トマトの話

すみません! 無理でした!

狩りのレヴューについて書こうと思ったんです。書こうとしたんですよ。1時間。仕事のお昼休みにご飯も食べずに会社のロビーでひたすら私物のsurface pro3をタイプしたんです。

結果どうなったかというと、たぶん狩りのレヴューについて現状読み解いたことを全てお話しようとすると30,000字くらい必要だということです。
「星見純那の武器が弓であること」について書いただけで3000字になってしまったので、そこから先の「狩りのレヴューとはなにか」とか「純那が刀を返さなかったことが大場ななの道を決めた」とか「私の純那ちゃん、は最初からいなかった」とか「なぜばななは切腹を迫るだけで手を下さなかったのか」とかの話に行けないんですね。

そこで、ひとまず今回は狩りのレヴューの中でも取り上げる予定だった、トマトの話をさせてください。
今回も、あくまで個人的な解釈と考察です。考察は生き物なので、変わることも死ぬことも生き返ることもあります。「こういう見方をするのも面白いかもね」くらいの温度感でご覧ください。

トマト。

もうレヴュースタァライト視聴済みの皆さんはトマトの絵文字を観ただけで「わかります……」という感じだと思いますが、では改めて、劇中では何度もトマトが登場していますよね。


参考画像:トマト

ミディトマト


でもこのトマトというモティーフは、テレビシリーズでは一切登場していないものです。劇場版にだけ存在するイコンなんです。
ということは、トマトそれ自体がなんらかの役割や、意味合いを持って使われているはずです。
そもそも『劇場版 少女☆歌劇レヴュースタァライト』は冒頭からトマトで始まります。トマトがはじけて潰れ、仰向けに倒れた華恋が映る。その後も至るところで登場します。物語の合間には必ずトマトがある。これでなんの意味もないわけない。


しかし、じゃあトマトはなにを意味してるの? となると、どうもハッキリしない。
植物が登場した時の定石として、まずはトマトの花言葉を調べます。ググったところ、「感謝」とか「完成された美」とかがヒットします。「ふーん」って感じですね。イマイチぴんとこない。

トマトが育つ環境を調べるために「トマト 生育環境」でヒットした論文にもいくつか目を通したものの、特に成果はなし。レヴュースタァライトを勧めてくれた友人が言うには、トマトは砂漠でも育つ植物らしいので、その辺りはなんらかの関係があるんだろう、という程度です。実際、冒頭は砂漠のシーンですからね。

なんとなく釈然としないまま深夜にトマトを買って帰ったりしていたときに、Twitterであるリプを受け取りました。


わぁ、すごい……!!

思わず感動してしまいました。言われてみればそうだわ、と。
そこでふと、「上から見る」という構図が引っかかりました。

百聞は一見に如かず、百のレヴュースタァライト考察は一度の劇場視聴に如かずなので、ご覧ください。
参考画像:トマトを上から見ると……

画像2

星じゃん。

そもそも、私の記憶違いでなければ劇中で私たちが見ていたトマトって全て「横から」のカットでしたよね。「上から」トマトが映されることってなかったですよね。
でも、登場人物たちがトマトを拾い上げるときって絶対にこの「上から見たトマト」を見てるはずですよね。
つまり、みんな星を拾い上げて、その上食べてるんです。
テレビシリーズ視聴済みの皆さんは気がついたでしょう。「星」はテレビシリーズで何度も繰り返されたモティーフです。
テレビシリーズにおける「星摘み」=「星罪」がその象徴であり、レヴューの果てにひかりが戴くのは「星のティアラ」。99期生が演じる演目は「スタァライト」。

