3.11の記録


(以下、震災から3年後のブログ掲載記事)

3.11の記憶

これまであまり語りたくなかった。
自分よりもっと大変な方々が居るからと。
でも、少しづつあの未曾有の災害から目を背けないようにしようと今日は思えた。

あの日私はお稽古がお休みで、当時結婚して旦那と住んでいた茨城の海岸沿いの地域で飲食店のバイトをしていた。
...
ランチタイムも終盤に差し掛かり、お客様もまばらになりつつあった店内を掃除していたら、
店内BGMをかき消すような地鳴りが聞こえてきた。

すぐに子供の頃に体験した阪神淡路大震災を思い出し、バイト仲間に「大きいかも…」と漏らした直後、店内に設置されたドリンクバーのコップや取り分けるお皿がカチャカチャと音を鳴らしはじめた。
その直後
大きな揺れと共にそれらが地面に叩きつけられ足下はガラスの破片の山となった。

私はすぐに入り口を空け、スリッパを束でつかみ、お客様とスタッフにこれを履いてすぐに店外へ出てくださいと大声を張り上げた。

まだ大きな揺れが来るような予感があった。このままではお店の屋根が落ちてくるような感覚。

お客様を店外へ誘導し、ガス、電気、火元辺りの確認をし、漸く自分も外へ…

そこは映画のような、とても現実とは思えない光景だった。
目の前の国道がひび割れ車がタイヤをとられて立ち往生し、長くまっすぐ続く道路は三半規管を刺激するような歪みを見せ、近くの衣
料店の大きな看板が傾き今にも倒れそうな状態。

慌てて周囲に居た方々に看板が倒れてきても大丈夫な場所で固まるように言い、店にあった携帯ラジオをつけ、情報を求めた。

ラジオのチャンネルはどこも雑音だらけでまともに聴ける状態ではなかった。けれど、私はふと「震源地がこの辺りじゃなかったら、とんでもない大災害かもしれない…」と言っていたらしい。

その時ラジオのチャンネルが合い、聞こえてきたのは三陸地域に津波が押し寄せている事を伝えるヘリからの中継。

当時引っ越したばかりで、自分が海岸沿いに居ることを欠いていた私は、津波と言うワードにぴんとは来なかった。

気が付くと3車線上下線の目の前の国道が山側に向かって一方通行になっていた。

そこが地元だったバイト仲間は「こっちにも来るのかも。」と、山側へ行く車の渋滞のもとへ駆けていった。彼女は近くに海岸に向かう大きな川が流れていることを知っていた。彼女の子供はその橋を越えた所に預けられていたからだ。

情報を手に入れた彼女は血相を変えてこちらに戻り、橋が堕ちるかも。どちらにしても橋の上に車が放置され橋を越えられないらしいと。

子供の安否を心配し不安定になる彼女を落ち着かせ、隣の衣料店で暖をとれるものを頂き、その場で連絡がとれることだけを祈ってなすすべもなくみんなで固まっていた。

どれくらいの時間がたったかわからないが、揺れがおさまったと感じた時に、自宅の犬達が心配になり、私は移動をはじめた。

国道から脇にそれた道に進むとそこは液状化の土砂で足下が川のような状態。
自宅につくとそこは湖に浮かぶ孤島のような光景だった。

駐車場の塀として作られた歪んだフェンスを伝い、必死に家の前へ。泣き叫ぶ犬達の声。けれど、扉が歪んで空けることすら出来ない状態。

なんとか裏手の空く場所を見つけ、中に入ると、風呂場から逆流した土砂や倒れた食器棚で足の踏み場もない状態。
幸いにも犬たちは走り回る事なくそれらで怪我をすることはなかったようだった。

当時私は3匹の犬を飼っていた。(ポンとポンの子供のジジとマロン)ソファーの上に3匹で固まり不安気に涙を浮かべ鳴いていた。
一匹づつ連れ出すと残った子達が暴れて怪我をする恐れがあったので、私は犬をかばんと、ワンチャンバックとリュックにいれてフェンスを伝い無事保護をした。
ご近所さんに犬達を見ていてもらい、
私は更に毛布や避難道具をとり、犬達を連れて避難所へ向かった。

行き道で路頭に迷う友達を見つけ、一緒に避難所へ。...

