月明かりの下で ベスは子犬のように


第一話
<母さん大変だあ!>

今日、安曇野の親せきから子犬が来る。春休みが終わって学校が始まれば、僕は小学三年生になる。「犬を飼ってもいいよ」といわれてから、ずっと待ち焦がれていた子犬だ。朝早くから目が覚め、そわそわうろうろ、落ち着かない。
ビー、ビー、玄関のほうで警笛が鳴ったのは、もう夕方だった。下駄をつっかけて飛び出すと、車から出てきたおじさんが笑いながら、あごをしゃくって、車の荷台にあるダンボール箱を指した。荷台に手をかけ背伸びして中をのぞくと、二匹の子犬が顔を出して、不安そうにこちらを見ている。
「やっぱり二匹いるね。僕んとこで選んでいいの?」
「ああ、もう一匹は、小林さんのとこにな」
ダンボール箱は、玄関に置かれ、家族のみんなが集まった。箱の底には布が敷いてあって温かそうだ。
二匹とも雑種犬の雄で、一匹はビロードのような、つやつやとした黒い毛をし、黒い瞳をくりくり光らせている。もう一匹は白と茶のブチで、頭の右半分と、右目、右耳が、薄い焦げ茶色になっていた。
「似てないね、これが兄弟?」僕がひとりごとみたいにいうと
「ああ、どっちもかわいいだろう。四匹うまれたうちの二匹だ。利口そうなのを選んで持ってきたんだぞ.、昼ご飯はたっぷり食べているから、水を飲ませてやってな」「ほんとかわいい!」座って子犬をなぜていたお姉さんが、にこにこしておじさんに会釈し、水を取りに行った。
「さーて、じゃあ」おじさんはそういって車の戸を開けた。母さんが「お茶の用意がしてありますから」といったが「いやいや、明日から田植えの準備だわね」とすぐに車に乗り込んだ。僕は、ずーっと子犬を見つめたままだ。頭の中は子犬のことでいっぱいになっていた。
翌朝、空が明けるころに目が覚めて、僕は寝床を抜け出すと、子犬の様子を見に二階から降りた。ガラス戸の内からのぞくと、二匹の子犬はもう僕に気がついて、行儀よく首をそろえて、暗がりからこちらを見ている。青白い四つの瞳が、箱の中で、じっと動かない。硝子戸を開けて縁側に降りると、とたんに、二匹の子犬は、段ボール箱を揺らして、ぐるぐる駆け回り、首をいっぱいに伸ばして尾を振った。僕は、しゃがみこんで両手で、子犬の首や背中を抱え込むようにして撫でた。箱から出してやると、二匹は、案外しっかりとした足取りで、庭の中を駆け回りはじめた。(どっちの子犬にしようかなあ)。
お昼ご飯の時、母さんに聞いてみた。「黒も、ブチも、あんなに仲がいいよ。二匹いっしょに飼えないかなあ、だめかなあ。」「ダメでしょう。小林さんとこだって、みんな楽しみにしてるんだもん」「そうだよね」
一週間ほどして、従兄弟の小林のよっちゃんが、引き取りに来ることになっている。けれど、一日過ぎても、二日過ぎても決められなかった。おとうさんは「黒のほうが精悍で賢そうだ。ブチは、顔つきもぼんやりしているし、動作も今一つだなあ」と言う。いわれてブチの顔を覗き込むと、そんな気もしてくる。
そんなある日のこと、学校から帰って、おやつを食べているときだった。
縁側の下で、キャンキャン、けたたましく子犬がないた。
出てみると、ブチが、せかせか、ぐるぐる、行ったり来たり落ち着かない。目が合うと、ギャウンギャウン、叫びだした。食べかけのビスケットを投げてやっても目もくれない。「普通じゃないわね」お母さんも出てきて様子を見た。そして下に降りてサンダルをつっかけた。するとブチは、よろけながら、一目散に、庭の奥にある茂みに向かって走った。母さんと僕も続いた。
茂みに飛び込むと、ブチは体を低くして、あううー、あううー、と唸るような、悲鳴のような声を出した。僕は、茂みをかき分け、ブチが顔を向けている場所を見て、一瞬で何が起きたか分かった。茂みの一番奥には、庭の野菜作りのための小さな肥溜めがあった。その上にワラを厚めにひいて、ふたがわりにしてある。ぼくは、幼稚園のとき、そこに片足をつこんでしまったことがあった。(母さんここだ!)ぼくが叫ぼうとしたとき、母さんは、僕を押しのけるようにして、二歩、三歩出ると、蓋がわりのワラをはねのけた。肥溜めの中で、黒の子犬が、全身を黄色にぬたくって、もがいていた。僕は立ちすくんだ。何か言おうとするが、声が出ない。でも母さんは、もう、肩まで腕まくりをして、肥溜めの中の黒の背中を、わしづかみにつかんでいた。それは、いつものおとなしい母さんからは、想像もつかないほどの速さだった。母さんは、背中をわしずかみにしたまま、十メートルほど離れた、井戸水が流れ落ちているところに走っていき、黄色の汁まみれの子犬を、ザブンとつけた。母さんは、黒をごしごしと洗い、鼻を近ずけ、臭いをかいで、顔をしかめ、今度は置いてある石鹼で泡だらけにして、またザブン、ザブンとやって洗った。それを見ているブチは、ザブンとやられるたびに、ぶるぶる、とふるえた。黒は、温かいタオルにくるまれて、しばらくおとなしくしていたが、すぐに元気になった。翌日になっても、黒の臭いは消えなかった。気のせいかと思って、鼻をつけて嗅いでみると、やはり臭った。僕は、日が高く、温かくなるのを待って、もう一度、黒を丁寧に洗いなおした。でも、どうしても、かすかに臭いはのこった。
このことがあってから、家族の気持ちが決まった。今までと考えが変わった。こげ茶のブチは、ひょっとして、大変利口な犬かもしれない。この犬をわが家に残そうということになったのだ。
その週の日曜日、中学一年生の従兄弟のよちゃんが、自転車の後ろの荷台に、ダンボール箱をつけて子犬を受け取りにきた。,,
よっちゃんは、庭で遊んでいる黒を見ると、顔をくずして笑い、両手で持ち上げて腕に抱きかかえ、抱きしめて、しきりに頬ずりをした。僕は少しドキドキして、後ろめたい気持ちで見ていたが、よっちゃんは、ただうれしがった。
夕方、黒は、自転車の荷台に乗せられて、箱から首だけをこちらに向けて、連れていかれた。僕はこげ茶のブチを腕の中に抱いて見送った。ブチは、
くーん、く-んとないた。黒は自転車が、闇にかすんで見えなくなるまで、
こちらに顔を向けていた。二匹の兄弟は、それきり会うことはなかった。

