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特別だった私の生活と、「普通」と向き合ってきた25年間の記録

これはある山奥で生まれた女の子のお話である。
大きな愛と感謝を父と母に送ります。


父と母は出会ってから、どちらの出身地でもないあの地に住み始めた。
父と母のような生き方をしたいと今も思う。


父は炭焼きが一番の収入源だった。
地域に古くから伝わる炭焼きを受け継ぎ、家のそばに窯を建てて毎日炭を焼いた。

炭焼きは大仕事だ。
山から木を伐って軽トラで運び、薪割り機でちょうどよい太さにする。
窯に、細長い道具を使って奥から一本ずつ立てて並べる。
火をつけて窯の口を石と泥でふさぎ、一晩寝かせて炭だしをする。
これが熱い。窯の中は2,000度にもなっているはずだった。
再び開けた窯の口から、灰を手でぱっと撒くと、それはきれいな火の粉が上った。
それ以上は熱くて近寄れないという、それよりさらに近づいて父は大汗をかきながら炭を出した。
出された真っ赤な炭に灰をかけ、冷ます。
するときれいな白炭ができる。これを三日サイクルで繰り返す。
炭と炭を空中で合わせると、カーンという澄んだ音がする。

炭の品評会が毎年あり、最若手だった父は老年の先輩たちの中で何度か賞をとった。

炭袋という四角い袋に、長さをそろえてきれいに入れ、一俵ずつ一級、二級と分けて売る。
いくらで売っていたのだろう。
あれだけの労力をかけて、ぎりぎり家庭を支えてくれていた。

家の調理は七輪で、ハネ物の炭を使った。
コンロはあったがほとんど使わなかった。
七輪は火力調整が難しく、持続性はあっても火の強さには限界があり、母はいつも苦労していた。
私もよく七輪を使って手伝いをしていた。
池のヤマメの塩焼きや、臼と杵でついた餅の網焼き、夏野菜の炭火焼、どれも好きだった。


父は春になると銃を担いで春熊猟へ行った。
地域に伝わるマタギで、ここでも40歳の父は最年少だった。
地は雪に覆われ、僅かな春の息吹が感じられる4月の終わり頃、冬眠から目覚めた熊は穴から起きだし、ブナの新芽を食べる。
雪が溶けたり若葉が茂り始めたりすると熊が見えなくなるので、この時期からゴールデンウイークにかけてが勝負時だ。
終盤は何日もかけてキャンプで遠くの山へ行く。

授かった熊は山の神様にお祈りをしてからマタギ班の皆で分ける。
山から熊を背負ってくるのは、若手の父の役割だった。
何十キロもの熊を背負い、足場の厳しい山を下る。

私はマタギと山へは行ったことがない。
お祈りの場も見たことがない。
山の神様は女性で、他の女性がいると嫉妬してしまうため、山は女人禁制だった。

熊肉は高級品だ。
春熊猟が終わると、毎年熊祭りが催される。
神様への感謝をささげ、仲間を労り、喜び、また次の年も恵みがあることを祈るものだったように思う。
美味しい熊汁を毎年食べていた。

県から、春熊の駆除はこの班は何頭、と決められている。
捕りすぎてもいけないし、何もしなければ里山に降りてくることとなる。
今は高齢化で、マタギがいなくなってしまった地域はいくつもある。
あの熊祭りも今はもうない。
地方では、こうして伝統がひとつひとつ、姿を消している。

熊の胃は貴重な漢方薬となる。
胃とはいうが胆のうである。
薪ストーブの上で何日も乾燥させ、板に挟んで圧迫し、最終的に粉末となる。
乾燥がうまくいくと高値で売れるが難しい。
良薬は口に苦しとはこのことかと思う苦さだ。
二日酔いに効くと言って、よくおじさん達が飲んでいた。


父は研究者でもあった。
昆虫の新種を発見し、図鑑にも載った。
論文も何本も執筆していた。
新たな生息地を発見したときは少年のようだった。
近隣の県の山にドライブや登山によく連れて行ってもらったが、そのたびに、お目当てが山道に飛び出してくると捕まえて標本にしていた。

