顔を満足げに眺めたりもしたかもしれません。アシタカとサンはジブリ映画のカップルの中でも、特に「カップルらしい描写がない」ペアです。それは人間と森という関係性の断絶がある以上に、意図的に描かれていない「空白の時間」に、二人が親密になっていく過程が存在していたということでもあります。絶対そうです間違いない(オタク特有の早口)。

シーン2 森を去るアシタカ

蝦夷の身体能力……?

「足がすっかりなまってしまった」

ヤックルと再会したアシタカ。服の穴や頭巾の破れはサンの手で繕われています。ここで「すっかりなまってしまった」とか言いつつ終盤は森を全力疾走しているわけで、蝦夷の民の身体能力がすごいのか、それとも呪いの影響なのか判断に困るところです。ただ、ヤックルに跨って移動するうちに、乗馬と同様にある程度のリハビリになったというのはありそうです。

「静かすぎる。コダマ達もいない……」

このシーンで聞こえるのは鳥のさえずりだけで、緑豊かな森であるにもかかわらずずいぶんと生き物の気配が感じられなくなっています。このセリフを言うアシタカは右手を左手で押さえていますが、モロの君が指摘した通り体力が回復したぶん呪いもまた力を取り戻していることを警戒しているということです。

アシタカは本当に最低の男なのか

「一つ頼みがある。サンにこれを渡してくれ」

カヤからもらった玉の小刀をサンに託すこの行為は、本作でも賛否が分かれるところです。「許嫁からのプレゼントを他の女に渡すなんてサイテー!」と思ってしまいがちですが、それは現代的な感覚に過ぎません。少し立ち止まって、最初の蝦夷の隠れ里の場を思い出してみましょう。あのとき、カヤは「お守りするよう息を吹き込めました」とアシタカに小刀を渡しました。あれはカヤとアシタカの今生の別れであり、小刀はいわば「もう決して会えないことはわかっているけれど、せめて無事でいてほしい」という思いで渡された、一種の「お守り」なのです。

ひるがえって、今のアシタカの状況はどうでしょうか。前のシーンのモロとの会話から、「もう森と人が争うのは止められない」ということはアシタカも理解しています。そして目覚めたときにはサンの姿はなく、「戦いの中でサンも命を落とすだろう」ことはほとんど確実なように思えます。アシタカ自身についても、「じきに痣に食い殺される身」です。つまり、もはやアシタカにできることはなにもないのです。アシタカの心情としては、「これもさだめか……。この地を去って、静かに死を待とう」くらいの気持ちでもおかしくないわけです。

こうしたことを考え合わせると、アシタカがサンに玉の小刀を託すのは「死にゆく自分が持つよりも、戦いに挑むサンがせめて無事でいてほしい」という祈りであり、カヤがそうであったように、アシタカもまたもうこれから先、サンと再会することはない、と別れの覚悟を決めているのです。山犬に小刀を投げる直前、アシタカの唇にうっすらと浮かぶ笑みは、そうした寂寞と全てを受け容れた覚悟の笑みなのです。

シーン3 蹶起するサン、モロ、山犬

サンの半仮面

森の中からモロがエボシ達の様子をうかがっています。そこにサンが山犬に乗って現れます。半仮面をかぶっていますが、これはたたら場襲撃の際にかぶっていたものとデザインが違います。顔の半分は「森の神」、もう半分は「人」で、戦いの装束であると同時に、ここでのサンの立ち位置を表します。物語的には、完全に森の勢力としての生き方しか持たなかったサンが、アシタカとの出会いを経て人間としての自覚も得たということを暗に示しているのでしょう。

「お前にはあの若者と生きる道もあるのだが……」

モロの君がそれとなく人として生きることを促しますが、ここでのサンは「森の神」なので、「人間は嫌い!」と拒否します。しかしアシタカからの贈り物を前にして「きれい……」と目をみはる様子は、人間らしいそれです。山犬に「お守り」の文化はありませんから、こうした文化と文化のやり取りというのは人間だけのものと言えるでしょう。

シーン4 たたら場、襲われる

➀物語上の転換点

雨がそぼ降る中をヤックルに乗って進むアシタカ。表情は暗く、諦念が漂っています。森から聞こえる爆発音に顔を上げますが、森に戻ろうとはしません。サンが戦いに身を投じるのは止められないし、仮にサンを引き留めたりしたなら、それはサンに対する侮辱でさえあるのです。モロの君との会話でそれを理解したからこそ、アシタカは森を去るという決断を下したわけです。
しかしたたら場から聞こえる銃声に「行こう!」と駆けださずにはいられないのです。森と人が争うのは避けられなくとも、人と人の争いはまだ止められるかもしれないというわけです。ましてや、それが自分をもてなしてくれたたたら場の衆が襲われているとなったら、助けずにはいられないのがアシタカです。そしてそれが、アシタカとサンの(もうあり得なかったはずの)再会に繋がる、というめちゃんこアツい展開です。

戦の意味

「止めたぞ!」「やるのぉ!」

アシタカを取り逃がした侍たちですが、ここでは楽しげで、感心した口調です。こうした時代、戦はいわば「イベント」であり、今日の戦争とは意味合いが違います。もちろんなんらかの利益のために戦う点は同じですが、こうした時代の戦は力比べであり、名誉ある戦いなのです。そしてそこに参加する武芸者たる者ならば、高い技量をもった相手は敵であろうと賞賛するわけです。
ちなみに、ここの侍たちは明らかに戦線から離れた場所におり、「戦に参加した」という義理だけ果たして高みの見物を決め込むつもりのようです。