しかし、劇場版ではこれらはほとんど強調されていませんでした。星のティアラなんて完全にリストラされています。
決起集会で建てられる「塔」こそスタァライトのセットですが、「星摘み」(あるいは星罪)については誰も、なにも言及しません。スタァライト、という演目名さえ出てこないのです。最後に華恋がいうセリフも「演じ切っちゃった、レヴュー、スタァライトを」です。「スタァライト」ではなく、「レヴュー・スタァライト(スタァライトのレヴューの意味?)」なんです。
それどころか、第101回聖翔祭で上演される「スタァライト」は結末が未完という有り様です。

(個人的には、もの書きとしてあの雨宮さんの「台本が間に合わなかった」しんどさがめちゃめちゃわかってしまい同情を禁じ得ません)

なにが言いたいかというと、テレビシリーズであれほど強く表現されたものを、あえて劇場版では隠しているんです。
そこで登場したのが、「星」の代替物としての「トマト」なのです。

みんながトマトを齧る、つまり、星はみんなの中にあるんです。
だから、劇場版のレヴューはテレビシリーズのレヴューと違って、終わった後に誰も「キラめき」を奪われていないんです。

「星摘み」ではない、「罪」ではないから。
皆殺しのレヴューで大場ななが語る、「これはオーディションにあらず」「だから、オーディションじゃないって」というセリフを思い出してください。
「これはオーディションにあらず」、とは「今進行しているこのレヴューは、テレビシリーズのレヴューとは別物だからね」という説明を兼ねているわけです。

ばなナイス。完全にばなナイスです。
さすが大場なな。全ての考察は大場ななに通じる。ありがとう。

でも、トマトがなにを意味してるのかはまだよくわからないままですよね。星の代替物なんだ、と言われても、じゃあその星ってなんなのさ、となります。
これについては、トマトが劇中でどういう扱われ方をしているか、という視点から推測していきます。全てを網羅するのは難しいのと、記憶違いもあるかもしれないので、特に印象的な使われ方をしている場面だけ選んでいきます。

1.冒頭


トマトが破裂します。それも最初と最後の2回。1回目のすぐ後に砂漠と愛城華恋、東京タワーで華恋とひかりが向き合う場面に移るので、最初は「最後の二人のレヴューが先取りされてるのかな?」と思っていました。
恐らく違います。最後のレヴューでは華恋の剣は折れているはずですし、東京タワーが夜になっている場面はこの後一度も出てきません(たしか) 。
このシーン全体の解釈はかなり困難なのでまた回を改めて考えていこうと思います。ここで注目するのは、破裂したトマトが2つだったという点です。

2人分のトマトなんです。

これって愛城華恋と神楽ひかりの分のトマトですよね。この点は後述する皆殺しのレヴュー後にみんながトマトを食べた後、スクリーン上に残る二つのトマトからも支持できます。
ひかりの自主退学によって、華恋は進路希望調査票を白紙で提出するくらい、「次の舞台」を定められない状態にありました。
同時に、ひかりもひかりでロンドンに戻って地下鉄に乗り込む際、現れたキリンに「私の役目は終わったはずよ」と言っています。それに、ロンドンでのひかりには王立演劇学園に戻った描写がありません
テレビシリーズを思い出してみましょう。ひかりは王立から聖翔へ「転校」してきたはずです。しかし劇場版ではひかりの進路について欄内に押されたのは「自主退学」の判でした。王立に戻ったのだとすれば、「転校」となるべきではないでしょうか? もしかしたらひかりは、舞台の道を諦めることさえ考えていたかもしれません。
この二人の状態は、「次の舞台へ向かう意志を失った状態」なのだと解釈しました。

この解釈を補強するために次の場面へ移ります。

※あるいは、最初のトマトの破裂が「再生産」されているという見方もできるかもしれません。

2.列車


みんなのトラウマ、皆殺しのレヴューです。ばなナイス。
皆殺しのレヴューそのものについてはまた別途記事を立てるとして、ここでは華恋とひかり以外のメンバーが最後にトマトを食べます。
(正確に言うなら皆殺しのレヴューの中で食べているわけではなく、その後のシーンでの出来事なのですが、皆殺しのレヴューから一続きの流れと解釈しました)

