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【‘‘筆彩’’】

小説や映画において、読むことと見ることの任意は対象者によって決められる。
物語の中に没頭している時というのは、別次元の世界へと身を投じているということになります。
小説を読んでいる時、私たちは栞を挟めればそこで強制的に物語の幕を閉じることが出来ます。
映画の場合、家で見ている時は一時停止のボタンを押せば一旦物語から退場することは可能ではあるが、それは一定時間のみ有効だと考えられます。
映画館で映画を見る場合、途中で席を外してしまえば、そこから内容を追って理解するまでが難しくなってしまいます。
途中でやめるという行為は物語の断絶を意味するものであり、翌日から読む、見るという行為は最後に読んだ、あるいは見たところの記憶と続きの話へと結びつける認識から始めなければいけないものだと思われます。
マルセン・プルーストの代表作『失われた時をもとめて』から、時間軸の歪みというものについて考察する場合、プルーストの小説の特徴としては意識下の記憶を蘇らせて空間を越えた先に現実の意識へと記憶を認識させて‘‘今’’という現在を実感させるものがあると考えられます。
意識と無意識の狭間にあるものは夢想であり、現在と過去を往復していく中で、忘却もあれば記憶もあります。
こうした働きの認識のズレが起きてしまわないように私たちは物語というものを求めます。
物語から共感を得たいという心理状態こそが、目的であって無意識的にも、数ある小説や映画の中から自分に重なるものを選ぶことがあるから、新しい価値観を持つ物語を作り手は量産していくのではないかと思われます。
何かを作り出すことというのは、新しい生命を作り出すようなことだと感じます。
一つ一つの色や形状が違っていても、そこには個性が主張されており、読むことも見ることも、受け入れるということが求められるものだと思います。
受け入れることは、認識から理解へのプロセスでもあり、価値を創造へと変えることが出来るのは人にしか出来ないものだと考えられます。

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