見出し画像

新たな世界をつくるということ~ #oouiqa と #ggdpatch から見えた人間の創造性 ~

7/15(水)に開催された「OOUI 解説+質問に答えます -『オブジェクト指向UIデザイン』発売記念 -」と、7/16(木)に開催された「のぞき見企画!グラグリッド×Goodpatch Anywhere合同勉強会」
連日、ウェビナー参加してきました。

私はこの二つのイベントを通じて、「人間ならではの創造性について探求する場だったなー」と感じていました。
今日は二つのイベントでの話をいったりきたりしながら、人間の創造性について、「新たな世界をつくるということ」について、考えたことを書いていきます。

「オブジェクト指向UIデザイン」の本が語っていることの本質は、How to ではない

この本は、オブジェクト指向UIデザインとは何か、それをどう実現させていくのか、という点が解説され、ワークアウトで体験できるように作られています。
でも、このワークアウトを手を動かしてみて感じるのは、手法を超えた「人と人、人と道具をつなぐあり方とは?」というフィロソフィーの部分なんですよね。

画像1

↑個人的な本の冒頭部分のメモ

イベントの中では、ソシオメディアの新行内さんが、ミニワークアウトをベースにプレゼンテーション(UIプロトタイプ)を作成されていました。
このとき、新行内さんはワークアウトのお題にない魔法の「効果」や、「種類(心理変化)」を追加しています。

↑イベント中でのライブの様子

この追加している行為とは何か?を考えると。
私は新行内さんが、このワークアウトにおける「魔法という概念」そして「それを使う人たちの関係性をつくりだした行為」なのかなと捉えました。

手を動かしながら妄想し、世界を広げて捉え、使い手や関係する人をイメージしたからこそ「魔法ってこういうことかな」という、人と人、人と道具をつなぐ「概念」が見えてきた。
ライブで描かれている様子を見ていた中で、モデル、インタラクション、プレゼンテーションをいったりきたりする中で、その概念は見出されてきたように感じました。

これって、人間だからこそできる、身体を通じて「想像して」「創造する」行為なんだろうなと思うのです。
プロトタイプから、実装のプロセスでは、さらにこの具体から概念を見出し、また具体(形)に戻るを凄まじいスピードで往復していきます。
また、プロトタイプをつくる前のプロセスも同様です。
ユーザーの文脈に身を投げて価値やニーズを把握したり、タスク(ユーザーストーリー)を抽出する等、そのプロセスでは具体の事象と抽象の間を、ダイナミックに往復していくのです。

だから、仮にこの本が提唱しているHow toは、決してパターン適用で設計を実現するものではないし、デザイナーの作家性の部分にふれるってことはないのではないかな、と思うのです。

見立てて、組み合わせて、世界を広げることができる「人間らしさ」

#ggdpatch  で印象的だったのが、Goodpatch Anywhereの大橋さんの登壇にあった、人間とチンパンジーの絵への向かい方でした。

イベント全体で語られていた「ヒトは「なぜ」描くのか?」という問い。
この問いに照らし合わせて考えると、ヒトというは生命は、自分の身体を通じて飛躍し、新たなつながり、新たな世界を構築したいという欲求が根源にあるのでは、と思ってゾクゾクしてきました。

ポイントは、「飛躍」は「身体を通じて」という点。
頭の中でだけだと、新しい世界へ飛ぶことは難しいのです。

このあたり、後半のディスカッションで語られていた部分でした。
(印象的だった部分、個人のツイートに残していたので、はっておきます)

絵を描く、ということは。
客体化を通じて、自分の中で世界を広げて抽象化を行い、それを新しい世界へ移動させることでまた新たな世界を生む行為なのだと思います。

①客体化
・思考や捉えたことをいったん描き、客体化(視覚化)する

②自分の中で広げて、抽象化する
・時間軸の違う自分と共有し、語りあう
・その結果、気になったところをさらに考え、新たな情報へつながる
・広げた世界を客体化することで見つめ、その全容と本質を捉える

③新しい世界へ移動し、新たな世界を生む
・描いたものを他の人と共有し、語り合う
・描いたものを別の文脈に移動し、その文脈においてみる
・その結果おきる変容を捉えて、客体化したものを分解し、再構成する

飛躍がおきるのは、②がベースとなった、③の段階だと考えています。
絵は、「単体で切り出して」移動することができます。だから別の文脈に移動することができるし、その世界でどう活きるのか、考えやすくなる。

※#ggdpatchで紹介したプロジェクトでも、この①②③のプロセスを授業として実践しました!

他方で文章は、文脈をそのまま保持するメディアなので、いきなり別の文脈へ移植すると、違和感がはんぱなく、その違和感にとらわれてしまうのだと感じています。

描いて新たな世界へ「移動すること」がもたらすもの

もちろん、この「移動」には、障壁がつきまといます。
新たな世界にすぐマッチするわけではないし、コンフリクトが必ずおこります。社会学の中では、「文化触変」として語られています。

画像2

↑平野健一郎 国際文化論(東京大学出版会) 2001 より。

外来する要素が提示されると、フィルターで拒絶黙殺されたり、受容された後も抵抗があったりします。ただ、その抵抗の結果、文化の再解釈がおきたり、既存の文化の解体が続いたりして、再構成されていき、やがて新たな新平衡がつくられていくのです。

この移動をもたらし、そして「再解釈」→「再構成」→「新平衡」をつくるプロセスをつくるのは、まぎれもない人間です。

・パッションをもった人間が、今ない新たな形をつくって新たな意味を生みだし、社会と調和させていく
・生き残りをかけた集団が、新たな文脈へ飛び出て冒険し、既存のリソースの意味を転換させて新たな何かをつくりだす
など、パターンはいくつかありそうですが。
いずれにせよ、その過程には困難が必ず伴います。

イベント数日後に語られていた、ソシオメディア上野さんの言が、私にとっては印象的でした。

新たな世界をつくる過程の、茨の道。
しかも、頭だけでなく、自分の身体を用いて世界と向き合っているので、葛藤はすさまじいものがあります。

でも、身体を用いているからこそ。
新たな世界への移動、そしてその世界との調和のかたちの模索もダイナミックにできるのではないかと思うのです。

揺れる世界と対峙し続けるために

三澤が登壇した話の中で、『「描くことは表現すること」と捉えてしまってはなんともったいないことか』という一節がありました。まさに、「表現すること」にとらわれていてはもったいない!

#oouiqaでも 、#ggdpatchでも、語られていたのは「How toを学んだからといって、新たな世界がつくられるわけではない」というシビアな部分だったのかなと思うのです。
そして同時に。いずれのイベントでも、自分が身体を投げて、絶えず揺れる世界と対峙し続け、新たな世界の可能性を見出してゆけるためのあり方が語られていたように、私は感じたのでした。

※イベント内容については、私の記事では超断片的です。
oouiqa#ggdpatchや色々な方の記事、スケッチノートでぜひご参照ください!


サポートでいただいた費用は、私と我が家の猫さまのfika代(おやつ代)にあてさせていただきます! /ᐠ。ꞈ。ᐟ✿\ < ニャー ちゅーるが好きだニャー