救われたのはたたら場か、アシタカか

「アシタカ様ー!」

たたら場の衆はアシタカの姿を認めると、みんな希望に目を輝かせます。彼ら彼女らにとっても、アシタカとの決別は不本意だったのでしょう。
エボシ不在の中でたたら場の指揮系統はどれだけ生きていたのかは不明ですが、男たちや石火矢衆がいないので、トキのような女職人の長が人々をまとめているようです。ところで、アシタカは「エボシを呼びに行く」とこの場を離れますが、これは同時に「エボシを呼び戻せば、始まってしまった森と人との争いを一時でも止めることができる」という流れでもあります。
失意の底にあったアシタカにとっても、「まだ自分ができることがあった」「まだ間に合うかもしれない」という希望が芽生えるのが、この場面です。

派手な音のする矢

「追手がかかった。頼むぞヤックル」

侍が放った矢は「蟇目(ひきめ)」という種類で、蟇目矢とか蟇目鏑と呼ばれます。通常の尖った矢じりではなく、穴の開いた独特の矢じりを持ち、そこを空気が通り抜けることでこうした音を発する仕組みです。味方への合図に使われるものですが、同様の矢は音で魔を払うという祭祀的な用途もありました。

修羅の庭

「何者か。ここは修羅の庭。よそ者はすぐに立ち去れい!」

唐傘の武僧がこの辺りの後処理を仕切っているようです。わかりにくいのですが、武僧の背後で空の色がやや赤みを帯びてきています。すでに陽が暮れ始めているのです。

「森は広くて深い。使いの出しようがないのだ」

たたら場が襲われたと聞き、牛飼いたちは唐傘に詰め寄ります。それに対する返答ですが、牛飼いの頭は「狼煙でもなんでも、あんたらの得意だろうが!」と応じます。唐傘たちからすればたたら場がどうなろうとシシガミの首の方が優先なわけです。

山犬を助ける

武僧は「さては魔性のたぐいか!」と口走ります。彼らからすれば「山犬に案内を頼み、森へ向かう」というアシタカは人外の存在です。その意味では、山犬と暮らすサンなど言うまでもないでしょう。

「サンのところへ! そこにエボシもいる!」

サンとは今生の別れ……と思いきや、意外にあっさりとサンに会いに行くアシタカ。もっとも、山犬がエボシの居場所を知っているわけもありませんし、シシガミを殺しに向かうエボシとシシガミを守ろうとするサンたちが衝突するのは間違いないので、これは的確な判断と言えます。

シーン5 森を進む狩人一行、サン、乙事主、アシタカ

宵、森の状況

エボシ達シシガミ狩りの隊列は森の奥深くへと進んでいきます。熊の毛皮を着た地走りの男がジコ坊に乙事主とサンの動向を知らせます。このことから、森の勢力は追い込まれ、人間たちの計画通りに自体が推移していることが窺えます。

画面が変わって瀕死の乙事主と随行するサン。乙事主の出血はおびただしく、これはかつてこの森で起きたナゴの守討伐を彷彿とさせます。倒れる乙事主をサンが支えようとしますがここにサンの人間性がよく表れています。先導する山犬が立ち止まり、サンも周囲を警戒します。

「生きものでも人間でもないもの」

猩々たちが言い残して去ります。生きものでも人間でもないもの、とはこの直後に登場するイノシシの皮をかぶった人間たちのこと。サンや山犬はすぐにそれと見破ります。
逆に言えば、サン、山犬、猩々たちでさえ気が付くような低レベルの欺瞞・隠密工作なのですが、体力を失い死の瀬戸際にある乙事主は死んだ戦士たちが蘇ったと信じて疑いません。すでに正気は失われています。

「乙事主様落ち着いて。死者は蘇ったりしない!」

当然のことのようですが、重要なセリフです。シシガミの力が溢れ、神々の住まう森でさえ、死した者が戻ることはないのです。シシガミは生と死の両方を司りますが、死者の蘇りはありえない事象だということです。
しかしモロの君と乙事主の対面のシーンでそうだったようにイノシシ神たちはシシガミとシシガミの森を神聖視するあまり、過大な期待を寄せてもいます。それは乙事主とて例外ではないのです。

山犬の狩りについて

「囲まれるぞ! そいつはもう駄目だ! 捨てていこう!」

サンに随行する山犬のセリフです。山犬……というより狼の狩りは、集団で獲物を取り囲んで行われます。できるだけ被害を受けずに済むように複数方向から襲い掛かるのです。ここで山犬がこのセリフを発するのは、自分たちが「狩られる側」になってしまうという状況を示します。この後の「最初の者を殺す!」というセリフも、そうした狩りへの対処法として有用なやり方がそれであることから出る自然な反応です。

