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京大・緊縛シンポの研究不正と学術的問題を告発します③F氏報告パート:緊縛の戦後展開について


本記事では、引き続き緊縛シンポの第一報告「緊縛入門ミニ講義」のうち、F氏が担当した後半部分をとりあげます。本記事で言いたいことは以下の2点です。

①シンポでは、緊縛は本来歌舞伎や新派演劇などの舞台芸術に属するものであったが、戦後のSM雑誌ブームを通じてSMの一部として見られるようになった、という史観が提示されたが、これは誤りである。さらに、芸術としての緊縛を上位に、そうではない、SM的要素を含む緊縛を劣位に置くもので、後者への偏見を助長する危険がある

②緊縛の歴史を非専門家に安易に語らせたこと、そして、緊縛文化およびその担い手の軽視が、この事態の大きな原因である。いくら研究を始めたばかりとはいっても、十分に検証していない説を安易に公表し、結果偽史を流布させてしまった責任は重い。


1.「緊縛入門ミニ講義」F氏パート部分の誤り

繰返しますが、F氏は緊縛当事者の立場であり、研究者ではありません。そのため、氏が語った内容が学術的に誤っていたとしても、それは仕方のないことであり、彼女だけのせいではありません。しかし、訂正は必要だと考えていますので、以下に指摘する次第です。F氏の見解には、明らかに『緊縛の文化史』を参照した形跡がありますが、このパートでは本書との比較はせず、偽史の訂正に重点を置きたいと思います。

さて、F氏は、明治時代から、歌舞伎やその他の演劇に取り入れられ「文化化」(※Y氏の表現。ここでこの考えの問題は問いません)した緊縛が、戦後以降「SM化」し、それが現在、またSMの文脈を離れて現代アート化する、という流れを描かれました。
緊縛文化の洗練に寄与した人物として、伊藤晴雨を「緊縛芸術家」として紹介し、さらに第二次世界大戦後、「緊縛雑誌」を含めた「SM雑誌ブーム」によって緊縛が洗練されていき、1970年代のSMブームで緊縛=SMという理解が大衆化、緊縛が「SMの一部」だと認識されるようになる、と主張されました。

この主張の背景には、緊縛が、本来SMとは関係なく、歌舞伎などの文芸と関連するものだった、それが戦後にSM雑誌とSMブームを経由することによってSMの一部とみられるようになって「しまった」といった意識が垣間見られます。おそらく氏の本意ではないと思うのですが、現状そのように受け取られ得る説明になってしまっています。

このような意識は、Y氏・F氏らが「文化」や「アート」と呼ぶタイプの緊縛を上位に、そしてそうではない、性的かつSM的要素を持つ緊縛を下位に置き、SMプレイとして緊縛を愛好している人々に対する偏見を助長する危険があります。その上、『奇譚クラブ』などの当時の史料の記述と全く整合しない見解ですので、訂正したいと思います。

現在、確かに緊縛とSMはイコールではありません。出口氏報告を扱う別記事で詳しく触れますが、SM的な、すなわち加虐や被虐、そして支配と服従といった概念を含まない緊縛があり、それはSM的要素を含む緊縛とは区別されなければいけません。しかし、それは、緊縛が本来SM等の逸脱的とされるセクシュアリティと無関係に存在した、ということを意味しません。

SMという概念がいまだ成立も一般に普及もしていない、1950年代の日本では、緊縛は、加虐、被虐、支配、服従、そしてその他の多様なフェティシズム、同性愛などの、多様なセクシュアリティのなかに存在していました。F氏がSM雑誌として、緊縛にフォーカスした雑誌として発表内で紹介した『奇譚クラブ』は、当時SM専門誌でも、緊縛専門誌でもなく、これらの多種多様な欲望が入り混じった総合雑誌でした。
そして、当時、緊縛は明確に「サディズム」=加虐という言葉と結びついていました。現在でこそ、人を縛ることはサディズムとイコールではありませんが、当時はまだまだ同じでした。緊縛愛好者はサディストだ、とみなされていたのです。

そして女性蔑視、性暴力として、現代とは比較にならないほど強く社会から批判されていました。緊縛愛好者は猟奇殺人犯の仲間か、精神疾患を抱えた異常者、少なくとも女性を虐待する暴力的なクズ男だというのが、1950年代の多数派の見方でした(当時は、男性が縛る側であることが圧倒的多数でした)。吾妻新(村上信彦)「私は訴える―サディズム審判の一被告として―」(『奇譚クラブ』1954年9月号)などを読むと当時の偏見がよくわかります。

