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「姓を変えないといけないから結婚できない」から考える、「姓」の持つ意味とコンテクスト

「姓を変えないといけないから結婚できない」
国民民主党の玉木雄一郎氏が代表質問で語ったエピソードに対し、「だったら結婚しなくていい」という野次が飛んで話題になっています。

これに対して、「姓が変わるから結婚できないってどんなケースなの?会社で別性を名乗るところも多くあるじゃないか。」と知人がふともらしていました。
自分はこの問いかけ自体に違和感を感じた部分があったので、その違和感を感じたゆえんと、その違和感と向き合って見えてきた「自分が大事にしたい世界の見え方」について、残しておこうと思います。

「姓が変わっても大丈夫だから結婚する」と、「姓が変わるのは大丈夫じゃないから結婚しない」について

私が「姓が変わるから結婚できないってどんなケースなの?」という問いに対して感じた違和感。それは以下のような二項対立的な見方で、事象を捉えようとしている姿勢を感じたからでした。

・「姓が変わっても大丈夫」→「だから結婚する」
 ※会社では別性を使い続けられるから、大丈夫だね!

・「姓が変わるのは大丈夫じゃない」→「だから結婚しない」

でもさ、でもさ!
一人の中で、「姓が変わっても大丈夫」というコンテクストもあれば、「姓が変わるのは大丈夫じゃない(だから今の姓を使い続けたい)」というコンテクストも存在し、両方とも存在しえるパターンもあると思うのです。
ましてや、そのコンテクストは皆が皆、結婚と紐づいているわけではありません。

「姓」について持つ意味は、多様で、一人一人違う

「姓」は、人によって実は捉え方が多様な要素ともなりえるものです。

・家族のつながり
・〇年間生きてきた自分のアイデンティティ
・家をついで財産をうけつぐ権利
・家をついで、親をケアする義務
・歴史
・先祖を偲ぶもの
などなど。

現在はアイデンティティに丁寧にむきあう風潮が生まれています。(LGBT方たち等の活動が実を結んだおかげですね!)
個人が個のアイデンティティに向き合ったとき。
「姓」の持つ意味合いが多様であるがゆえに、当然「姓が変わっても大丈夫」というコンテクストと、「姓が変わるのは大丈夫じゃない(だから今の姓を使い続けたい)」コンテクストも多様にあると思うのです。


例えば私にとって、「姓」は「家庭経営における屋号」「両親から受け継いで育んできた大事な資質が存在することの証明」という二つの意味があります。
その意味の違いが、大丈夫/大丈夫じゃないのコンテクストも生み出しています。

▼姓が変わっても大丈夫なコンテクスト
・「家庭経営」
二人で経営する屋号みたいなもんだと思ってて、あまり深くこだわりはないし、おもしろいので夫の姓の「オオゼキ」にしてみた。二人で何かつけられる制度があったら、おもしろいのでそっちにしたかも。

「姓が変わるのは大丈夫じゃない(だから今の姓を使い続けたい)」コンテクスト
・「仕事」
・「趣味の創造的活動」
いずれも、自分の両親「ワダ」の家、両親から受け継いで育んできた大事な資質を活かして社会とつながっている活動なので、そこは「ワダ」でいきたい。

※それゆえに、私は旧姓「ワダ」を使えない企業につとめることはないと思っています。転職活動時に仮に内定をもらっても、文化があわないと判断して、辞退する条件としていました。

私はこの2つの意味で区分して、自分のアイデンティティを捉えているがゆえに、2020年の現代社会の制度ではあまり困らず生きてはいけるものの。
それは本当にたまたまで。
「姓」が別の意味を複数もっている人にとっては、アイデンティティと現代社会の制度が一致せず、悩む人も多々いるのだと思うのです。

「だったら結婚しなくていい」発言が捉えている世界観

私は「だったら結婚しなくていい」というような論がでてくる背景には、既存のわかりやすい視点(特にデモグラフィック属性)で人間をみてしまうことが挙げられる…と考えています。