山犬の遠吠え

サンが反応し、「アシタカが……?」と呟きます。どうやら、この遠吠えはサンにはちゃんと意味が通じているようです。ここで「たたら訪問の場」のことを思い出してみましょう。大屋根の上でサンは遠吠えを聞いて一気に駆け出しました。あのときにも、サンにはなんらかの言葉が伝わっていたのだとわかります。あの場面とこの場面での違いは、前者は仮面をかぶり「森の神」としてのサンが登場したのに対して、後者は仮面はすでになく、「人間」としてのサンが映し出されているということです。そのため、ここではサンも私たちにわかる言葉で話してくれます。

祟り神と化す乙事主とサンの浸食

乙事主の眼球の動きがぐりんぐりんしています。もしかしたら、祟りの赤黒いにょろにょろは脳に寄生し、宿主をコントロールできるのかもしれません。
注目したいのが、乙事主に接触しているだけのサンの手からも祟りが噴き出している点です。憎しみに囚われ、錯乱している乙事主はともかく。なぜサンまで祟り神に取り込まれてしまっているのでしょうか?
祟りは、アシタカの痣がそうであるように怒りや憎しみの感情に感応します。サン自身の中に人間への憎しみがあるがゆえに、乙事主の祟り神化に伴って強制的に祟りにとり憑かれているのかもしれません。

しかし、実はそれこそがサンが人間としての自分を認めるために必要なことだったのだと筆者は考えています。詳しくはこの後、「デイダラボッチの場」の、著者が一番解説したかったシーンでお話ししましょう。

アシタカとエボシの再会

一方でアシタカは遠吠えの返答によりサンの窮地を察します。山犬にまたがり、森を駆ける中、エボシ達の行列に遭遇しました。山犬の嗅覚と聴覚を持ってすればエボシ達がそこにいたことは察知できたはずですから、「エボシを呼びに行く」というアシタカの言葉を嘘にしないために気を利かせてくれたのです。あるいは、単にサンの下へ向かう最短経路がそこだっただけ、という可能性ももちろんあります。

「あいつどっちの味方なのだ」

アシタカの報せを受けたジコ坊のセリフです。その直後、エボシに視線を向けています。「ここまで来てたたら場のために戻るなどと言い出すんじゃあるまいな」というような、懐疑のこもった眼差しです。ゴンザは「エボシ様戻りましょう!」と提案しますが、エボシはそれを突っぱねます。ここでも、牛飼いを見捨てたときと同様にエボシの冷酷さが見え隠れしています。

「あの女いなくとも?」「神殺しは怖いぞ」

配下とジコ坊のやり取りです。ジコ坊とその背後に控える唐笠連、朝廷にとっては、エボシすらも捨て駒の一つにすぎません。目的はシシガミの首であり、たたら場に力を貸したのもそのための策略の一つです。しかし、神を殺せばその咎は誰かが引き受けねばなりません。体のいいスケープゴートとしてエボシを使おうというわけです。

シーン6 サン奪還、シシガミ登場、神殺し

大まかな流れ

クライマックスが近づいて、短い時間で色々な起こる場面です。『もののけ姫』の物語は小説よりも戯曲に近い構成をとっており、ここから終幕に向けて、状況は一気に加速していきます。

まず、最初にアシタカがシシガミの池のほとりに登場します。一瞬だけ空を見上げると、欠けた月が映し出されます。先のシーンは夕方~宵にかけて進行していたので、今が夜になっていることを示しています。

「アシタカーー!!」の重要さ

アシタカからサンへの呼びかけにサンが応えます。ここで、作中を通して初めて、サンがアシタカの名前を呼びます。ちなみに、アシタカからサンへの名前呼びはいつからかというと、モロの君と会話した後の「サンとシシガミ様のおかげだ」です。山犬の遠吠えに「アシタカが……?」とこぼしたところから見ても、おそらく描写されていないだけで、あの時点ですでに二人はお互いを名前で呼び合う関係になっていたのです。「そなた」「お前」と呼び合っていた二人がそこまで親密になっていたのかと思うとニヤニヤしてしまいます。

③「去れ童(わっぱ)」と言っています

もののけ姫のわかりにくいセリフその三です。初見だとなんと言っているのか聞き取るのは難しいでしょう。

サンの救出に向かうアシタカ

乙事主は完全に正気を失くしており、アシタカと会話することもできなくなっています。アシタカは祟りの中に沈むサンの足を見て猛然と乙事主につかみかかりますが、周囲の唐傘たちは「あいつを鎮めろ」と吹き矢を放ちます。鎮めろ、とか言っていますがやってることは完全に殺しです。我慢できなくなって「殺せ! 奴を射殺せ!」と皮を脱ぎすてるくらいですから、相当に焦っています。
アシタカが乙事主の祟りをちぎっては投げちぎっては投げ、とすると、乙事主が苦しみ、吐血します。これは冒頭のナゴの守のときと同様に、このにょろにょろが今や乙事主の生命を動かしているためでしょう。それをむしり取られるので、苦しいわけです。

カヤからアシタカへ、アシタカからサンへ引き継がれた玉の小刀が一瞬だけ見えます。象徴的なシーンです。この小刀については後述します。サンとの再会もつかの間、アシタカは池へと放り出されます。身体にまとわりついていた祟りが水中で消えていくのは、序盤同様に清水には穢れを払う効果があるためです。アシタカがぶつかったことで身体を休めていたモロが目覚め、娘を救うために動きます。

