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25:おばあちゃんにしてあげたかった四つのコト

 最後に見たおばあちゃんの姿を、未だ忘れられずに居る。

 記憶の更新が止まっているのだから、当然かもしれない。
 永遠に上書きされない『おばあちゃんとの思い出』は古い物から崩れて消えてしまうけれど、新しい物はそこそこ鮮明に残っているのだ。だから別れ際のおばあちゃんも、そこそこ強く残っている。
 震える手でしがみつく姿が記憶から無くなるのは、きっとずっと先だろう。

 途中で親戚連中に対する愚痴のようなものを挟んでしまった(特に最後の五記事は我ながら酷かった)けれど、注意して頂きたいのは、私は父方の親族連中が如何ほどかを語りたかった訳ではない。

 目的はあくまで、追想。思い出語り。
 それ以上でも、以下でもないのです。

 おばあちゃんとの思い出をnoteに書き残す──これは私なりの懺悔であり、供養でもあり追悼である。
 
 あれから、おばあちゃんの家を一度も訪れていない。
 けれど、おばあちゃんの事を忘れたことは無かった。
 いつ何時でも、その存在は頭の片隅にあった。今どうしているだろう。元気にしてるだろうか。認知症の進行度合は? 未だ、あの箱のような部屋に独りぼっちなのかしら。それとも介護施設に入ってる? 
 純子&陽子から支援金の内訳と、おばあちゃんの状況を伝える手紙が届いたのは最初の一年間のみ。しかもたった一通だけで、その後は全く音沙汰が無かったから、余計に気がかりだった。
「本当にお金はおばあちゃんの為に使われているのかしらん」「お金は二人が着服してるのでは」などの妄想に駆られる程度には心配で不安だった。

 でも、確認することはしなかった。
 正直に告白しよう。
 恐かったのだ。

 私は恐れていた。
 再びおばあちゃんから「誰?」と問われることが。おばあちゃんの様子を訊いて「気になるならどうぞ、こっちに来てアンタがずーっと世話して下さい」と伯母達に言われることが。堪らなく恐かった。
 そして、「いやいや、言うのは簡単ですけどね。はい了解しましたって其方に行って世話するなんて、おいそれと出来ませんよ」と返して反感を買うことを、酷く面倒だとも思っていた。
 私は何処まで行っても自分本位な孫であり、身勝手な姪であった。
 結局、己が嫌う伯母達と変わりない人間だった。

 一種の罪滅ぼしをする為。懺悔と追悼と供養の為にnoteに書き残そうと決めて、私は記憶を掘り起こし、アルバムや当時使っていた手帳等を引っ張り出した。
 その作業中、おばあちゃんと私が過ごした日数が、大凡二十四・五日しかない事に気が付いた。
 否、正確にはもっと短い。どんなに頑張って掻き集めても、二十四日にさえ満たない。その事実に、私の心は軋み、より一層「書き残さねばならぬ」と思ったのです。


 記事を書き続けながら、ふと「出来なかったコトが沢山あったな」と思った。
 なので月並みだけれど「おばあちゃんにしてあげたかったコト」を四つ考えてみる。

①手を繋ぐ

 例えば観光地に行く時。例えば近所を散歩する時。母も私も、父に「おばあちゃんと手を繋いであげなよ」と言っていた。長く離れて暮らす親子の久方振り──しかも一年に数日限り──の再会なのだ。自分達も居るから不完全だけれど、親子水入らずってことで。おばあちゃんも息子と繋いだ方が安心するだろうしネ!
 ……と考えて、繋がせていたのだ。
 でも今思うと、私も手を繋げば良かった。父に譲らず、孫の特権を振りかざし、手を繋いで歩いたって良いじゃない。これには本当に後悔している。

②ハグ

 どうにもこうにも、お年寄りとの接し方が分からぬ娘だった。特に学生をしていた頃は「ちょっと力加減を間違えたら、骨を折ってしまうのでは」と心配で堪らなかった。
 だから、まともにギュッとハグ出来たのは、最後に会った日の別れ際ぐらいだ。
 照れ屋さんなところもあるから拒まれてしまったかもしれないけど、もうちょっとハグしとけば良かったなと思う。

③会話

 実に情けない話だが、私は人見知りを拗らせがちである。
 仕事等で話さなければならない相手との会話は、何ら滞りなくスムーズに出来るのに。そうじゃない相手と対峙すると、突然言語中枢がバグって喋れなくなってしまうのだ。
 酷いと、数年振りに会った友人との会話も儘ならぬ。
 そんな奴が滅多に顔を合わせない親戚と言葉を交わせるのか──否である。おばあちゃんとの会話も、最初の頃は散々だった。更に言えば、泊まりに行った初日は、大抵黙りしていた。
 もっと沢山、話せば良かったなあ。東京での生活とか、話題は底無し沼の如くあったのに……。

④スキンシップ

 スキンシップと見出しに記したが、厳密に表現すると、肩や背中を撫でてあげる程度の『スキンシップ』である。
 最後に過ごした時こそ背中を(恐る恐る)撫でてあげられた。が、毎年おばあちゃんの家に泊まっていた時分は、全然出来なかった。ハグ同様、どう接すれば分からず。肩揉みなんて以ての外だった。骨を粉砕したらどうしようと恐ろしかった。そもそも触れて良いのか戸惑われた。
 今は惜しいことをしたなと思う。
 揉まなくても、肩や背中を労るように優しく撫でてあげたかった。


 後から悔いると書いて『後悔』、正に真理である。


 最後に会ってから訃報までの“空白の七年”について、書きたい話が無い訳ではない。
 けれど、そこを語るには必然的に伯母達の話題に触れなければならず。避けては通れないが故、今回は記述しないと決めました。キレイな心で……とは言わないが、最後ぐらいは余計なものを抜きにして送りたかった。
 おばあちゃんへの想いと、数少ない思い出を胸一杯に抱きしめて。エピローグを迎えさせて下さい。

 おばあちゃん。祖母不孝者の孫でしたが、貴女のことが大切でした。

 一ヶ月と少しに渡る『おばあちゃんと私の二十四・五日』、これにて閉幕。
 拙い文章を読んで下さった皆々様、ありがとうございました。

(了)

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