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学習院大学 卒業生謝辞①に触れて

あまりに素晴らしいので書かずにはいられませんでした。

3月末で削除されるとのことなので、文章自体も残しておきたいと思います。

 卒業生総代答辞の多くが、ありきたりな言葉の羅列に過ぎない。大きな期待と少しの不安で入学し、4年間の勉強、大学への感謝、そして支えてきてくれた皆さまへの感謝が述べられている定型文。しかし、それは本当にその人の言葉なのか。皆が皆、同じ経験をして、同じように感じるならば、わざわざ言葉で表現する必要はない。見事な定型文と美辞麗句の裏側にあるのは完全な思考停止だ。
 私は自分のために大学で勉強した。経済的に自立できない女性は、精神的にも自立できない。そんな人生を私は心底嫌い、金と自由を得るために勉強してきた。そう考えると大学生活で最も感謝するべきは自分である。
 すべての年度での成績優秀者、学習院でもっとも名誉である賞の安倍能成記念基金奨学金、学生の提言の優秀賞、卒業論文の最優秀賞などの素晴らしい学績を獲得した自分に最も感謝している。支えてくれた人もいるが、残念ながら私のことを大学に対して批判的な態度であると揶揄する人もいた。しかし、私は素晴らしい学績を納めたので「おかしい」ことを口にする権利があった。大した仕事もせずに、自分の権利ばかり主張する人間とは違う。
 もし、ありきたりな「皆さまへの感謝」が述べられて喜ぶような組織であれば、そこには進化や発展はない。それは眠った世界だ。新しいことをしようとすれば無能な人ほど反対する。なぜなら、新しいことは自分の無能さを露呈するからである。そのような人たちの自主規制は今にはじまったことではない。永遠にやっていればいい。
 私たちには言論の自由がある。民主主義のもとで言論抑制は行われてはならない。大学で自分が努力してきたと言えるならば、卒業生が謝辞を述べるべきは自分自身である。感謝を述べるべき皆さまなんてどこにもいない。

行動を起こし、結果を出し続け、自信をつけてきた4年間だったからこそ、4年という月日を自身の言葉で総括できる・堂々と主張できる権利を獲得した。これは紛れもない事実だと思います。

何を言われようとこういう謝辞を掲載する大学・学部の精神に敬意を抱くし、こういう大学・学部に生徒を送り出したいと思うし、何よりこういう生き方ができる生徒を育てたい。

今日は屈辱的な出来事があったので、このような素晴らしい言葉に触れて少しすっきりしました。

ご卒業おめでとうございます。今後のご活躍を祈っています。

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