シシガミ登場

「結界を張れ!」

ここでいう結界とは直後に投げる煙玉です。周囲一帯を隔絶すると共に、山犬や乙事主が嫌う匂いで、出てこられないようにしています。

「――――出たぁ」

シシガミが池の小島に姿を現しました。エボシは乙事主とモロの成り行きに目も向けていません。あくまで目的はシシガミの首、その一点のみです。

⑥「アシタカ、お前にサンが救えるか

乙事主からサンを取り戻そうとモロの君が噛みつきます。一方の乙事主は、シシガミの姿を目にした途端、生気を失っていきます。少し不思議な展開です。乙事主は傷を癒やしてもらうためにシシガミの池を目指していたはずです。それなのに、なぜシシガミを前にして死に向かっているのでしょうか。

一つには、シシガミが必ずしも癒やすだけの存在ではないと悟ったこと。もう一つは、ナゴの守がそうだったように死を恐れたからでしょう。シシガミは超越的な存在です。森と人の争いなど気にも留めていません。だからこそいつものようにこの場に現れたのです。人間にとっても森の神にとっても、シシガミは等しく「理解を超えた」存在なのです。
乙事主は、きっと自分は癒やされるのではなく、命を吸い取られると直感したのでしょう。そして、憎しみこそが燃料となって祟りが生き永らえさせていた乙事主の身体を、恐怖が満たしたのです。だからこそ、祟りは勢いを失ったのです。

石火矢の一閃

「石火矢が効かぬ」「首を飛ばさねば駄目か」

シシガミの頸椎を石火矢が撃ち貫きますが、シシガミは平然と歩みを進めます。シシガミは命ある生命ではなく、命という概念が実体を得たもの、なのでしょう。命がないのだから、死にもしない。エンディングでアシタカがそう語ってくれます。

モロの最期

アシタカにサンを託すモロ。乙事主から取り戻した娘をアシタカに渡します。自分で水に入れたっていいはずで、それをしないのはアシタカを認めているからです。

「な、なんと。シシガミは命を吸い取るのか……」

乙事主にシシガミが触れ、乙事主は息絶えました。モロも倒れますが、モロの方はシシガミが触れたわけではありません。この後、しっかり首だけで動いてくれるので、実は死んだふりをしているか体が弱ってもう動けないかのどちらか、といったところでしょうか。

エボシの笑み

首を飛ばすエボシ。シシガミに石火矢を向けるエボシに、「やめろ!」と叫んでアシタカが山刀を投げます。山刀は石火矢に命中し、しばしエボシの動きを止めます。ここでエボシが不敵に笑うのは、「エボシ自身を狙えば確実に止められるにもかかわらず、血を流させないために石火矢を狙うアシタカの甘さ」に対する嘲りの意味でしょう。

しかしシシガミの視線を受けて石火矢の木材部分から植物が生えはじめると流石のエボシも慌てふためきます。これは単にシシガミの力に恐れをなしたというわけではなく、石火矢という「人間の力」で森を切り拓いてきたエボシからすれば、それがシシガミの「神の力」に敗北するというのは受け入れ難い事態だということです。

かくてシシガミの首は飛ばされ、首を失った体からは得体の知れないなにかがあふれ出します。


6.デイダラボッチの場

シーン1 森の死

シシガミの力

シシガミの身体からあふれ出した黒いドロドロが触れると、人も木々もみな死に絶えていきます。シシガミの命を吸い取る力の顕れです。エボシが急いでシシガミの首を拾い上げます。首の回りだけは草が緑を保っています。シシガミの身体の「ウチ」と「ソト」では、どうやら生命の力が逆向きに流れるようです。

「モロめ……首だけで動きおった……」

右腕をモロに食いちぎられたエボシのセリフです。実はたたら訪問の場で、エボシ自身が「首だけになっても、喰らいつくのが山犬だ」と言ったのが伏線になっています。

肥大化するデイダラボッチ

生命を吸い取り、デイダラボッチが膨れ上がっていきます。首を探しているのでしょう。逃げ場はなくなりつつあり、ゴンザとエボシをアシタカが助けます。ここで、ジコ坊はもはやエボシの身をまったく案じていません。やはり最初から神殺しの報いだけを受けさせ、美味しいところは持っていくつもりだったようです。

サンとアシタカの対決

「そいつを寄越せ八つ裂きにしてやる!」

「モロが仇を討った。もう罰は受けてる」

エボシを助けるアシタカを、サンは憎々し気に睨みつけます。サンからすればエボシは森の仇なのです。ここが! 著者の! 解説したいところです!!

まず、アシタカはサンに助けを求めますが、サンは「嫌だ! お前も人間の味方だ! その女を連れてさっさと行っちまえ!」と返します。ここで一旦立ち止まってみましょう。サンは復讐を望んでいたはずです。それなら、エボシを「連れて」行かれては困るはずじゃないでしょうか。「その女を置いて」となるはずです。

つまり、ここでのサンの一番の関心事はエボシではないのです。ヒントは「お前も人間の味方だ!」というところ。アシタカの呼び方が「お前」に戻っています。つまり、ここで表に出ているのは「森の神だったころのサン」、「まだアシタカと打ち解けていなかったころのサン」なのです。だから「人間の味方」であるアシタカを拒絶するわけです。サンにとっては、「自分の味方だと思っていたアシタカが、やっぱりそうではなかった」という絶望のシーンなのです。アシタカはそれに気づいたからこそ、「サン……」と言葉を失くしているわけです。

