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【‘‘次なる読書’’】

読書をしていると、あれも読みたい、これも読みたいという読書欲に駆られることがよくあります。
積ん読本や発売された本を読む為に、たくさん読まないといけない、もしくはいっぱい読みたいという気持ちが先行してしまい、せっかく読んだ本の内容を全く覚えていないこともあったりします。
では、どうして手当たり次第に色んな本を手に取ってしまうのか、それは読書を通しての知的好奇心が読むことの本質を見失わせてしまうものがあるのではないかと私は考えることがありました。
私が以前に記した長編の『思慮する読書』は、毎日少しずつ読んだ本の感想を書きまとめて、普段記す本の感想や書評とは少し書き方を変えて読書することから発展させた思慮する行為というものを尊重させることで、より重厚的に物語を語るということをコンセプトに記しました。
実際に『思慮する読書』で取り上げた本は、どの本よりもしっかりと読み込んだ記憶があって自分の中に血肉化されたという実感があります。
次なる読書に行く前に、目の前に開かれた本としっかりと向き合うことを大切にすることを忘れていたのではないかと『思慮する読書』を書き終えてから気付くことがたくさんありました。
読書術には、知識や知性を磨かせる補助の役割があって、それ以外の目的にも利用されるものがあり、技術力という観点から見ても非常に優れたものであることは確かであります。
そして、そうした技術力を身に付けた読書のプロというのは必ず存在しており、自分よりも高みにいるプロの存在に劣等感を抱いていたというのもまた事実でありました。
本を読むことは、頭の中で複雑に情報処理されていて、一見すると読書というものを私たちは単純に捉えているような気がすると感じました。
そして、今の私と私よりもたくさん本を読み込んできた読書のプロの方と数日、数ヶ月、または数年で肩を並べる、追い付くという考えは無謀であるということも分かってきたことがありました。
技術と才能はまた違うものがあり、技術力が生まれ持った特別な才能を越えることは決してありません。
技術を身に付けて、毎日少しずつ鍛練し続けることで確実に成長出来ますが、技術と技術力には限界点というものが存在するものがあると私は考えています。
次なる読書にいく前に、その本に記された特別な大切な思いをしっかりと汲み取って、次なる読書に繋げていくことが本来の読書の在り方なのではないかと思うところがあったりします。
一ヶ月で20冊の本を読んでも、読んだ本から何も得られなければ、せっかくの読書の意味が無意味となってしまいます。
それならば、一ヶ月で2~3冊の本をしっかりと精読して、なおかつ再読することの方がよっぽど意味のあるものだと思います。
『思慮する読書』から『虚無と結実』まで記した過程で、読書から得たものを書くことによって、より体系化させることが出来たと感じています。
この両者を極めることが私の理想でもあり、書くことも読むこともまた、その道は果てしないものだと思います。

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