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小説| 水際の日常。#10 - 元地方セレブ妻の清貧生活事情。

■スローライフなメンタルは、お金に余裕があってこそ

 それにしても、三十五を過ぎてから自分の懐具合にこんなに不安をおぼえるなんて、想像もしていなかった。
 智之からいくらかの慰謝料も受け取ったし、贅沢をしなければもうしばらくは貯蓄の切り崩しと非常勤保育士の給料で充分な暮らしができるだろうと思っていたが、考えが甘かった。

 まず、引っ越しで蓄えがごっそりと持っていかれた。それは仕方ないにしても、新しい生活がスタートすると、次々と届く払い込み用紙や自動引き落としの通知書と同時進行で口座の残高が嘘のように目減りしていった。今はどうにかなっても、このままいけば、数年後には間違いなく赤字転落である。

 自分の人生の行く末を想像して恐怖に震えた。昼の無認可保育園の非常勤職員の収入だけでは、いくら倹約したって家計はどこまでも苦しい。

 仕事を探していた時は、本業の他に副業もするという発想すら思いつかなかったから、何件か応募した求人から不採用通知が届いてようやく採用になったこの保育園の雇用規約に「副業NG」の項目があったなんて気づきもしなかった。でも、そんな規約をいちいちバカ真面目に守っていたら生きていけないので無視することにした。保育園の勤務が終わった後に、自宅周辺で遅い時間までアルバイトができる場所といったらファミレスやコンビニ、居酒屋くらいだが、低時給の仕事で月に数万円でも稼ごうとすれば結構長い時間働く必要がある。勤務時間が長ければ長いほど「モチ先生」の別の顔を職員や園児や保護者たちに発見される確率が高くなるだろう。

 その点、派遣コンパニオンであれば、保育園関係者の生活圏と夜のお座敷活動のテリトリーが交わることはほとんどなさそうだし、お座敷一本で昼のフルタイムのアルバイト分くらいは稼げるから、拘束時間も短くて済む。ただ、「つくし組副担任のモチ先生が色っぽい服装でおじさんを接客していた」噂が職場に広まるリスクは極力避けたい。男性客の多くはコンパニオン付きの宴会に自分が参加したことを家族や職場の人に知られるのを望んではいない。万が一顔見知りと鉢合わせして気まずいことになっても、たいがいは暗黙の了解でお互い口外はしないものだ。

 とはいえ、エース級の派遣コンパニオンが知人バレ彼氏バレ親バレなど諸事情で突然卒業、という事故もたまには起こる。
 万が一用の安全策として、お座敷で知り合いに遭遇した場合は、コンパニオン同士であらかじめ決めておいた秘密の合図とともに即興の口裏合わせをし、「あ、○△ちゃんね、たまたま人が足りなくて無理を言って今日だけ代理で手伝ってもらったんです」「ほんと今日は助っ人助かりました。お綺麗だからまたお願いしたいくらいだけど今回だけなのが残念ですぅ…」といった小芝居で取り繕う。

 縁あって「みね岸」の亜哉子ママを紹介してもらい、ママの面接に合格したあたしは、もう他の副業をする選択肢を思いつかなかった。
 仕事でフル回転となった今は、のんびり過ごす時間も減り、昼の保育園の仕事と、週に何日かの夜のお座敷仕事をひたすらこなしていくので精一杯な日々だ。

 保育園は、非常勤とはいえフルタイム勤務で、仕事内容は常勤職員とあまり変わらない。
 早番は朝の六時半から出勤で、遅番に入ると仕事が終わるのが夜九時過ぎになる。シフトがバラバラで、空いた夕方から夜の時間に、派遣コンパニオンのバイトを無理やりねじ込んでいる。

「授からなかった」という苦い記憶を抱えたまま保育士の仕事に復帰するのは、子供をかわいいとは思えても、それ以上に複雑な感情が湧く。でも、引っ越し先を探していたあの時は他業種の仕事を探す余力もなかったのだ。加齢のせいもあると思うが、仕事での体力の消耗は結婚前よりずっと激しい。休日は部屋で寝ているか、自宅から車で五分の白砂のロングビーチ、捨良海岸に行く。九十九里エリアの海は、あたしが慣れ親しんできた、大陸と弧状の島に挟まれたあの海とは色も匂いもまるで違っていた。激しくぶつかり合う強い波が絶えない海の表情は、あたしにはとても新鮮に感じて見飽きる事がなかった。海の中で波待ちをするサーファーを、防波堤に寝そべってただ眺めていると、腹の底に蓄積した澱が潮風で洗い流されていくような気がして、心地よかった。なんならこのまま身体ごと砂と一緒に消えてしまっても、あたしの人生、別に悔いはないように思えた。

■元夫の幻影、そろそろどうにかしたいのだが

 風が冷たく感じて、あたしは自分の車に戻った。シートを深く倒し、再びチルアウトの体制に入った。ダッシュボードの下の棚に、長らく行方不明だったジャワイアンレゲエのコンピレーションCDを見つけ、うわぁ…と一人、懐かしさに浸った。

 智之は明奈と楽しく暮らしているのだろうか。意味がないのはわかっているが、一日のうちに何回かは必ず智之のことを考える。とっくに捨てられた身なのに、あたしの知らない密な時間を過ごしている二人の姿を勝手に想像しては勝手にはらわたが煮えくり返る。ならば未練が残るほど智之がいい男なのかと問われれば、あたしは首を振る。これまで会ったことのないようなパンチの強い男が目の前に現れでもしない限り、智之への情をすっぱりと断ち切るのはあたしにとって簡単ではないようだ。

 そんな中、先日、智之から唐突に「今度そっちに遊びに行きたい」と連絡が来たので狼狽えた。
「絶対に来ないでよ」あたしは苦笑いで返した。

 捨良海岸は日本で初めてサーフィンが行われた、知る人ぞ知る、波乗り人にとっての聖地らしい。だから智之も一度は捨良海岸を聖地巡礼したいんだとか。

 去年の夏、かいがら公園のフリーマーケットで知り合ったスポーツマッサージ師の圭が亜哉子ママを紹介してくれていなかったら、今頃あたしはどうなっていたのか、知る由もない。生活環境や経済状況が一変した不安と焦りから、マッチングアプリを頼りにパパ活熟女になっていたかも知れないし、ふと魔が差して、市の観光名所・H岬の灯台から海に身を投げるなんてことも、あったかも知れない。

 九十九里エリアを拠点に活動するプロサーファーだった圭は、歳を重ねるにつれ試合成績がふるわなくなり、大口スポンサーの撤退で活動継続に困っていた時期に、次の仕事の目途がつくまで「みね岸」で数年間、働かせてもらっていたのだ。あたしは、水商売に抵抗はあったが、圭の紹介ならば信用しても良さそうに感じた。その勘はあながち外れてはいなかったように思う。#第11話に続く


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