続くセリフでは、「人間なんか大っ嫌いだ!」に対してアシタカが「私は人間だ。そなたも、人間だ」と返します。もうお分かりでしょう。アシタカもここで、「森の神」としてのサンへの呼びかけである「そなた」に戻っています。その上で、「人間だ」と断じているのです。物語が進むにつれて、サンは徐々に「森の神」から「人間」へと(不可逆的に)移り変わっていきました。それを仮面は表していました。

そしてついに、「寄るな!」とサンはアシタカの胸に玉の小刀を突き立てます。アシタカは表情を変えません。そして、サンが突き刺したはずの小刀は、アシタカに刺さってなどいないのです。これはこの後のシーンで、アシタカの胸に一切傷がないことからも明らかです。それに気付いて、サンはハッとするのです。自分が「人間」へと変わってしまったことを自覚するのがこのシーンなのです。「わたしはこの男を殺せないんだ」、と。

先ほど、シシガミ狩りの場で「サンから祟りが噴き出したのはなぜなのか」という話をしましたよね。そしてそれが必要なことだったとも。あの答えがこれなのです。サンは自分の憎しみを自覚し、「祟り神なんかになりたくない!」と憎しみに身を委ねる在り方を拒絶し、人間としての自分を認め、ようやく憎しみと折り合いをつける術を学びはじめたのです。アシタカが身を挺することで、サンは自分自身を認めることができたのです。

そして森が崩壊し、「森の神」としてのサンが消え、守るべきものを失くした今、「人間」としてのサンにとって大切なものが同じ「人間」であるアシタカなのです。このシーンの二人の抱擁にはそういう全ての意味が込められているのです。断言します。これは同時に、「人間」としてのそれまでの生涯を後にして村を出たアシタカにとっても、穢れ、呪われた自分自身を「人間」と認めるという儀式なのです。

この場面でようやく、サンとアシタカは「人間同士」として出会います。

シーン2 肥大化するデイダラボッチ

➀デイダラボッチから見るシシガミの能力圏

デイダラボッチの身体が空高くに広がり、森の中へと分け入っていきます。ドロドロが手の形をしているのは失くした首を追い求める意思の表れです。ここで、デイダラボッチの手(?)が触れた場所だけでなく、直接触れていない森までも死に絶えていることに注目してみるのも面白いでしょう。アシタカ旅路の場で、遠くにシシガミの姿を認めただけでその後のアシタカの体調が快復したこととも併せて考えると、やはりシシガミの力は直接の接触がなくとも作用するようです。

シーン3 たたら場に危機を知らせるアシタカとサン

朝まだき

山の向こうで空が白み始めています。先ほど、シシガミの首が飛んだときにはまだ月が中天にかかったばかりでした。すこし時間の経過が早いように感じます。冒頭の蝦夷の隠れ里の場で述べたように、作中の季節は夏だと推測されますから、日の出も比較的早いと見ればそれほど違和感もないでしょう。

たたら場の人々が異変を感じ取った直後、デイダラボッチが山の稜線に現れます。トキだけでなく敵方の侍まで「デイダラボッチだ!」と叫びを上げているので、実はけっこう広く知られた存在のようです。

「持ち場を離れるんじゃないよ!」

トキさん、なんぼなんでも無茶だと思います。

駆けつけるアシタカの対応力

「みんな逃げろ!」

たたら場の衆へ警告するアシタカ。注目してほしいのは胸のあたりで、先のシーンでサンが玉の小刀を突き刺していたなら傷があるはずです。しかし出血もしていなければそれらしい傷も見当たりません。やはり、激情に駆られてていてもサンはアシタカを傷つけることができなかったとわかります。

「あのドロドロに触ると死ぬぞ!」

世界一簡潔な説明です。

実はここでのアシタカは、「シシガミが首を取り戻そうと追ってきた」という状況説明、「ドロドロに触ると死ぬ」という危機の伝達、「水の中に行け」という対処法の伝授まで一息に行い、しかもエボシが無事であることや自分とサンがシシガミを鎮めにいくという希望まで与えているわけで、さすがは村の長となるべき若者、という感じの危機管理能力です。ちなみにここでサンはドロドロを注視してギリギリまでアシタカに時間の猶予を与えられるようにしているのもポイント高いです。単にたたら場の方を見たくなかっただけという可能性もあります。

たたら場衆の独立

避難するたたら場の衆。狼狽えるみんなをトキが「騒ぐんじゃない!」と一喝し、避難を指示します。つい先ほどまで「たたら場を守るんだ! エボシ様と約束したんだから!」と気負っていたトキが一転して現実的な判断を下す場面です。

これは目立たないものの、たたら場の未来にとってとても重要な一場面で、というのもトキをはじめたたら場の女たちは基本的にエボシ崇拝と言ってもいいくらいエボシを絶対視していました。牛飼いを見捨ててきたエボシを責めず、護衛のゴンザに怒りを向けるという場面がそうであるように、エボシが間違うはずがない、というのが彼女たちの共通認識なのです。
しかしこのシーンはエボシからの直接の指示であるたたら場防衛よりも、たたら場を放棄して生き延びる方へ向かっています。アシタカの説明があったとはいえ、その直前まではデイダラボッチとも戦うつもりだったわけですから、この場面は彼女たちのエボシからの独立を表現しています。