個人的にばななが足でリズムを取ってるカット大好きなんですよ。これから大好きな「みんな」をぶった斬ろうというときに音楽に合わせてノリノリで爪先をトントンできるのが大場ななという女だよね、という。

メンバーが次々に切り替わりながらトマトを齧るので、ここでは全員が食べたものとします。当初、ばななは食べてないのかな? と思っていたのですが、Twitterで訊いてみたら食べてたそうです。よかった。

このシーンで重要なのは、トマトそのものよりも一緒に語られセリフです。
「私たちはもう、舞台の上」
この言葉と共にトマトを齧ります。
そもそも皆殺しのレヴューとは、卒業を控えた「みんな」の「死」を回避するためにばななが始めたものです。

(レヴュー曲、wi(l)d-screen baroqueの歌詞を聴くと、「あなた、わかりますか ルールがわかりますか wi(l)d-screen baroque 歌って踊って奪い合いましょう」と語っており、ここでのばななはキリンの代役を務めていることがわかります。この点については改めてお話します)

みんなの「死」ってなんなの? というと、つまり「舞台少女としての死」です。

これがどういう意味なのか。レヴューが始まる直前の電車内のシーンに答えがあります。
新国立受験組が、観劇に行く前に新国立で質問したいことをまとめていました。みんなはしゃいでいます。それを見た西條クロディーヌが、「まるでファンね」と悪気なく言います。
この「ファン」という言葉。これがポイントです。

ここで天堂真矢。共に舞台に立つ両親の元に生まれ、天賦の才を与えられた彼女は周囲から抜きんでだ才能を持っており、並々ならぬ自負心があります。
もちろんそんな真矢をライバル視する西條クロディーヌもいますが、聖翔の99期生の大半は、真矢を憧れの存在のように捉えています。

それを指して、テレビシリーズで星見純那(じゅんじゅん)は「観客気分なら出てって」と一蹴するのです。
舞台少女として、圧倒的なキラめきを持つ天堂真矢でさえも超えるべき壁なのだ、という純那の決意が滲んだセリフです。

(そりゃこんなこと言ってたのに「今は、よ!」とか日和ってたらばななも「生き恥」って言いますわ。”眩しかった”よ、星見純那……)

「観客」という言葉を「ファン」と言い換えれば、もうわかりますよね。
というわけで、ここで表現されているのは卒業を前に過去の(テレビシリーズでの)熱いレヴューへの情熱を亡くした彼女たちの姿なわけです。

それを大場ななは「死」と呼んだ。満足してしまうこと、次の舞台への渇望を失うことは舞台少女としての死だから。余談ですが、テレビシリーズでの純那のレヴューは「渇望のレヴュー」でした。

そこで一度全員が舞台少女として死に、トマトを食べて蘇る、というのが皆殺しのレヴューの根底にある流れです。

(唯一、「観客が望むなら、私たちはもう、舞台の上」と舞台少女であることをやめない天堂真矢だけがななの刃を免れます)

電車の上で自分の死体を見つめ、トマトを齧るのはそのためでしょう。
この舞台少女としての死、という概念は別の形でも登場しますので、後述します。

3.ロンドン地下鉄


わかりまぁす。
電車に乗り込もうとした神楽ひかりの前にあのキリンが登場します。また電車か!!
真面目な話、全員が必ず電車に乗るのは「列車は必ず次の駅へ……」の表現だと思います。実際、1.で述べたように華恋とひかりは「次の舞台へ向かう意志」をなくした状態だったはずです。

しかしひかりはここでキリンにそそのかされ、華恋の身を案じて電車に乗り込みます。電車に乗る、という行為は決意の表れなんです。だから、この後のひかりはレヴューに参加することができたわけです。

話は少し逸れますが、劇中では明確に、「列車」=「舞台」という暗喩が成立しています。「列車は必ず次の駅へ。では舞台は? 私たちはどこへ?」という問いを発しながら皆殺しのレヴューが展開されるのはまさに「舞台」と化した「列車」です。

(つまり、ばななに見送られた後で華恋の列車が脱線・大破していたのは……?)

