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滑稽さとヒエラルキー :麻布競馬場『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』の感想

「地方」で学生時代を過ごし、首都圏で働きだしてから10年近くが経つ。自分と周囲のライフステージが上がるにつれて、「首都圏出身者」と自分のような「地方出身者」の間にある容易に覆せない格差みたいなものを感じる機会がたまにある。

先日読んだ麻布競馬場氏の『この部屋から東京タワーは永遠に見えない』が胸にぶっ刺さった。メディアが作り上げた「東京的な格好よさ/オシャレさ」という価値観に引き寄せられ、その空虚さを内面化してしまった地方出身者が絶望する姿がものすご〜く底意地悪く描かれていて最高だ(自分もそのうちの一人だ)。

慶応、麻布、六本木、博報堂、GS、タワマン、VC、ウユニ湖 etc... いかにもな地名や単語が記号として撒き散らされている。こういった価値観の最たるものが「東京タワー」なんだろう。ただただ、人が格好良い/オシャレというものを追っかけている人間たちの末路。

こういった価値観を心底馬鹿にしているように描いているんだけど、どうやって情報を集めているんだろうか?自分自身への自嘲も含んでるのか?

浅薄な人間が虚像に踊らされるしょうもない話、のように聞こえるかもしれない。実際、Twitterでは「タワマン文学」として話題になってるし。

この小説の凄いところは、登場人物をみな「努力している人」として描いていることだ。登場人物は皆、「東京的な格好よさを頂点とした価値観」のヒエラルキーにおいて、必死に上層に向かうために努力をしている。彼らは、努力の果てにたどり着いた東京で、そこが出身者にとってはスタート地点に過ぎないことに絶望する。

何より、階層が上がるほど東京出身者との様々な能力や資本(経済資本・文化資本・社会関係資本)との格差が広がっていく様子を描ききっているのが凄い。


私は主人公達ほど東京に憧れていたわけではないが、東京出身者との能力や資本面での格差はしばしば感じる。また、東京という街はヒエラルキーに興味がない人間も、強制的にそのヒエラルキーに組み込み、格差を強制的に感じさせる(そして商品やサービスを買わせる)仕組みが内包されているのではないかとすら思う。

登場人物の末路はどれも滑稽だが、この本を読んだ後に感じるのは、戦慄を含んだ薄ら寒さだ。これは三つの要素からきていると思う。

一つは、主人公たちの空虚さと滑稽さ。

二つ目は、滑稽さによって際立つ背後にあるヒエラルキー、格差の残酷さ。

三つ目は、「こいつらを笑っているお前も所詮このヒエラルキーの一員、空っぽ人間の一人じゃないか」という視点。

映画「桐島、部活やめるってよ」との比較

感想を書いていて気づいたが、この本は約10年前に放映された映画『桐島、部活やめるってよ』に似てる(原作未読)。

『桐島』の凄いところは、これまで皆が薄々感じていた「スクールカースト」というヒエラルキーを言語化した上で、その空虚さをこれまた意地悪く示したところだ。そして対比する形で、ヒエラルキーなんて気にせず「自分が好きなもの」を追うことの尊さを描いたため、カタルシスがある。

『この部屋から〜』も「東京的価値観ヒエラルキー」の空虚さをものすごく意地悪に描いてるわけだが、そのヒエラルキーのもろさを描いた『桐島』とは逆に、空虚とはいえヒエラルキーは残酷なほどに存在していて、それは人の人生にも強く影響してるよね、読んでるお前ら自身もそれから逃れられないんだぜ、という視点が大きな違いのように思う。


社会においては本人の努力では覆せないヒエラルキーが存在するよね、という事実は年々可視化されている(サンデル教授の『運も実力のうち』とか)。今後ヒエラルキーを描く作品がどのように変化していくのかに興味がある。

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