第一話 終わり


第二話
 <名前はベスに>

黒と別れた夜、ブチはダンボールの中でごそごそ音を立てつづけた。、家の中にいるみんなが、話すのを止めて聞き耳を立てた。ため息をつくようにくーんくーんと声を出している。
「さみしいんだね」と僕。
「ダンボールの上のふたをしてあげたの?。寒いかもしれないわよ」母さんが言った。
「うん、してある。一匹になっちゃったもん。」
「厚版のしっかりした段ボールだから、もうしばらくは段ボールの中において、大工の秋山さんに犬小屋をつくってもらおうか。」お父さんが言うと、
お姉さんがうなずきながら「とにかくブチに名前を付けてあげなくちゃ。」
「そうね、いつまでもブチではかわいそうだわ」お母さんもそう言って僕をみた。
「良ちゃんは何て名前にしたいの」おねえさんが聞いてきた。
「いきなり聞かれたってわからないよ。」
「もう、おそいから明日にしなさい」母さんに言われて、僕は、ゆるゆる階段を上がりながら考えるが、よくある名前しか思いつかない。
 
次の日の朝、お姉さんがニコニコしながら聞いてきた。
「いい名前考えた?」
「考えたけどわからない。」
「姉さんは、名前あるんだけど。」
「…なんていうの?」
「ベスっていうの、どう?」
「なあにそれ!」
「姉さんの好きな若草物語の女の子の名前よ。」
「やだよ、ブチは雄だよ。ダメダメ。」
(姉さんは、僕より八歳とし上だ。言い負かされないようにしないと。)
「懐かしいわね、若草物語、母さんも昔読んで憧れたわ」
「ベスはね、四人姉妹の三番目の女の子で、自分のことよりまず他の子のことを考える人なの、姉さんの一番好きな子なの」
「何てったって、おかしいよ。ベスは雄だよ」
「ベスなんて素敵じゃない。女の子の名前だなんて誰も思わないわよ。」
母さんが、姉さんのほうについてしまった。僕はお父さんを見た。
「ベスでいいんじゃないか」
「ええ!」お父さんまで、ぼくは声もでない。
「雑種犬のブチ君も、皆に愛されている子の由緒正しい名前をもらう。その辺の血統書犬などではない、真の愛犬、名犬になってくれよっていうわけだ。」そう言ってお父さんは満足そうな顔をしてる。
「由緒正しいって何?」
「まあ、ここでは小説に登場するベスという女の子が、世界のみんなから愛され、読まれ続けてきたことかな。」
「ねえ、良ちゃん、名前がつくまでブチでいくの?」
「ううーん」とぼく。
「まあ、最後は良が決めればいい、ゆっくり考えなさい」とお父さん。
(うーん、やっぱりブチのままでは・・・)
「物語のベスはね、芯は強くて優しいのよ」とお姉さん。「良ちゃんは、子犬の来るのをすごく待ってたよね。だから、良ちゃんの良い友達になってねっていう気持ちもあるの」
まだ、もやもやするが、「ベスにするよ。」と言ってしまった。
縁側から降りると、ブチはダンボールの中で、飛び跳ねてぐるぐる回った。腕を伸ばしてブチに話しかけた。ブチは、思いっきり尾を振って僕の手をなめてきた。
「お前の名前はベスっていうんだよ、わかる?」手をなめながら、体をすり寄せてくる。
(お前はまだ子犬なのに、兄弟の黒を助けたんだものな、すごいよ)
両手のひらでベスの顔を包み、瞳をじっと見つめているうちに、もやもやした気持ちがスーッと吸い取られていくようだ。お父さんの言う名犬になるような気がしてきた。