話を戻します。ここではひかりはトマトを食べません。見てほしいのは、ひかりの背後です。
駅のプラットフォームに設置された大きな広告には「wi(l)d-screen baroque」の文字と砂漠を背景にしたトマトの絵……
キリンの出現と共に、現実だった(現実に見えていた)この場所も一瞬でレヴュー空間になっているわけです。

ここでわかるのは、トマトとwi(l)d-screen baroqueにはなんらかの関係がある、ということです。

この「wi(l)d-screen baroque」は、虐殺のレヴューのレヴュー曲としてのwi(l)d-screen baroqueのことではなく、劇中のすべてのレヴュー、もしくは『劇場版 少女☆歌劇レヴュースタァライト』全体のことを指していると考えられます。というのも、劇中で展開されるレヴューはどれも「ワイルドスクリーンバロック➀」のように「一続きのワイルドスクリーンバロックの一場面」としてナンバリングされているからです。
「劇場版 少女☆歌劇レヴュースタァライトの、ワイルドスクリーンバロックの○番目」という意味です。すべてのレヴューは繋がっているんです。

(もしかしたら、どのレヴューもほとんど同時に起きて、同時に終わっているのかもしれません。テレビシリーズではまひるが華恋を追いかけ回しながら他のメンバーが斬り合っている真っ最中を通り抜けていきますからね)

このトマトの広告は、ひかりが地下鉄に乗りこみ、電車が走り去った後にホームに残されます。そして次に登場するときには、はじけて赤い中身を垂れ流しています。

これが誰のトマトなのか。恐らくは愛城華恋です。しかし、これは「トマトの絵」です。トマトそのものではない
つまり「今の愛城華恋の状態」の暗示なのではないか、と考えています。
実際、まずはじける前のトマトがスクリーンに現れたときに語られるのは「華恋の危機」です。はじけたあとのトマトが登場するときには、ひかりはレヴュー服を着ており、ひどく焦った様子です。
ここで示されているのは、「このままでは愛城華恋が舞台少女として死ぬ」という未来です。ひかりはそれを感じ取ったから、あれほど切羽詰まっていたわけです。
この点をさらに裏付けるのが、最後のひかりと華恋の対峙です。

4.東京タワー


最後のレヴューです。
ここで、トマトは華恋の背後にあります。華恋はそれを口にしません。それどころかひかりに「素で」話しかけています。舞台の上なのに。

wi(l)d-screen baroqueです。皆殺しのレヴューのときと同じです。「舞台の上なのに演技しない」なら「舞台少女としては死ぬしかない」。
それはそうと、ここで実際に華恋が死ぬのは「演技しなかったから」ではありません。ここに殺してくれる大場ななはいないので、別の理由によります。

「誰かが見てる」ってセリフが出ますよね。これっていわゆる「第四の壁」と呼ばれるやつです。

簡単に説明すると、「観客」と「演者」の世界を隔てる壁です。演じられている「演目」の世界から観客が見えていないのは、この「第四の壁」による効果です。
私たちが漫画を読んだり映画を観たりするとき、登場人物がこっちに話しかけてきたりはしませんよね。この「物語の世界」と「観客の現実」を区別する境界を指す概念です。

華恋はここで「観客」の存在を認識します。「客席って……」「照明って……」と続くセリフは、「今、まさにスクリーンを見ている私たち」を指して放たれた言葉です。これまで「舞台はひかりちゃんだった」華恋は、観客を意識してこなかったわけです。
ここで華恋は初めて、観客を認識し、舞台に立つことに恐怖を覚えます。

