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3:おばあちゃんとの思い出

 おばあちゃんとの思い出は少ない。

 まず、私は小学六年生になるまで、おばあちゃんの家を訪れたことが無かった。

「持病持ちである息子が、持病持ち(しかも自分より深刻な病気)の女を選んだ」現実が許せなかったらしく、父の家族は、そりゃあもう結婚に良い顔をしなかった。表立って反対はしないけれど、ネチネチネチネチと嫌味を捏ね続けた。病気持ちの女を娶って如何する。入院したらお前が世話をするのか。面倒を背負うなんて如何かしている……。健康な女を選びなさいと息子を説得したくても、女の胎には既に子供が居るからそうはいかない。結局、本当に嫌々結婚を了承するしか無かったのよ。

 ──とは、母の言である。
 おまけに、両親と同じく『年上女房』であることに後ろめたい気持ちが父にはあったらしい。父は妻の実年齢を家族に隠し続けた。
 そして葬式や結婚式といった特別な行事に召喚されない限り、父は積極的に帰省しようとはしなかった。その“特別な行事”にさえ、自分一人で向かうようになった。

 勿論、これらの事柄だけが、私が小学六年生になるまで祖母宅に行ったことが無かった理由ではない。
 単純に父の仕事が忙しかったのもある。親戚の予想に反して、父が長期入院を繰り返し、その間の収入は激減。疎ましいと思ってた『病気持ちの女』がヨチヨチ歩きもままならない幼子を背負って病床に伏す夫を見舞い、世話をし、家事と子育ても一人でやる状況が数年続いた。入院のお陰で父は出世のチャンスを失い、給料も思い通りに上がらず。けれど、医療費だけは増えた。
 とてもじゃないが、そう簡単に帰省できる環境ではなかったのだ。
 恐らく、親戚連中も、私たち家族に特別会いたい気持ちはなかったと思う。

 ただ一度だけ、おばあちゃんは上京して我が家に来たらしい。父と母、祖母、祖母の膝に乗せられた私が写った写真が一枚だけある。
 残念ながら当時の私は余りにも幼かったので、全く憶えていない。


 おばあちゃんの家には行かなかったけれど、私は毎年、母に促されて年賀状とクリスマスカード、誕生月には誕生日カードを送った。敬老の日には帽子や手袋など、これから訪れる冬に使えそうな物を贈った。
 孫の顔を見せに帰らない(帰れない)詫びと、「それでも貴女を想っていますよ」の気持ちを表す手段だったのだろう。
 私は特に、誕生日カードを選ぶのが好きだった。音が出るカード、立体的になって飾れるカードを選びたがって、よく母を苦笑いさせた。何故苦笑いするのか、当時は分からなかった。が、大人になって分かった。
 その手のカードは平面的な物に比べて、かなり良い値段がするのだ。
 立体的なやつは、立派でゴージャスになるほどお高い(笑)
 そりゃあお母さん、苦笑いするわ。
 しかし、幼女に値段など関係ない。
「音が出る方が愉しい」「飾れたら愉しい」と意見をゴリ押しした。母は、とても優しかった。

 孫名義からのカードやプレゼントに対し、やはり祖母も、普通のおばあちゃんだったようだ。
 年賀状以外に、お礼の手紙が来るようになった。手紙と言っても、感謝の言葉を一筆したためただけの簡素な物だ。大抵二、三行で終わる。
 次に、手紙と一緒に現金が包まれるようになった。これは必ず誕生日や、入学などの祝事の際に届いた。金額は決まって五千円。お小遣いを貰えなかったので、有り難く貯金させて頂いた。
 更に、季節毎の食べ物を贈ってくれるようになった。地元の名物である魚の練物やお菓子、果物、野菜、海産物など実に様々だった。一番のお気に入りは梨だった。今でこそ東京でも買える品種だが、当時は県に行かねば入手するのが難しかったので家族みんなで喜んだ。あ、あと蟹も美味しかった。身から味噌、内子外子すべてを使った蟹ご飯……最高だったなあ。
 この頃になると、当然お中元やお歳暮も贈り合うようになった。

 私の中で、祖母は「顔はよく知らないけれど優しいおばあちゃん」だった。
 少なくとも、家族に害はない。善良な位置にいる人間だった。

(続く)
 

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