ながされた日
※東日本大震災の内容を含みます。苦手な方は、そっと画面を閉じて、深呼吸してください。
あの日、
2011年3月11日
わたしは、
大学の卒業式に着る黒のガウンと学位帽を借りに久しぶりに大学に来ていた。
3月といえどまだ寒く、ファーのついたミニタリーコートを着ていた。空は、水色だった。
ガウンと学位帽をトートバックに入れ、5階の煉瓦造りの教室を出て、トイレに行った友人の戻りを待っていた時だった。
窓ガラスは割れ、天井は穴を空き、教室からは悲鳴、消化器具扉からは白いホースが飛び出し、ドアは一人で開閉を繰り返していた。
立っていられないほどの揺れ。
側にいた友人はわたしの腰に抱きついていた。
机と机がぶつかる音、軋む校舎。
ああ、ついに、と思った。
数日前から震度5の揺れが頻繁に起きていたし、30年以内に来る確率は99%と言われていたから、みんななんとなく分かっていた。分かっていたつもりだった。
校舎から体育館へ避難し、帰宅出来る学生、迎えを待つ学生、待機する学生に分けられた。停電していたため体育館の電気はつかず、ストーブもついていなかった。
幸い、災害時用の毛布が用意してあり、それに友人達と包まることができた。その時友人に貰ったおやつ「甘納豆」は忘れない。
近い地区に住む友人と共に歌を歌った。「くまのこみていたかくれんぼ」友人は泣いていた。不安と、この状況で歌える心強さで泣いていたらしい。
交通機関は止まっていた。
家族とも連絡は取れなかった。
当時はスマートフォンではなく、ガラパゴス携帯だったため、情報を得る手段はなかった。
災害用伝言サービスにひたすら電話をかけ続けた。
日が暮れて、友人と体育館のトイレに向かった。もう足元も見えないほど暗いため、携帯のライトで足元を照らしてトイレに行った。
ところが、トイレが流れなかった。当時はなぜ、と思ったが、今思えば水道管がやられていたのだと思う。
蛇口を捻っても水が出ない。
え、じゃあ我慢する。と諦めた。個室トイレの扉を閉めたときの怖さのせいもある。
元の場所に戻ろうとしたとき、教授たちが小さなテレビを見ていた。光に吸い寄せられるようにわたしたちは教授のテレビを教授たちの間から盗み見た。そこに、
大きな黒い水の流れがあった。囂々と流れる黒くて太い水。
なんの映像だろう?わたしたちには、考えも及ばなかった。
あっ、津波…?
ザワザワと足元からなにかが上がってくるのを感じた。同時に頭からは冷たいなにかが降りてきた。
やばい、津波だ。え、どこの?
教授たちがなにかを小声で言っていたと思う。よく覚えていない。
これからどうしようか。
徒歩で帰宅するにも2時間はかかる。家族に連絡もつかない。バスもない。どうしようかなとふわふわの毛布を指で撫でていたそんなとき、友人が姉と連絡が取れて車で迎えに来るから乗って、と言ってくれた。わたしはこの恩を一生忘れない。
道路は今まで見たことがないほど渋滞していた。真っ赤に光るテールランプの列がナウシカのオームみたいだった。
車が進まない。時間とガソリンばかりが減ってゆく。
後日知ったのだが、橋が崩れてしまっていたため片側通行で渋滞していたらしい。
このままじゃなんだか申し訳ない。
ここで、大丈夫です。
と制止する友人とその姉にありがとうございましたと頭を下げて、車を降りた。渋滞の道から逸れた丘を登る団地の道は、真っ暗だった。
携帯のライトを足元に向けたが、弱々しい光であまり意味がなかった。
水が流れる音がしていた。水道管が破裂したのだろうか。
ある家の駐車場の車に人が乗っていて、テレビを見ていた光があった。
坂道を上り、少し下って、右折。もう少しで家に着く。母は、無事だろうか。テレビの下敷きになっていないだろうか。
自分の足が見えず、地面との距離がわからなかった。地面に這いつくばっているような感覚だった。
とても静かな夜だった。
幸い母に怪我はなく、駅前で働いていた姉も2時間歩いて、それから車で無事に帰宅した。
福島に勤めていた父とは連絡が取れなかった。
翌日公衆電話が繋がりやすいとmixiで情報を得て、公衆電話があるスーパーに行ってみると行列が出来ていた。並んでみたが、繋がらなかった。
電気も水道もガスも止まっていた。
携帯の電池も切れそうだった。
夜寝るときにイヤホンでラジオを聴いた。父の部屋にあることを知っていた。
高橋優さんの「福笑い」がよく流れていた。
震災から3日。
夜トイレに入っていると、なんだか外が騒がしかった。人の気配がした。
外に出てみると、「新潟県」と書かれた給水車が家の前に止まっていた。
水をタンクに入れていたおじさんに声をかけた。
もらって、いいんですか?
おじさんは元気よく、いいよ!何個でもいいよ!と言って、水をタンクに入れてくれた。
嬉しかった。わくわくした。この恩を一生忘れない。
家に持ち帰って、母に教えた。
ついでに集会所で発電機で充電できることも知った。すぐに携帯を充電しに姉と集会所に行った。
家に戻り、布団に入り、ラジオを聴いた。
父は、無事だろうか。寝てるだろうか。休めてるだろうか。きっと大丈夫、だけど、
ぐるぐるいろんなことを考えそうになる頭をラジオで紛らわした。時折ザザザザと電波が騒めいて、アンテナを動かした。
わたしの携帯が鳴った。突然。0時を過ぎていた。
父だった。
無事だった。
いつもの父の太い声だった。
それだけで涙がじわじわと溢れてきた。
電話を母に代わり、うん、うん、と頷く母の横で涙を拭った。
父が帰ってきたのは、地震から約3週間後のことだった。
電気が復旧したのは1週間後
水が出たのは2週間後
ガスが復旧したのは1ヶ月後だった。
電気がついた日は3人で思わず拍手をしたし、水が出た日は水のやわらかさに感動した。2週間ぶりに洗う頭皮は引きちぎられているような、火傷したような激痛だった。
光と水があるだけで、笑顔になった。
まだガスが通らない近所の友人を招いてお風呂会をした。
携帯電話も繋がるようになって、大学の友人にも連絡を取った。
水がないときは小学校に給水車が来ていると聞いて姉と向かって列に並んだが、水がなくなって、もらえない日もあった。
同じように水がもらえずに帰る親子に水を譲った日もあった。
隣の家から、いっぱい貰ってきたからと言って大量の水をいただいた日もあった。
ある時は分け合い、ない時は助けられた。
ないからよこせ、なんて言葉はなかった。
みんな同じようになかったから、分かっていたように思う。
だからこそ、頂いたときの有り難みも分かる。
お金はなんの意味もなかった。
お金があっても物がなかった。
物があっても、孤独な人もいた。
いまのコロナの状況と似ているように思う。
お金があっても物があっても、満たされないものがある。満たしてくれるのは、同じ人間だけ。それは、相手も同じようにわかっているからだと思う。満たされないものがあること、それを分かっている人からしか貰えないこと。
▶︎「うまれた日」に続きます。
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