このような社会からの厳しい偏見にさらされたこともあり、緊縛愛好家や、サディストを自認する人びとは、雑誌『奇譚クラブ』を通じて、自分たちは猟奇殺人犯とは違うということを主張し、縛る者と縛られる者との対等性、同意、愛情などの精神的側面、そして安全性などの論点を深めていきます(前向きで民主的な記事でなければ、警察に目を付けられてしまうため、記事として掲載できないという事情もありました)。

現在、緊縛が現代アートとして受け止められたり、広く国内外でライトなファンを獲得しつつあるのは、このような、緊縛に全く社会の理解がなかった時代を乗り越えてのことであり、このような先人の努力には敬意を払うべきです。

なお、F氏はSM雑誌の展開のみ言及しましたが、緊縛文化の形成には、1965年以降の、緊縛を扱った映像作品の展開が欠かせません。ピンク映画の製作に縄師が関わり、テレビ番組にも出演したことの影響は極めて大きいと言えます。

基本的な事実の訂正①伊藤晴雨の作品

本筋とはあまり関係ありませんが、いくつかの誤りを訂正しておきたいと思います。1つ目は、報告内で提示された伊藤晴雨作品が、伊藤の作品とは言えないという点です。
そもそも、伊藤晴雨は緊縛写真の元祖とは言えても、緊縛そのものの発展に寄与した人物とは位置づけられないと私は考えておりますが、この点は、シンポ批判とは別に記事を用意したいと思っていますので、ここでは触れません。

シンポ内で晴雨作品として紹介された「責め絵の女」は、晴雨が所持していた写真であって、晴雨自身が写真の撮影に関わっていたのかは判明していません。また、「責め絵の女」は写真のタイトルではなく、この写真も含めた晴雨関係の写真をおさめている書籍のタイトル(『伊藤晴雨写真帖—責め絵の女』新潮社、1996)であるということを指摘させていただきます。

基本的な事実の訂正②戦後の「SM雑誌」の動向

F氏は「SM雑誌ブーム」と題されたスライドで、1947年創刊の『奇譚クラブ』を紹介しました。そのためSM雑誌ブームが戦後すぐに起こったかのような印象を聴衆に与えたと思います。これは誤りです。SM雑誌ブームとは通常1970年頃からの、大量のSM雑誌の創刊を指します。雑誌だけでなく、緊縛もSMもマニア雑誌の枠を超えて大衆化、ブームと呼ぶにふさわしい状態になりました。

おそらくF氏は、1940年代のカストリ雑誌ブームと混同されているのだと思いますが、『奇譚クラブ』が人気を博した時代は、とてもSM雑誌のブームがあったとは言えません。確かに『奇譚クラブ』は有名でしたが、1950年代に、ほかにそれほど類似誌があったわけではありませんでした。細かいことを言えば、そもそも1950年代後半までSMという言葉はないので、この時期の雑誌をSM雑誌と呼ぶのは誤りでもあります。また、氏は「緊縛雑誌」という言葉を発表で使っていますが、緊縛を専門に扱う雑誌は当時ありません。既に述べた通り、『奇譚クラブ』はSM専門誌でも緊縛専門誌でもありません。
そして、『奇譚クラブ』は警察から目をつけられており、1955年は摘発につぐ摘発で休刊を余儀なくされていました。以後1960年まで、それまでカラーだった表紙はモノクロとなり、ほそぼそと刊行を続けます。とてもSM雑誌ブームと言える状況ではありません。


2.剽窃・学術的誤謬に関する出口氏の見解

さて、Y氏・F氏報告「緊縛入門ミニ講義」についての問題点を総合しました。最後に主催者である出口康夫氏の見解を踏まえた上で、私の考えを述べたいと思います。

2020年12月22日付の京都新聞における出口氏のインタビューは、上記の学術的誤謬に切り込んでいます(会員登録をすればこちらで読めます→https://www.kyoto-np.co.jp/articles/-/458806)。その際の出口氏の答えは、「調べ方や出典の記載が万全でなかったのはその通りだ」と考察不足を認めたうえで、「シンポはあくまでトライアルであり、試行」であり、考察不足は仕方がないという見解を示しました。そして、「当日はあくまでも『ミニ講義』という扱いで、正式な学会発表や論文とは異なるものとして位置づけていた」と弁解しています。 

ふつうは「講義」でも参考文献は示すものだと私は思いますが、つまり出口氏は、Y氏・F氏の報告は、「正式な学会発表や論文」とは異なるという認識で、剽窃やその主張の誤りについて不問にしようとしていると言えるでしょう。
しかし、京都大学主催でおこなわれた「シンポジウム」の内容が、正式なものではない、と一般的に受け止められるのかどうか甚だ疑問です。シンポジウムのタイトルには「アジア人文学」という文言は含まれ、人文学として緊縛を研究するのだ、と思うのが自然ですし、そもそも京大人文学を掲げたシンポジウムでの報告ですから、「ミニ講義」というタイトルであったとしても、正式な学術的な報告がされるのだろうと、一般には受け止められるのではないでしょうか。