<第二話終わり>

第三話
<それでもベスは、立派な番犬だ>

僕はベスにかかりっきりになった。ベスの鼻の先からしっぽの先まで注意を注いだ。そして田舎のおじさんの言葉を信じた。
「この犬は雑種は雑種でもただの雑種ではないんだぞ。元をたどれば、たいしたものなんだ。だから耳もピンと立つし、尾もくるりと巻くはずだ。」
日がたつにつれて、ぺちゃんと折れていた両耳が少しづつ立ち始めた。
左の耳はピンと張って形がよくなったが、右の耳は半分折れたままだった。
僕は垂れてる耳を手でつまんでピンとさせ、辛抱ずよくその時のくるのをまったが、とうとう折れたままだった。
尻尾は、垂れていた尾が上にあがってきた。
「おじさんの言うとおりだ!」
でも、まっすぐに上がった尻尾は、左に傾き、曲がり始めたところで動きを止めた。くるりと形よく一回りするはずだったのに。
「これ以上はもうだめか・・・」僕はがっかりして、あきらめた。
僕の夢が次々と砕かれても、ベスは、曲がりそこねた尾を、右に左に激しく振って僕にじゃれかかった。
ベスは、こうして中型犬の、胴は、やや長めの犬に成長した。ただ首が太かったためか、吠える声は低く鋭かったので、夜、暗闇で吠える時には、家の中によほど大きな犬がいるようだった。
「いい声してるじゃないか、立派な番犬だよ」父さんはそう言って僕を慰めた

<第三話終わり>

第四話
<ベスは、松本城のお堀に飛び込んで、じゃッボーン!>

ベスは、生まれてから七か月がたった。
お父さんがベスの首輪を買ってきた。
「革の首輪にしたよ。まだまだ首は太くなると思うから、少し緩めにしておいた。」
しっかりした赤い色の首輪だ。僕がベスに首輪をつけると、嫌がりもしないで、すっくと立って僕たちを見つめ尾を振った。
「立派に見えるわね。」とお姉さ
「ほんと見違えるようだわ。」とお母さん。
「裏庭を走ってばっかりだから、散歩に連れて行くよ。なあ、ベス。」
「まだ大人とはいえはないが、力は強いぞ。良なんか引きずられるぞ。」
「うん、隣の修ちゃんと一緒に行くよ。もう五年生だし力も強いから。」
「遠くまで行かないこと、いいな」とお父さん。

