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ごみを分別するという習慣

我が家にはゴミ箱が5個以上ある。
燃えるごみ、プラスチックごみ、紙ごみ、段ボール、牛乳パック、更にはペットボトルの蓋……。
たまにしか出ない金属ごみや電池などを含めれば、我が家にはそれなりにごみの分別ルールがある。

「環境に配慮しよう」とか「子供たちに綺麗な地球を残そう」とか、そんな崇高な理由を常日頃意識しているかと言えば(お恥ずかしながら)そんなことはない。
私が何故ごみを分別しているのかと言えば、ひとえに「親がそうしていたから」である。

母は小まめにごみの分別をする人で、それこそ大きなプラスチックごみの脇には、ペットボトルの蓋用の袋がちょこんとぶら下がっていたものだ。
だが、私がごみを捨てる時に口酸っぱく「それはこっち!」などと指導されたのかと言えば、特段そんなことはない。
母はあくまで自主的にごみの分別をしていたし、事実(気をつけてはいたものの)間違っていたかもしれない私のごみの捨て方について、怒られたことは一度もない。
そんな環境の中で、私は体感として「ごみを分別すること」を覚えていった。

妻となり母となった今も、その習慣は変わらない。
お弁当を買ったら、なるべく綺麗に洗ってプラスチックごみに捨てる。
飲み切ったペットボトルは水で洗い、蓋と本体とラベルを分ける。
牛乳パックは洗ってピサの斜塔よろしく乾かし、鋏を入れて展開図を作る。
そんなことを深夜にぼーっと行っていると、習慣とは不思議なものだなあと思う。

最近、子供たちが大きくなってきて「これはどこに捨てるの?」と訊いてくるようになった。
子供ながらに意外と細かく見ているのか、お菓子の袋やチラシなども私に無邪気に訊いてきてくれる。
私の習慣に付き合わせて悪いなあと思う反面、私が母から学んだように、この子たちも遠い将来「習慣」としてごみの分別をしてくれるのかなと思う。

私の行っているごみの分別は素人レベルのもので、突き詰めればもっとできることはあるのかもしれない。
それでもこうしてちまちまと分別をしていくことで、「ゼロよりはまし」な未来を作っていけたら良いと思う。

私の背中を見て無邪気にごみの分別をしている子供たちが、大きくなった時に少しでも暮らしやすい世界が持続しているよう。
私は今日も夜中に水の入ったペットボトルを振る。

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