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小説| 水際の日常。#9 - アラフォー子なしバツイチ、移住者デビュー。

■移住地探しは、陰る気持ちを前に向かせてくれた

『移住するなら人にやさしいこの町』『住みたい日本の田舎ランキングトップ10』『都会にいちばん近い田舎でスローライフ』『若者が移住したい人気の地方特集』などの見出しをネットで見つける度に、片っ端からクリックして情報をインプットしていく作業は、苦い記憶をリセットして気分を前に向かせるためにいくらかのプラスにはなった。

 過疎地域の定住者促進事業の事務局が運営している地方移住希望者向けのポータルサイトに自分の情報を登録すると、条件がマッチングした全国の市町村から、大量の資料が送られてきた。
 その中から、少しずつ候補地を絞り、房総の九十九里エリアにある藻倉市の移住推進課にメールで問い合わせてみたら、年々減っていく市の人口を一人でも増やして税収増を期待する行政側の、あたしへのサービスは思いがけず手厚かった。

「ご存じですか?藻倉市の海は波質が最高で、サーファーに大変人気が高いんです。波に惚れ込んだ独身の女性サーファーも毎年移住して来ています。先日は市内の捨良海岸でサーフィンの世界大会も開催されたんですよ。せっかくですから、小豆さんもこっちでサーフィン始めませんか?波が怖いならSUPもお勧めですよ。海面に浮かんでいるだけで気分転換にもなりますし」
 自分もサーファーだという担当職員の男性は、あたしにボディボード歴があると知るとなおさらテンションが爆上がりし、そのノリの軽さに心配にもなったが、アラフォーで無職でバツイチの、どこの馬の骨かもわからないあたしにとても親切で、移住にかかる費用の一部を補助する支援金の申請方法を教えてくれたり、住まいや職探しまで丁寧にサポートしてくれた。おかげで引っ越しは思いのほかスムーズだった。

■北の地から房総の港町へ

 藻倉市民になったばかりの頃は、新しい土地に慣れるため、地元民御用達の市場を探索したり、市内のコミュニティースペースに置いてあるチラシやネットの記事を頼りに、話題の店や観光スポットを車で少しずつ見て回った。この地域のカフェやパン屋、雑貨店などの小さな店のほとんどは、週に数日しか店を開けない場合が多いので、せっかく行っても閉まっていた…とならないように、営業日と時間を事前にチェックしてから出かけるようになった。

 週末になると、空地や公園で開かれる小規模のマルシェやフリーマーケットが人で賑わう。地元民に限らず、都心部から小旅行に来た観光客も来場する、ささやかな屋外イベントは暇つぶしにちょうど良かった。無農薬野菜や手作りの天然酵母パン、アレルゲンフリーのお菓子、足つぼマッサージ、一点物のアクセサリーや木工品などのクラフトの出店を、ひとつひとつ眺めているだけで気が紛れた。そのうち自分も何か手に職をつけて、好きな時間に仕事をしてストレスなくのんびり生きていけたら、と淡い夢を抱いた。

 ただ、こういった地域密着型のイベントに通っていると、出店者が毎回同じ顔ぶれなのもわかってきた。
 店の人にしっかり顔を覚えられた手前、何か買って帰らないと申し訳ないような気持ちにもなり、場の雰囲気に流されてつい余計な物を買ってしまい後で後悔したりして若干足が遠のくようにもなっていった。

■小菅さんみたいなスローライフには縁遠く

 テレビで人気のバラエティー番組のスローライフ特集に、移住者として藻倉市ではよく知られた存在の小菅さんが出演していた。番組を偶然観ていた母親や、わずかにつながっていた地元の友人が、「モチの住んでるとこ映ってた」とラインをくれた。それに、別れた智之までもが「テレビで見たよ。いいとこだね」とメッセージを送ってきた。

 外資系のIT企業に勤める小菅さんは、藻倉市沿岸部のリフォーム済戸建てにヨガ講師の妻と娘の三人で暮らしている。リモートでの勤務が可能なため、日中のほとんどを自宅で過ごし、気分転換したくなるとサーフィンをしに庭先から徒歩三十秒の海に入る。ごくたまに対面でのミーティングがある日は特急と地下鉄を使って一時間ほどの場所にある都内のオフィスに出勤する。休日は早朝からサーフィン。海から上がると、庭の手製の窯で妻が焼いたピザで軽い朝食を摂り、天気が良ければ、愛車のジープで家族とドライブに出かける。山あいの美しい田園地帯に店を構える地産地消のレストランでビュッフェスタイルのランチを楽しんだ後は近くの牧場へ立ち寄り、お気に入りの赤ワインに合う地産地消無添加チーズを買って帰る…という、藻倉市の移住促進と観光案内も兼ねた小菅さんの素敵な暮らしぶりが番組内で紹介されていた。

 藻倉市への移住希望者を対象とした誘致セミナーにパネリストとして登壇するのは、小菅さんのようにアイコン化されやすい、清潔感と社会性があって快活そうな人間だ。または、お揃いのパタゴニアのフリースジャケットを着た、インバウンド対応のゲストハウスを経営する杉崎夫妻のような人々。この二人も都内からの移住組で、彼らも地域振興イベントの場に頻繁に呼ばれる。当然ながら、元都会人でもなく派遣コンパニオンと非常勤の保育士を兼業しながら1Kのアパートで慎ましく暮らしているバツイチ独身のあたしが移住者のモデルケースとして壇上に呼ばれることはない。

 行政は市のイメージアップのために、都会の生活に見切りをつけた若い世代の移住者がわずかながら増加傾向にあるのを盛り気味にPRしていきたいようだが、実際のところ、市の全体の人口は若い世代の人口比率とともに年々減少している。
 その数字が示す通り、市内のスーパーやホームセンター、公民館、病院…、どこへ行っても目立つのは若い世代よりも高齢者の姿という気がする。それは決して気のせいではないようだ。若い世代が充分に暮らしていける仕事の求人が少ないため、地元で生まれ育った若者の多くは早いうちに都市部へ出て行ってしまう。#第10話へ続く

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