ちゃっかりしている人々

燃え落ちるたたら場。ドロドロに包まれてたたら場が崩壊します。湖へ避難するたたらの衆の肩には、エボシが開発させた新型の石火矢が担がれています。こんな状況でも頼れる武器であると共に、いわば軍事機密なので、できるだけ無事に持ち出したいというたくましい理由もあるのでしょう。

シーン4 ジコ坊に追いつくアシタカとサン

「その首待て!」

文字に起こすとすごいセリフですね。アシタカがジコ坊の前に飛び出します。「おお、お主も生きとったか、良かった!」とジコ坊は本心から嬉しそうに言うのですが、アシタカはにべもない対応です。実際、この後「あなたを殺したくはない」とまで言っていて、事態を収めるためにジコ坊の命を奪う覚悟まであります。たたら訪問の場でエボシに対しても同様のことを言っていたわけで、こういうところにアシタカの「村の長となるべく育てられたが故の非情さ」を見ることができます。為政者として、少数の犠牲で多数を救うという判断を下すことができるのがアシタカなのです。そしてこれは、エボシの特徴でもあります。

「朝日よ出でよ!」

筆者が一番好きなジコ坊のセリフです。神殺しをしようというジコ坊が、デイダラボッチという神の脅威を前にして、太陽という自然に自分を助けてくれるよう語りかけるというある種皮肉な構造をもったセリフでもあります。これにアシタカは「桶を開けろ」とめちゃくちゃドライです。

「アシタカ、人間に話したって無駄だ!」

サンはしれっとアシタカを人外扱いしています。

ナゴの守との対比

「首をお返しする! 鎮まりたまえ!」

シシガミ(デイダラボッチ)へ向けたアシタカのセリフですが、これは冒頭のナゴの守のときと対になっています。あのときもアシタカは「鎮まりたまえ」とナゴの守を神として扱い、慈悲を希っていました。ここでも同様で、シシガミの神性を尊重しているわけです。その点でアシタカは一貫して蝦夷の里の自然観を維持しているとも言えます。

また、このシーンでアシタカだけでなくサンの身体にも呪いの痣が広がっていきます。シシガミ首からこぼれた体液から発生しているですが、ちょっと疑問です。シシガミの首が飛んだ直後、死に始める森の中でシシガミの首周辺だけは生命が残っていました。それなのに、なぜこの場面では「死に至る呪い」がこぼれているのでしょう。もしかしたら、ずっとアシタカを苦しめてきた呪いの根源とは、命そのものだったのかもしれません。

陰陽道

昇る朝日、倒れるシシガミ。朝日を受けてデイダラボッチが湖へ倒れます。ジコ坊が言った通りです。なぜデイダラボッチが朝日で消えてしまうのかというと、これもナゴの守のことを思い出せば納得がいきます。
祟り神と化したナゴの守は陽の光の下に出たときに怯んでいました。そしてこのデイダラボッチは命を奪うドロドロの塊、煮凝った生命の塊です。いわば、生命の持つ「陰」の側面の象徴なのです(反対にシシガミとしての姿は「陽」の側面を象徴する)。
シシガミが必ず昼の姿に戻るのも、夜の姿(=陰の姿)であるデイダラボッチのままでは太陽の下で活動できないためでしょう。だから、ここで朝日を浴びたシシガミは形象崩壊を起こし、溜めこんだ生命を周囲にまき散らすというわけです。

シーン5 シシガミが消えた森

人間の変化

「すげぇ……シシガミは花咲かじじいだったんだ……」

甲六のこのセリフは、たたら場の衆(本作における「力を得た人間」の象徴)の認識が変化したことを表しています。たたら場の面々にとって、森とそこに住むシシガミは長い間恐ろしい敵でした。しかしこのシーンではもはや敵としてではなく、自分たちに身近な存在として認識を改めています。また、「業病」に苦しんでいるたたら場の病人が包帯を取られ、手を見つめていることから、彼らの病が消え去っていることもわかります。この点で、エボシがアシタカを誘った際の「シシガミの血はあらゆる病を癒やす」という言葉にも真実があったことがわかります。

シーン6 森へ戻るサン

シシガミとは

「蘇ってもここはもうシシガミの森じゃない。シシガミ様は死んでしまった」というサンのセリフも、その後の「シシガミは死にはしないよ。命そのものだから」というアシタカのセリフも、実はどちらも正しいのです。
禿げ上がった山に緑が戻っても、生えているのは草ばかりでかつてのような豊かな森ではありません。人間にとって利用しやすい土地でしかないのです。つまりシシガミの森は、かつての神聖さを失ってしまったということです。
たたら訪問の場でのエボシのセリフを思い出してください。「古い神がいなくなれば、もののけたちもただの獣に戻ろう」と言っていました。これから先に起きるのがそれなのです。もはや古い神々の時代は去り、人間の時代が始まっていくというわけです。アシタカのセリフについては最後のカットで触れます。

シーン7 エボシ御前を囲むたたら場の衆

展望

負傷したエボシをたたら場の人々が囲っています。エボシは「みんな初めからやり直しだ。ここを良い村にしよう」と告げます。先のデイダラボッチがたたら場に迫ったシーンで、トキをはじめとするたたら場の人々はエボシに従うことよりも命を守ることを選びました。これからエボシがつくる村は、以前のたたら場のようなエボシ独裁ではなく、住民たちが互いに助け合いながら発展していくことでしょう。