石の研究もしていた。
本格的に勉強を始めたのは私が小学生くらいだったから、何歳になっても興味のあることは学び始められるのだと、その姿を見て思った。

蝶についても詳しく、母と一緒になる前は蝶の研究で海外へも行き、ドキュメンタリー映画の制作に携わった。
一度昔その映画を見て、エンドロールに父の名があって感動した。

とにかく好きな物への知識欲があふれていたのだと思う。
山を歩けば、この木はなに、この草は何科のなに、この花は、この鳥は、この虫は、
あの山は、この地形は、、、
父に聞けばなんでも答えが返ってきたし、聞かなくても次々教えてくれた。
私は父の後ろをついて山を歩くのが大好きだった。

それが好きなのは母も同じだったと聞いたことがある。



母は大学まで東京で育った。
いい大学を出て、留学も行って、農業がしたいとこの地に来た。
周りのひとに大反対されながらも実行してしまう強さ、前向きさ。

畑は家の正面と、車で数分の場所に何か所かあり、ありとあらゆる作物を作っていた。
田んぼもそれなりに広い規模で、うるちともち米を作っていた。
田植え、稲刈りを手伝った。
新米を炊いた鍋の蓋を開ける瞬間は、いい香りを鼻いっぱいに吸い込んだ。
キラキラした新米を頬張り、幸せをかみしめた。
天日干しをしていた大きなはせが台風で倒れた年は大変だった。

田や畑は、化学肥料も、農薬も、何も使わないことを貫いた。
虫は来るし、抜いても抜いても草が生える。
母は一日中畑にいて、世話をしていた。

食料はほぼすべて家で作っていた。
野菜全般、小麦、そば、なたね(これは油にする)を育て、味噌と醤油も手作りした。
こんにゃく、豆腐、黒蜜、納豆、水あめ、もう思いつかないけどまだまだある。

ヤギもいて、その乳を飲み、私は育った。
ヤギ乳からヨーグルトやチーズも作った。
ヤギは毎年春に子ヤギを2頭生んだ。

犬もいて、散歩の時間は綱を外すと勝手に駆け回って満足すると帰ってきた。
周りは山に囲まれ、隣近所までは歩いて10分ほどかかる場所だった。
一時期牛も飼っていた。

冬になると子豚を数頭飼い、3月に出荷するまで大きく育てる。
人工飼料ではなく、母が毎日大鍋でくず米やりんごを炊いていた。
大きくなり出荷して捌いてもらった肉は、届いた日に家族で焼いていただく。
肉の一部はベーコンやハム、ソーセージにする。
小屋で燻製するので、小屋中煙くなるのだが、またそれらの美味しいこと。
あの味を知ってしまった私は、今もスーパーで生肉や加工肉を買うのに躊躇する。

鶏も小屋に数十羽いた。
毎日卵をとり、廃鶏は父が絞めて、焼き鳥などで食べた。
たまに若鳥を食べると柔らかかった。
鶏の餌も、家で採れたあれこれだった。
最終的に自分の口に入るものだから、その食べ物も大事にしたいという母の想いだ。
夏は緑の草を食べるので、卵の黄身がやや黄色みがかるが、冬は白っぽかった。

食べたものが目に見えて身体に直結するのだ。人も同じだろう。
市販の黄身の色の濃さはどうも苦手で、卵も私がスーパーで買えないもののひとつだ。


一冬に数回餅をつく。
その日は母が朝から大きい蒸かし鍋で米を蒸かし、アツアツのうちに臼に入れる。
父が杵でつき、少し大きくなってからは餅を返すのは私の仕事だった。
味噌を入れて味噌餅にしたり、豆を入れたりした。
つきあがった餅は用意してあった餡、きなこ、砂糖醤油、納豆のそれぞれの中にちぎり入れる。
また、大きな小判型も作り、あとで切り餅にする。
餅をついた日は頭が痛くなるほど食べた。


4メートルもの豪雪地帯で、薪ストーブで暖をとった。
水道はなく、近くの清水をパイプで引いていた。
妹と弟と私と父母、5人家族の生活は私が高校生になるまで続いた。


残り3分の1ほどですが、この先は公開にちょっと勇気がいるので有料にします。




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