・(生物学的な)男と女
・年代
・住んでいる地域
・所得
・家族構成
・既婚/未婚
などなど。


デモグラフィック属性は、それこそメッシュのように、様々な要素で人間の促成を区分し、細分化できます。デモグラフィック属性のメッシュのかけあわせで、属性を判断し、広告等を見せるというようなしかけもたくさんありますね。

でも、人間てそんな都合のいいように、メッシュで区切られる存在ではありません。一人一人持っている価値観は多様で複数あり、価値観はデモグラフィック属性で区切られるものではないのです。

デモグラフィック属性で人を区切る人からみたとき、「結婚しいけれど、姓は変えたくない」という人は、(その人から見た)既存のデモグラフィック属性にはあてはまりません。
理解できないのです。理解できないものは、捉えられないし、不安をよびおこします。

だから、デモグラフィック属性で人を区切る人は、その枠にあてはまらない人に対して以下のような行動をとるように見えます。

・「だったら〇〇してよ」と強くいう
・「だったら〇〇する必要ないじゃん」と強くいう
※〇〇には、好きなワードをいれてください。今回の騒動だと〇〇=結婚ですね。

共通するのは、自分の枠に無理矢理相手をあてはめさせたうえで、その枠に相手をあてはめたことで安心を得たいと思うことなのかもしれません。

多様な価値観が存在する社会の中で、生きていくには

多様な価値観同士が存在する現代社会では、わかりやすいデモグラフィック属性で区切ることが非常に難しく、それゆえに多様さから生まれるストレスも相応にあると思います。

でもまあ、多様性って、そういうことだと思うんですよね。
自分の知っている、見ている枠に、相手がはまらないことが常におこる。
だから、理解をすることが難しい、ひょっとしたら理解をする前に嫌悪をする可能性だってあるわけです。(それは私も含めね。)

そんな中で多様さの中で、私たちはこれから生きていくのだとしたら。

・多様さを(殺人等、人の共存を著しく脅かすものを除いては※)受け入れて、他者という存在と折り合って生きていく術を学ぶこと
・同じ価値観を大事にしている人と出会い、自分が大事にしたいことを大事にできる「自由」を、自分で作りだすこと


が大事なのだと思うのです。
前者は以下の記事で執筆しましたので、気になる方がいたらぜひご一読ください。

後者の「同じ価値観を大事にしている人と出会い、自分が大事にしたいことを大事にできる「自由」を、自分で作りだすこと」については、経済的な自立が前提にあると思います。

「自分」が行きたいところに行ける「自由」を担保するには、お金がまず必要。経済的自立がなく、誰かの許可がないと使えないお金しかもっていない場合、自分が望んだ時にその場を移動できないという状況をひきおこしてしまいます。

自分らしい意味を大事に生きていこう!


もちろん、人は群れをなして生きぬいていくことを志向した生き物なので、時に頼られ、頼りあってもいいとは思うのです。
大事なのは、自分の大事な人生を決める主導権は、他人に渡さないこと。

特に、一見わかりやすいデモグラフィック属性で区切られた「こうあるべし」という枠はやっかいです。わかりやすい分、いろいろな人が簡単に持ち出すから。そして自分もどこかとらわれている部分もあるから。

でも、既存のデモグラフィック属性で区切られた枠の中身と自分を比べ、自分を評価し、その評価に自分をゆだねるなんて、自分を大事にしない行為でしかないよなあとも思うのです。

もし、あるテーマで既存のデモグラフィック属性で区切られた枠を押し付けられて困ったら。
自分にとって「〇〇が持つ意味ってなんなんだろう?」「〇〇をこういう風に使ったら私は私らしくいられる?」って問い直してみると、自分らしさを大事にして、社会と繋がっていく接点も見えてくるのではないかと考えています。

▼例:「姓」で考えた場合
「姓が持つ意味って、私にとってはなんなんだろう?」
「どういうシーンで私は姓を使うと、私は私らしくいられると感じるだろう?それは私のどんな背景がある?」

自分らしく意味を捉えることは、自分と社会をつなぐ、大事な架け橋。
ぜひ皆が大事にしていけるようになったらいいな、と、デザインで「意味」と日々向き合う立場としては願うばかりです。


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