シーン8 シシガミの池、最後のコダマ

「シシガミ様は死んでしまった」のか

森の奥深くに光が差し込み、ここはかつてのシシガミの森ではなくなりました。しかし一匹のコダマが現れ、映画は終わります。サンは「蘇ってもここはもうシシガミの森じゃない」と言いましたが、こうしてコダマが現れるということは暗に、この森の神性が完全に失われたわけではないということを示してもいます。だからアシタカの「シシガミは死にはしない」というセリフもまた正しいのです。

森とそこに住まう神々は一度は人間に敗れ、時代の趨勢として否応なく世の主役から降りました。しかし、森にはいつでも、次なる神が生まれる余地が残されている……それがこのラストの意味なのだと筆者は考えています。そして、アシタカのような自然を尊重する態度、曇りなき眼を持ち続けようとする姿勢こそが、森と人とが互いに生かし合うために必要なことなのです。


おまけ:『もののけ姫』を考察する-いくつかの断片

ここまではストーリーの進行にあわせて『もののけ姫』全体を俯瞰しました。それをうけて、いくつかの考察を残して本稿を終えたいと思います。

『もののけ姫』には他にもたくさんの謎や秘密が残されています。本稿がみなさんの『もののけ姫』考察のきっかけになれば幸いです。

考察➀:サンの仮面

サンの仮面は物語の進行にともなって、「全仮面→半仮面→仮面なし」と変化していきます。これは同時に、サンの「森の神度合」と「人間度合」の尺度にもなっています。

初登場時から順番に追いかけてみましょう。アシタカとサンが初めて出会う川でのシーン……の前に、山で牛飼いの列を襲うシーン(第2場 シーン5)です。ここでのサンは全仮面を付けていますから、「山の神々」としてのサンです。状況的にもエボシたち人間に敵対的に描かれています。
しかしその後、アシタカの「名乗り」の場面(第2場 シーン6)では仮面を付けていません。このときサンが素顔を晒すことは、アシタカとたたら場の衆との扱いが本作の中では根本的に異なるということを示唆しています。サンを初めから「敵」として扱ったたたら場の衆(そしてエボシ)に対して仮面を、尊重すべき相手として扱ったアシタカには素顔を見せる、という対比構造なのです。これは同時に、アシタカとの関わりによって仮面(=森の神としての顔)が喪われていく未来への伏線でもあります。

このときのサンの口元にも注目しましょう。モロの君から吸いだした血で口元はべったりと汚れています。ある意味でこれが仮面の代わりなのです。サンが被る仮面の赤は血を表している、というメタファを感じ取ることができます。もう一つ面白いのは、サンのこの血を吸いだした口から、アシタカは口移しで食物を受けるということです。アシタカとサンを繋ぐのはサンの口だということです。

次に半仮面に移るのはどこかというと、乙事主が登場し、アシタカが快復して、いよいよエボシ勢力が森に分け入ろうかという決戦間近の場面(第5場 シーン3)です。
実は半仮面はこのタイミングでしか登場せず、後には仮面を失ったサンになっています。この半仮面、顔のどこを覆うものかというと、両目です。つまり口元は露出しているのです。サンの仮面は「森の神」から「人間」への移り変わりにリンクしていると言いましたよね。ここで、仮面がまずはがれるのがアシタカに触れた口元であるというところがニクい演出です。つまり、アシタカとの関わりによってサンは人間としての自分を受け容れ始めている、ということが視覚的に表されたのがこの半仮面なのです。

 さて、次にサンが登場すると、すでに仮面は喪われています(第5場 シーン5)。一緒に付属の毛皮もなくなっていますね。深い森の中で傷付いた乙事主に寄りそうサンはしかし、森の神々というよりはゆく当てのない、年相応の少女のように見えます。ここでのサンのいでたちは、サンの「人間度合」だけでなく「シシガミの森の敗北度」にもつながっています。山犬の毛皮もなく、仮面も喪失しているというのは、森の神の敗北が決定づけられていることをそれとなく匂わせます。だからサンはこのシーンでただの人間のような格好をしているわけです。この戦いで勝利するのは人間だと視聴者に印象付けています。

しかし、サンにとってはそれこそが必要なことでもありました。人間としての自分を認めず、怒りと憎しみに生きていた「森の神」サンが死ぬことで、ようやく「人間」サンが誕生できるのです。このように、サンの仮面は物語の進行度、森の趨勢、そしてサン自身の変化に結びついています。サンの仮面に注目して観返してみるのも、『もののけ姫』の楽しみ方としておすすめです。

考察➁:脇役としてのアシタカ

「『もののけ姫』の主人公は誰か」、と訊かれたら大半の人は「アシタカ」と答えるでしょう。しかしそれは正確でしょうか。物語の構造から、『もののけ姫』の主役は誰なのかという問いを考えてみたいと思います。

まず、物語の始まりはアシタカ、蝦夷の里から始まっています。村を襲う祟り神をアシタカが退治し、引き換えに呪いを受ける――――英雄叙事詩としては古典的な、かつ完璧な始まり方だと言えるでしょう。そこからアシタカの旅路が始まり、エボシたたらに至るわけです。ここまではアシタカが主役に見えます。

