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夕焼けの廊下と学ランの男

自責で死にそうな日に内的世界へ潜ると感じる光景の一つとして、
知らない高校の誰もいない静かな廊下にいることがある。


自分はどうしてかその廊下が3階だと感じている。

窓からは真っ赤な空が見えるのになぜか日はどこにもなくて、なのにその3階の廊下には夕日のような光が差し込んでいる。
その廊下の向こうで、学ランの男が不機嫌そうにこちらを睨みつけている。
男はそのままバタバタと上履きの足音を立てながら、早歩きでこちらに向かって来る。(このとき不思議と恐怖を感じないのは自分の内的存在と確信しているからかもしれない)
男は何かしてくれるでもなく右の手首を乱暴に引いて、私は引かれるがまま長い廊下を二人で奥まで歩いていく……
 

…という情景。
歩いていると不思議と落ち着いてきて、そうなると風呂場でスッポンポンの現実に戻ってくる。(※自分の内面に潜り込む場は風呂率高し)

こうして廊下で連行されること以外も、教室の窓から真っ赤な海に沈んだ街をほげーっと眺めている日もあれば、その教室の椅子に座って、現実同様めそめそと泣いていたり。
そんなときも男は真正面の机にどっかり座ってこっちを見下ろしているのを感じることが多い。やっぱりなんか不機嫌そうにこちらを睨みつけながら。
現場は基本赤いなぁ。
 

いつだったか問いかけてみたら、彼はもうずっとそこに住んでるらしい。

これもいつだったか、私はこの場所が怒りが生まれる場所に近いところだという解釈に至ったことがあった。
彼は私の中で燻っている怒りの象徴なんだと思う。
私が切り捨てなければ、なかったことにしなければ、と見て見ぬふりをして抑圧した怒りを伝って、夕焼けの廊下と共に学ランの男がやってくる。
忘れるな、と釘を刺すかのように。

共に廊下を歩くのは自分の中の怒りとの和解の儀式なのかもしれない。

嘆いて逃げ出すなと、外からの刺激に反応して訳もわからないまま騒ぐ心を直視しろと言われているのかもしれない。怒りの感情から、感情が生まれた理由から目を背けるなと言われているのかもしれない。
私はいつだって何かに対して怒っている自分を認めたくない。
利き手を奪われるのも、心の底では怒りの感情に振り回されているからと考えればちょっと納得できる。


その舞台が知らない高校なのは不思議だけど、高校があまり好きな場所じゃなかったことと何か関係してるのかな……なんとなくかな。
いや単に高校生のヤンキーがこわいからかもしれない。幼女かな?


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