また出口氏は、趣旨説明において、シンポの「議論のバックグラウンドとなる」(動画0:13:17あたり)内容として、F氏・Y氏の報告を位置づけました。バックグラウンドと言われれば、重要な内容だと思うはずです。そして本報告を「非常に上手にできております」と説明しました。主催者である出口氏が太鼓判を押したわけで、その内容を正式なものではないと受け取るには困難な状況があったと思います。

テーマが緊縛という、キャッチーなものであるがゆえに、問題が見えにくくなっていますが、これが別のテーマ、例えばゲイやレズビアンなど、他の性的マイノリティをテーマとするシンポであったとしたら、どうでしょうか。新しいテーマだからと言って、参考文献も示さず不確実な「歴史」を断定的に語ることが許されるとは思えません(Y氏・F氏報告では、~だと言われている、~だとされているといった留保付きの説明の仕方は取られていませんでした)。
そもそも、1冊の、学術書ですらない書籍に全面的に依拠した不確かな内容を発表することは、「正式な学会発表や論文」でなくとも、研究者として避けるべきことであると思います。

出口氏は、上記の京都新聞において、シンポジウムはあくまで途中経過、トライアルであり、考察不足があってもそれはやむを得ない、という認識を述べています。
仮に、出口氏の主張するように、シンポはあくまで途中経過、トライアルであり、報告内で出典の明記無しに先行文献を引用・発表しても、剽窃に当たるような正式な場ではない、とするならば、なぜ、これほど大々的に、国内外にシンポ内容を発信したのか、疑問です。

シンポ当日は、マスコミの取材も入っており、カメラやビデオでの撮影をする旨がアナウンスされました。100人近い対面での参加者がおり、Youtube同時配信がなされたことは、報道されたとおりです。コロナ禍によって、来場が難しい人々のための配慮としての配信、というのであれば、同時配信のみでも十分でしたでしょうし、Zoom等を用いて、セミ・クローズドで行うこともできたはずです。

緊縛シンポ動画は、約59万回再生されたとされ、英語字幕も付けられていました。これによって、子細に分析していくと非常に問題の多い『緊縛の文化史』の緊縛=捕縄術起源説が、世界に拡散され、しかも京都大学の日本人研究者がお墨付きを与えたような結果になったのではないかと危惧しています。

もしも出口氏が、Y氏・F氏報告が正式な学問ではなかった、と主張するのであれば、なおさらすみやかにそのことを公式ページ等で報告し、「シンポ内容は正式な学会発表ではなく、他書の見解や、学術的見解ではない内容が含まれていた」とでも日本語・英語双方で注意をうながすべきではないでしょうか。そして『緊縛の文化史』の著者、マスターK氏にむけた謝罪をするべきではないでしょうか。

京都新聞における弁解を読むと、出口氏には、Y氏・F氏にこの報告を任せたこと自体に対する反省はないようです。
しかし、先の記事で掲げた私の批判メールにも書いたことですが、剽窃が起こり、多数の誤認識が発表されてしまったのは、緊縛アーチストのF氏は言うに及ばず、Y氏が、緊縛も歴史学も全くの専門外の研究者であったことに原因があるのは明らかです。

Y氏にとってはもしかしたら、出口氏によって無理やり押し付けられたテーマだったのかもしれませんが、そうだとしても、シンポでの報告を引き受けたならば、きちんとこのテーマに向き合う責任があったのではないでしょうか。
Y氏が本来の専門である分析哲学でどのような成果をあげているのか、私には判断できませんが、その道でどんなに優れた研究者であっても、分野外については素人なのですから、シンポジウムで発表をするならば、謙虚に先行文献を紐解き、しっかりと勉強することが必要だったはずです。
緊縛および捕縄に関しては、研究書は少ないですが、かなりの関連書籍がありますし、当事者から発信された言説は膨大です。そもそも武士や歌舞伎を持ち出すならば、戦国・近世史の専門的知識がもっと必要になります。
それがなされず、このようなやり方で「偽史」を世界に発信したことの責任は、若手研究者といえども免れないと考えます。Y氏の態度には、緊縛文化およびその担い手、歴史学という自身と異なる学問分野への敬意が欠けていたと言わざるを得ません。

次の記事では、シンポ第2報告、吉岡洋氏の報告について述べたいと思います。


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