見出し画像

ぼくんちの震災日記【読書感想】

佐々木ひとみ 作 本郷けい子 絵 新日本出版社
12年前の2011年3月11日。
東日本大震災が発生しました。
その日から4日間を描いた作品です。
河北新報夕刊に連載された「がんづきジャンケン」に加筆・修正されたものです。
著者も仙台市の中心部の仕事場で地震を体験されました。

登場人物は父、母、小学4年の友樹、中学1年の絵美を中心に、地震から4日間の様子が描かれています。
震度の大きかった地域ならではの緊張感、大変な思いをしたのかが窺えて胸が詰まります。
読みながら震災当時を思い出したので、状況を書き留めたいと思います。

私は神奈川県東部に住んでいます。
地震のあった日時は、隣市に買い物に出かけてました。
夫は仕事です。義母(夫の母)だけが自宅にいました。

私は隣市の駅ビル内にいて、6階の書店にいました。
最初は小刻みに揺れているなと感じたのですが、次に大きな揺れが来ました。書棚から本が落ちるのを見て、その場から離れました。
近くにいた高齢女性が立ち尽くしていたので、近づいて肩を抱きながらいっしょにしゃがみこんだのです。
体感では長い揺れだったと思います。
駅ビルの防災センターからアナウンスが入ると、従業員たちがお客さんに指示をして、避難誘導を始めました。
その時、エスカレーターは停止していたので、皆が階段のように歩いてビルから出ました。

地上ではたくさんの人が集まって携帯電話で連絡を取り合ったりしたようですが、電話が繋がらない状態も出てきました。
私は自宅に電話をしてみましたが、呼び出し音も鳴らない。家に1人でいる義母の様子が気にかかりましたが、電話が繋がらないことにはどうにもならない。

それに加えて、電車がストップしました。かろうじてバスが動いているようですが、バスロータリーは行列でした。タクシーも同じです。
余震が続く中、バス停で待ち続け、循環バスに乗り込むと、ゆっくりとバスが進みます。
しかし、地元へバスが入ると違和感を覚えました。
何がおかしいのだろうか?
信号機の明かりが消えていたのです。国道と幹線道路の交差点では、警察官が交通整理をしていました。
停電でした。
バス停で下車し、急いで自宅へ戻ると、義母は無事でした。
室内は倒れたものなどはなかったですが停電は続いてるため、まだ明るいうちに大型の懐中電灯やカセットコンロとカセットコンロ用のガスボンベを用意し、ラジオを出して義母にも渡しました。
3月なのにだんだん冷え込みが増してきました。
カセットコンロでお湯を沸かし、お茶を作り保温のできる水筒に入れ、その後、土鍋でご飯を炊き、おむすびを作り義母にも渡しました。
夕方5時を回ると、あたりが暗くなってくると寒さも増したような気がしました。

街灯もまだ明かりが点きません。テレビが見られないのでラジオで情報を得つつ、携帯電話(当時はまだスマートフォンを持っていなかったのです)でTwitterやニュースサイトを見ながら状況を把握する状態でした。

夫とやっと連絡が取れ、無事を確認できたため、こちらは大丈夫だから急いで帰らなくてもいい、と伝えました。電車もストップしてるので帰宅するにも大変だからです。
当時、歩いて帰宅した人が多かったと思います。家族との連絡が取れない不安からですよね。のちのテレビにニュース映像で都心部から大勢の人が歩いている様子がありました。

停電が続く中、Twitterのフォロワーさんの励ましが、なんと心強かったことか。停電中は充電もできないだろうから、できるだけ携帯電話を使わないようにとアドバイスも頂きました。
このことがあり、今はモバイルバッテリーをいくつか買い込み、常に充電しておくようになりました。

夜になっても停電は直りません。窓の外を見ると、夜空の星がきれいに見えたことを、思い出します。いつもは星も一番明るいものしか見えないのに、町の明かりが消えたら多くの星々が見えていました。
ラジオからは緊迫したアナウンサーの状況説明が流れるばかり。いたたまれずラジオを消したこともありました。

確か、夜の10時を過ぎたころだったでしょうか。
ようやく明かりが復旧しました。
電灯を点け、テレビのスイッチを入れた時、真っ先に映ったのは真っ暗な中に燃える炎でした。それが気仙沼の海の様子だったとあとから知りました。

義母には少しでも横になって眠るように言い、私はテレビを見ながら夫にメールをしたり、Twitterを見たりして一夜を明かしました。

夫が職場から帰宅したのは3日目の朝でした。
疲れ切ってましたが、私たちの顔を見てホッとした様子でした。
その日からしばらくは、いつでも逃げられるよう、荷物をまとめて居間に置き、寝る時も居間に布団を敷き、洋服を着て寝る様態を続けてました。
けっこう余震が続いたからです。
1週間くらいはこの状態を続けたと思います。
余震が来るたび飛び起きる。
ぐっすり眠れなかったです。
そのうち、昼間でも体が揺れているような感覚が残り、地震酔いというのだとわかりました。

食料は買い置きや非常用の食品があったので、それを食べておりました。
それでも、コンビニやスーパー、ドラッグストアなど、食料品が品薄になってたこともあるようでした。
東北の被害の大きかった地域は、流通も止まってしまい、こちらよりも品薄が多かったはずです。「ぼくんちの震災日記」にも描かれていました。

12年を経ても忘れられないこともありますが、忘れてしまったこともあって、改めて確認できたように思えます。
「ぼくんちの震災日記」の登場人物は、大変だった日々をがんばった日々に変えて乗り越えていきました。その被災の大きさで感じ方も変わってしまうけれど、「あの時、わたしたち、がんばってきたね」と言えるようになりたいです。
巻末のお母さんの「あってよかった!」メモは参考になりました。
本郷けい子様の描かれたイラストが柔らかく、優しいタッチに心がホッとしました。

長くなりましたが、これにて失礼します。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。

2023年3月11日(土) 奈央

ぼくんちの震災日記

この記事が参加している募集

記事が少しでも心に残ったものがあれば幸いです。サポートもありがとうございます。創作の支えとして大切に使わせて頂きます。