これが華恋を死に至らしめます。

さて、このシーンを理解するには華恋の過去篇を思い出す必要があります。
幼い華恋はひかりに連れられて、初めて「舞台」を観に行きました。そこでひかりと「スタァに、二人で」という約束を交わすわけですが、その直前、ひかりはむしろ、舞台上の輝きに圧倒されて舞台少女としての道を諦めかけているのです。
(いやぁ……わかるわ。私もレヴュースタァライト観て話書くの辞めようかと思ったもん)

幼い二人の視線の先にいるのは成長した二人、目を閉じて横たわるひかりを華恋が抱きかかえる様子です。ひかりはそれを指して、「あなたが生き返らせたのよ、舞台少女、神楽ひかりを」と語ります。
つまり、ここでひかりは死んでいるんです。華恋の言葉がひかりを舞台少女として蘇らせたわけです。

このときの二人の構図、キリスト教や美術史に詳しい人ならピンと来るはずです。

ピエタ像です。

参考画像:ミケランジェロのピエタ像

画像3


これは十字架で死んだキリストが降ろされたあと、それを聖母マリアがキリストの死を嘆くシーンを表現した像です。つまり、ここで「死んでいる」のは「復活を約束された死者」なのです。

だから、ひかりは舞台少女として生き返るんです。

そしてもう一つ、重要なことがあります。東京タワーでの華恋の死後、ひかりが取る姿勢もこのピエタなんです

かつてひかりが舞台少女として死んだように、華恋も舞台少女として死に、かつてのひかりと同じように、今度はひかりによって生き返る。

そして華恋の死を意味するのが、トマトの破裂である、ということです。

そりゃひかりもあれだけ慌てますよね。華恋が舞台少女として死んでしまうかもしれない、その危機を回避しようとまひるにさんざん脅かされながらやってきたら、当の華恋はかつての自分のように死ぬわけですから。

これが2.で述べた「舞台少女の死の別の形」です。


整理してみましょう。華恋とひかりを除く7人は、「列車」=「舞台」に上がったにもかかわらず、演じない。舞台少女としての渇望を喪いかけていた、それゆえに大場ななが自ら皆殺しのレヴューと、もしかしたらワイルドスクリーンバロックという構造そのものを始め、みんなの死を回避しました。
こちらでの舞台少女の「死」は一言でいえば「満足すること」です。クロディーヌが真矢に「アンタとのレヴューに満足して……」と語るところからも明らかです。
この7人の分のトマトは、はじけることはありません

しかし華恋とひかりは、冒頭からトマトが爆発四散します。この二人の「死」は、他の7人よりも深刻なのです。それは「舞台へ上がることへの恐怖」、あるいは「舞台の上に立つ意味の喪失」です。舞台少女にとって死に至る病です。
この病はトマトを食べても治らないのです。だから華恋はトマトを最後まで食べない。この「死」から救えるのはトマトという「次の舞台への意志」・「舞台少女の糧」ではなく、同じ舞台少女だけだからです。

それがひかりにとって華恋であり、華恋にとってひかりだった。

もっと言えば、華恋にとって「舞台はひかりちゃんだった」ように、ひかりにとっても舞台は華恋なのです。最後のレヴューでひかりが星を弾くのではなく華恋自身に剣を突き立てた理由もそこです。ひかりにとって、華恋自身がポジションゼロなのです。
(実際、アタシ再生産の前に華恋がTの形になりますよね)


ということで今回のまとめに入ります。

トマトは星でした。
トマトは次の舞台への意志でした。
トマトは、舞台少女の命の「象徴」でした。


以上が、現時点での「トマトの話」です。
なんだかトマトの話以外もたくさんしてしまったので8000字を超えました。この話を「狩りのレヴュー」の話の途中に挟もうとしてたの我ながら狂気以外のなにものでもないです。
次こそは「狩りのレヴュー」について書きます。期待してください。


最後に、劇場版 少女☆歌劇レヴュースタァライトのBDは12月発売だってよ!! やったぜ!!


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