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INFP(4w5)の想う多様性と、個という安全基地

社会の歯車となることそれは常識だ、したら安心することだ、しないといけないことだ、当然の義務だ、人間の責務だ、
と考えている人にとっては、

自分だけの個人的な世界に住み続けたり、
現実に見向きもせず理想の自己だけ追い求めたり、
消極的に社会を逆恨みしたり、
どこまでも地獄な世界を憂いたり、
それら全部なかったことにして外界の全てをシャットアウトしたり…

などという人たちに対してお前らいい加減現実見てしゃっきりせいやとケツぶっ叩きたくなると思いますが、それでもどうしても没個性になって生まれた意義が見いだせないままこの地獄の中で生きるくらいなら…と、
居住地をこの世のどこでもない場所に構えがちなINFPエニアタイプ4です。

現実で生きていくには人より受信する情報量が過剰だから、情報の嵐から身を守るためにそんな行動をとるんだろう…と思う。
Fiが暴発したSiを失いし者(不健全)


Fiが主軸というのは、本来は奥に大事にしまわれているはずの心が常に剥き出しの状態みたいなものなんだと思う。箸が転ぶだけで絶望する。

感受性が尋常でなく高いことで、他人にとって酷くショッキングな出来事でしか感じられない度合いの苦痛を、他人にとって些細な出来事から感じる。

当然ながら他人にはそのポンコツメンタルなんか共感しようがないわけだから、しょーもないことでうずくまって嘆く姿を見て
「何て甘い。何て未熟なんだ。人生経験ウンヌン。」
と疑問に思うんだろう。
心なんて、脛の骨みたく折れたかどうか一目で分かるものではないし、その強度も事故の理由も人それぞれバラバラなものだから仕方ない。
他人の句読点の有無で寝込むのはさすがに骨粗鬆症がすぎるわけだけども(※メンクリ通院中)

世の中の諸々を思うと、たとえ心の具合が目視できたとしても社会的には心の重要度はそこまで高くない…のかもしれない。
社会とか知らない宗派なのでちょっとよくわかってないのですが。


幼少期からさまざまな理由で周りと心理的スタート位置が違うまま同じ箱で育っていくと、そこでは自分の感覚が他人と違っているように感じ、劣等感と共に「自他の違い」を自覚する。
そこで初めて周りが見えて、他人と他人の感じ方…感性もまたバラバラに違うことに気づく。そして受け手の価値観による選り好みの差があるだけで、内なる感性には優劣や正解不正解などは存在しないということも。

それは人の持つ静脈や指紋のように、優劣のないユニークなものなのだ
と、やがてそれらに等しく価値を感じはじめる。
その頃にはもう、
「人が持つ十色の感性は命と同じに等しく守るべき尊いものなのだ」
ということに、自分だから気づくことができたと確信している。

満足に肯定を得られなかった異端な自分が見つけた、誰もが気づけない特別なものを守るという役目を果たすために、多様性の大切さを訴えはじめる

息を吸うように感情移入して自分のことのように過度に苦痛を感じてしまう人間にとって、視界に入る360°全方向で苦しみがなくならない限り、自分の幸せに集中することは難しい。
一番最初に自分を探す過程で生まれたその特別な価値観は、対象が何であろうと例外があってはならない。妥協してはならない。
その価値観を守ることこそが救いであり至上の優しさであり、自分の生まれた理由であると信じているから。

そうすることでようやく、自分は自分に価値を感じられる…

 
個人的に多様性が大切と思う理由は大体こんなかんじである。

でも、世界から苦しみがなくなるなんて日々はこなさそう…
現実は悲しいくらい地獄なのだ……(いや正確には地獄フィルターが…それはまた今度)


だからこそ、
悲しみがなくならない外の世界ではなく、
自分の世界に視点を切り替える。

宇宙で一番安全で、
暖かくて、
優しくて、美しい世界に………。


 
そして出方がわからなくなっている。(イマココ)

 
でもなんかもうこれはこれでいいんじゃないかなとさえ思ってる。
なってしまったからにはもう…ネ…。


人と人の持つバラバラな感じ方、個性、オリジナリティというものに
価値を感じて守ることに固執する理由は、
特別扱いされたいという承認欲求やわがままとかいう以前に、
それこそが「不器用な自分の持つ数少ないアイデンティティであり、自分を救うセーフティーネット」だからなんだと思う。
少なくとも私自身はそう思っている。

現実は貧弱な心を塗り潰そうとする情報が多すぎるし、情報を受信する感度が過剰なんだ。
それはなぜか。
他人と違って無防備な心が剥き出しだから。
無差別感情移入で、何を見たって苦しいから。
視界に入れば、その瞬間からそれはもう自分なのだ。

自分と他人の区別のつくアイデンティティを「心理的安全基地」にでもしない限り、みんながいる戦線に立つことすらできない


現実で生きていくには常人以上に鈍感力が必要だなあ……と、
私がすっ転ぶ小石を見向きもせず蹴り飛ばして、何食わぬ顔して歩く人を見ながら思う日々。

危なくない?もうちょっと足元見たほうが安全では…?

あと蹴飛ばした小石、本当に石か?
誰かの骨じゃないか?
いやそういうこと考えてるから足蹴にされた石ひとつに悲しい思いを抱くのか?
幸せになるのがへたくそすぎないか?

 

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