避難所の小学校の体育館は座るところもない程の人だかり。

私はとりあえず犬を屋外の木にリードで繋がせて欲しいとお願いし、
旦那が避難所へ来ることを願い犬達と待っていた。

日が落ち寒くなりはじめた頃、どう考えてもここに居る全員に渡るはずもない量の、水と乾パンと毛布が支給された。

災害の経験のない先生方は大きな声で「これから毛布と食料くばりまぁす!」とコール。
それを聞いて走りだし我先にと奪い合う若い者達。
本当に必要なのはそこで勝ち取る事の出来ない小さな子やお年寄りなのに。

私は近くに居たおばあちゃんに寝袋を渡し、自宅から持って来たおかきを一緒に食べた。水は多少多目にあったようで、おばあちゃんの分と自分の分を手に入れ、再び犬達の元へ。

人間は我慢する事の出来る生き物だけど、犬などの動物はそうはいかない。水と持ち出したペットフードを与え、3匹と1人で暖をと
っていた。

その時、旦那からのメールを知らせる携帯音が鳴った。
慌てて開くと、そこには
「津波 今車の上に乗ってる。腰まで水きた。飛び込む」
…と書いてあった。
私の旦那は障害があり、右手が不自由だ。泳ぐなんて…

向かいたい気持ちで一杯だが、そんなことをしても意味が無いことはわかっていた。
無事、顔が見れる事だけを祈り待つしかなかった。

不安な夜を過ごす私に一人の男性が声をかけてくれた。
彼も家族とまだ連絡がとれないとの事。でもその彼は不安を口にするどころか今ミュージシャンとして活動していること、有名になりたいと言う夢を語ってくれた。

気がついたら私も役者としての活動の話をしていた。

未曾有の災害を目の前にして夢を語り会う不思議な状況かも知れないが、とても生きている心地がした。

後に彼とは芝居と生演奏のコラボ舞台を作り、被災地でチャリティ公演をすることになったのだが、
その時はそんなことが出来るなんて思ってもおらず、妄想で今ある現実から逃げていたのだろう。

犬達もお腹を満たし眠りについた朝方。泥だらけでびしょびしょの旦那が目に飛び込んできた。

旦那も私に気づいて駆け寄り犬達も起きて喜びみんなで抱き合って精一杯喜…ぶ事ができなかった。

周りにはまだ家族と連絡がとれない人も居る。旦那は目の前で津波にのまれた人を見たとも言っていた。

私達は阪神淡路大災害の経験者として出来ることをやろうと話あい、
日が登って薬や他の暖をとることの出来るもの、消毒液や食料を自宅に取りに行き、
先生方にご老人やお子さんを優先するように伝え、常備薬を渡し、乳飲み子を抱えたお母さん達の授乳室に寝る場を用意してもらうように言い、出過ぎたことかもしれないが、やれることをやった。

煙たく思われてもよかった。
毎日朝と夕方、夜にまだ避難所に居る方々に声をかけて廻った。
はじめは無視されることも多かった。
だけど、避難所の生活が長くなるにつれみんなが沢山声をかけてくれた。
「ありがとう」って。
すごく嬉しかった。

私は避難所で熱を出した時もあった。
迷惑をかけたくなくて黙って居たのだけれど、
「そりゃ毎日声聞いてるから、元気無いことくらいわかるよ」って。

その時、寝袋を貸してあげたおばあちゃんや小さなお子さんを連れておられるご家族、ミュージシャンの彼…みんなが冷却シートや水、食料を分けてくれた。

みんなは元気な私が居ることが、救いだとも言ってくれた。

この時、少し表現者として生きて居ることを誇りに思えた。

少しづつ自宅に戻ったり、親戚の家に頼りを見つけ、避難所を去る人達が増えていった。

みんな最後に「ありがとう」と声をかけてくれた。

自分達は
家が潰れて全壊扱いになってしまったが、
新しい住まいを旦那の会社のつてで借りることが出来て自分達も避難所を去るときが来た。

私は残っている人が居ることが気になっていたが、その中のあるご家族が、
「遊びに行くからね!」と言って送り出してくれた。

後に本当に我が家でパーティをした。沢山語って子供達と走り回った。

あの日から感じた
本当に人を思う気持ちを伝える「言葉」
自分の思いを伝える「言葉」
「言葉」のもつ力。

それを知って欲しいと思う。

(当時の文章を少し修正しました)

当時の私はまだ脚本を書き始めたばかり。
ただ今も変わらず思う気持ちは、作品を通して出来事を伝え、思いを感じ、「人を想う」事を伝えて行きたいという事。

今は当時の旦那とは離婚して、それぞれの幸せな生活を送っているが、彼と乗り越えた沢山の出来事は彼とだったから乗り越えられたんだと今も感謝しているし、されている。

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