しかし、たたらに到着すると事情が変わってきます。そこでは森の神と人間との争いが進行しており、アシタカはこの争いについて完全に蚊帳の外です。それどころか、右腕に受けた呪いはこの地の諍いのとばっちりにすぎないことが明らかになります。

ここまで狂言回し(物語の進行役)として、いわば私たち観客とは一線を画していたアシタカが、エボシたたらでは事態の行く末を見守る「観客」と一体化しているのです。ここが『もののけ姫』の物語構成のすごいところです。本当に見せたいもの(森と人の争い)を描くためにそれを見る観客の代表者(アシタカ)を登場させ、旅立つ理由を背負わせて、「見に行かせて」いるわけですね。

この後、物語は急速にシシガミを巡る攻防へとシームレスに推移していきます。モロの君がアシタカに「お前にできることはもうなにもない」と語る(第4場 シーン6)のは、アシタカの「観客性」を際立たせるためでもあるのです。

まとめるとこうです。物語世界の一番大きな構造は、「森の神、対、人間たち」です。そのぶつかり合う力からはじき出されたナゴの守という流れ弾に当たったのがアシタカです。森の神を象徴する人物がサンであり、力を持った人間の象徴がエボシ、というわけです。

そう、実は『もののけ姫』は、アシタカなしでも問題なく成立する世界構造をしています。たとえばエボシの視点で森の神々の恐ろしさや強さを描写し、それに人間が打ち勝つ輝かしい物語にすることもできたはずです。逆に、サンの視点から森を侵す人間を打ち払う神々の物語を紡ぎ出すこともできたでしょう。前者は怪物と戦う人間、後者は侵略者と戦う先住民という構図ですから、ハリウッド映画ではお馴染みの設定になります。これらの脚本ではアシタカが登場する必然性がないのです。しかし、エボシかサンのどちらか一方でも欠けてしまったら物語は成立しません。

では、アシタカは『もののけ姫』に不要なのでしょうか? もちろんそうではありません。エボシに石火矢のつぶてについて問われたアシタカはこう言います。

「曇りなき眼で見定め、決める」(第3場 シーン4)

わかるでしょうか。これがアシタカがこの物語に必要な理由なのです。アシタカは観客の代表です。この争いの行く末を見届けなくてはなりません。そしてそれは、「曇りなき眼」で行われるべきなのです。

アシタカのこのセリフは、我々観客に対する喚起でもあるのです。すなわち、「曇りなき眼でこの映画を観てくれ」、という。

そして曇りなき眼で見たものをどう解釈するかは、観客ひとりひとりに託されているのです。

考察③:アシタカとエボシ、神殺しの末路

本作は「神殺し」の物語です。事態を進行させるのは一貫して「いずれかの森の神が死ぬ」という出来事になっています。ところで気づいたでしょうか。本作の中で神殺しを行っているのは、実はたった二人の人間だけなのです。

つまり、エボシとアシタカです。この二人の神殺しは会わせ鏡のように対応する構造になっています。この点を掘り下げてみましょう。

まず、物語の中でアシタカが殺した神は祟り神と化したナゴの守です。元はといえばエボシの石火矢のせいなのですが、トドメを刺したのはアシタカです。その結果、右腕に呪いを受け、死のさだめを負います。

一方のエボシはナゴの守を森から追い出し、モロの君を撃ち抜き、イノシシ神の軍勢を一網打尽にし、シシガミの首を飛ばし、ともうやりたい放題です。総勢40名の石火矢衆がいるはずなのに、神々に石火矢(人間の力)を命中させた場面があるのはエボシだけなのです。乙事主などのエボシが直接撃っていないと思われる場合は誰がやったのか語られてすらいないのです。

では、エボシはどんな報いを受けたでしょうか? そう、右腕です。奇しくもアシタカと同じように右腕なのです。モロの君によって腕を失っています。そして、アシタカは村を襲う祟り神をやむなく殺したのに対して、エボシは自ら望んで、森と敵対しました。だからこそ、デイダラボッチが倒れ、重病人が快復し、アシタカの呪いの痣が消える中でエボシの失われた右腕だけが戻らないのです。エボシの罪の重さの証として。エボシとアシタカはともに神殺しの報いを受け、その罪の重さに応じた運命をたどったのだといえます。

森の神と人間の争いは、一応は人間の勝利として幕を閉じました。しかし、物語の結果から逆算してみると、実は人間側の運命の行く末は、初めから森の神に対する罪に規定されていた、と見ることもできるのです。

勝利や敗北、生や死の概念を超えた宿命こそが、『もののけ姫』だったのかもしれません。


おわりに

本稿は以前同人誌として頒布した『もののけ姫非公式副読本』の内容を整理したものです。前々からnoteに転載しようと思っていたのですが、不精で先延ばしにしていました。金曜ロードショーで「もののけ姫」をやるらしいと聞いて、ちょうどいい機会なのでやってしまおうとまとめた次第です。
書いた当時から、新たな発見や解釈をしている箇所もあります。観返すたびに新たな発見がある奥深い物語が「もののけ姫」の魅力です。
本稿が「もののけ姫」の新たな魅力を見出す一助になればと思います。

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