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[エッセイ]【つながりのもう一つの世界の話】

つながりのもう一つの世界の話、私にとってのもう一つの世界とは、SNSでの世界のことです。
今さらですが、おかげさまで、noteやTwitterでも、これだけのたくさんの方々のフォロワーさんと出会えたことは私自身の大きな喜びであります。
ですが、その反面、noteやTwitterでも自分なりの言葉で文章を記すことが、たまに怖く感じてしまうことで色々と悩んだりしてしまうことがあります。
多くの方々の支えと共に、自分の発信について自分の知らないところで、自分が発信した言葉のせいで傷付けてしまう人が中にはいるかもしれないのではないかと、脳裏を過り、畏怖の念を抱いてしまったりします。
私にとって、noteやTwitterは自分を表現出来る魅力的な場所であります。
そして、文章を書くことは私にとっての大切なものであり、本を読むことと同様の価値があります。noteやTwitterは、同じくSNSのくくりではあるものの、その世界にいる人たちは同じようで、同じではないと感じます。
Twitterでは、Twitterでの自分。noteでは、noteでの自分と、それぞれに合わせた軸というものがあり、私自身もその世界にいる私は二人の自分が、世界の中で生きているという感覚があります。
TwitterでAさんとやり取りをしている私、noteでBさんとやり取りをしている私は、同一人物でありながらも、個々の世界=SNS上では、違う人物として文章を通してやり取りをしていることに違和感を覚えるようになりました。
やり取りしている過程で、自分が今から発する言葉や発した後に相手の方が受け取った、受け手の内心など、私は会話の中で物事を深く考え過ぎてしまう癖というものがあります。
自分が発した言葉が受け手にとって、どう解釈されるかは相手の受け取り方次第であり、考えに考えを巡らしたところで、解決策に結び付くことはありません。
どうして、そのような考えが思い浮かぶのか、それは自分が言葉というものに敏感に考え過ぎてしまうことが原因でありながらも、誰かからの言葉から自分自身が傷付きたくないという一種の表れのようなものではないかと思ったりします。
SNSでは、必然と多くの人たちと交流出来る楽しさや喜びがある反面、お互いが傷付く場合も考えられます。
私が今こうして、文章を記している間はnoteでの私であり、Twitterに戻れば、Twitterでの私、スマホを手に取ることを止めれば、現実での私と、私自身はつながりの中で数人の私という存在がいます。
現実での私でも、仕事やプライベート、家族や友人と接している時の私は、本来の私であるのにも関わらず、微妙に異なる自分がやり取りをしているという感覚があります。
つながりのもう一つの世界というものは、いくつもあったりと、その世界の中で楽しかったり、悲しかったり、怒ったりと様々な感情を吐露しながらも、経験し学び、そして少しずつでも成長していく。
世界は、決して一つではなく、つながりがあるからこそ、私たちは思い出を作ることができ、つながりがなければ、決して一人では生きていけないものだと感じます。




傷付くことは怖いけど、言葉で誰かを傷付けてしまうのではないかという考えは文章を記している間、記していない間でも考えがずっと残っていたりと、今でもします。
つながりの世界の中で生きることは長い人生の中でも一番難しいことのように思えます。


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