もう、夏休みも終わりに近い。修ちゃんに頼んだら、「うんいいよ。」と言ってくれた。四年生の弟の陽ちゃんも一緒に行くことになった。
朝、十時までは、それぞれが夏休みの宿題をやって、それから僕の家の玄関に集合することになった。 
「おお!ベス、大きくなったな。」ベスは、修ちゃんに飛びついて尾を振った。陽ちゃんも頭をなぜている。
「初めての散歩だから、裏道を通って、ずっと行って、教会のところまで行って、お城の裏堀のところを歩いて、お城の公園に入る。ベスを連れて歩くから四十分はかかるよ。公園の中で遊ばせれば十分だな。」
修ちゃんはもう決めていた。
(やっぱり頼りになる。)
ぼくが綱をもって歩きだした。
ベスは、何回も僕を見上げ、足にまとわりついてくる。でも歩いていくことはできた。歩いているうちに広い通りにでた。
「なーんだ、ぜんぜんへいきじゃん。」
修ちゃんと陽ちゃんは、後ろから退屈そうに歩いてくる。
途中、鎖につながれた大きな犬がじっとこちらを見たが、
ベスも僕たちも、道の端によけてそろそろ歩いた。
教会のところに出て、左に折れて、神社とお堀の間の道を歩き出したときだ、ベスがいきなり走り出そうとした。引きずられて僕は転びそうになったが、綱は放さずひっしにこらえた。
「ベース、ベス!」と叫んだが、ベスは狂ったように前に前に引っ張る。僕は、ずっるずると足を滑らせる。修ちゃんも一緒に綱を握ってこらえた。
「ゲゲゲー、ゲホゲホ」ベスは、首輪をのどにくい込ませ苦しそうにするのに、鼻の先を地面にくっつけ、前のめりになって引っぱる。
お堀の淵は、急坂になっていて、下のほうでは水が音を立てて流れ込んでいる。お堀は深い。
落ちたら絶対上がってこれない。朝、小学校へ行く途中、お堀の水面にトンビが大きな鯉を爪に刺したまま、飛べなくて死んでたのを見たことがあった。
「絶対綱を離すなよ!」修ちゃんは必至の目で訴える。
「すごい力だ。どこに行きたいんだよう!」
「もう、行きたいところへ行かせよう!」
三人は、「はっーはっー!」肩で息をしながら、綱をしっかり握り、ベスに引っ張られて走って、
とうとう、お城の広場に入った。それでもベスは、まだ
「ゲーゲー、ゲホ、ゲホ」し、急に立ち止まって、背中を丸め「ぐうえー、ぐうえー」吐くようすを見せ、また引っ張る。
広場は木が多くあり、芝生になっている。今は、ほとんど人もいない。
修ちゃんが、手を真っ赤にし疲れ切った顔をして
「綱を外して遊ばせようか」といった。
僕も、ふらふらしながら
「うん」とうなずいた。
綱をはずすすと、ベスは芝生で遊ぶと思ったのに、
また駆け出した。
「あああー!」僕たちは叫んだ。
ベスは、まっしぐらに、赤い月見櫓が見える、お城の正面の堀に向かって走った。
修ちゃんが後を追った。
「もういいよ修ちゃん、ベスはバカ犬なんだ!」
でも修ちゃんは走った。
ベスは、お堀の岸辺ぎりぎりで止まって、ぼくたちを振り返った。
「ベース!ベスー!」
僕が、ありったけ叫ぶのと同時に、ベスはポーンと飛び上がり消えた。
「じゃボーン!」水しぶきの音がした。
「うわー!」
修ちゃんが叫んで、僕も走った。
ベスは池の中で泳いでいた。首を上げて前に進んでいく。犬かきだ。
ただ見つめるだけ。言葉もでない。修ちゃんと顔を見合わせた。

<第四話終わり>

第五話
<野生の目覚め>

岸から離れて泳いで行くベスが、顔をこちらに向けた。
修ちゃんが、はっとしたように僕を見て、靴を脱ぎ、ズボンをたくし上げ、水面の下に見える石段に足を入れ、大声で叫び、手をたたいた。
「ベース!ベス、ほら、こっち、こっち!」
ベスは、修ちゃんめがけて泳いできた。口を開け、舌を出し、懸命に前足を動かしている。初めてとは思えない見事な犬かきだ。ベスが修ちゃんの足元まで来ると、修ちゃんは、すばやく首輪をつかみ、岸の上に引きずりあげ、ベスといっしょに転がった。起き上がったベスは、僕たちを見まわしてから、体を、二度、三度、ぶるぶるっと震わせ、全身から水しぶきを飛ばした。
「うわあ!なんだこいつ。」と言い、修ちゃんはベスの頭をぺしぺしやって、笑いながら僕を見た。僕も笑い返した。陽ちゃんがベスに鎖をつけている。ベスは、少しも嫌がらない。しきり尻尾を振って僕たちを見上げている。
帰り道、ベスは、もう綱を引っ張らなかった。ときどき僕たちを見上げ、僕たちに合わせて歩く。
「ベスは仲間になったつもりだね」陽ちゃんが言う。
「こっちの話を聞いているみたいだな」修ちゃんが言う。
不思議に思った。来る時と帰る時では、まるで別のベスがいる感じがした。

夜ごはんの時、お父さんにベスの話をした。
「いきなりお堀に飛び込むなんて。おぼれて死んじゃうかと思った。水に入ったことなんてないのに、なんで泳げるんだろう。」
「本能だよ。野性が目覚めたんだな。きっとベスは、満足したろう。」
「大人になっていくんだね?」
「そういうことだな。」
「・・・・・」
「ベスは、なかなかの体験をしたよ。良もな。」
「・・うん」

<第五話終わり>



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