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「信じられない」という気持ちについて

きっとこのnoteは書いてから
時間を空けて投稿されているだろう。

身内の訃報や著名人の訃報を受けて、
「信じられない」という人がいる。

私にはその反応がどうにもわからないという話。


信じられないという言葉

人の訃報に対して「信じられない」という言葉は、
どこか無責任に感じる。

勝手に作り上げられた人物像と照らし合わせられているから。

そして私は、「意外だね」とか「信じられない」と
言われる、思われる苦しさがあると思っている。

言われたり思われている人は、
そう思われないように過ごす。
あるいは「意外」ではない自分を見つけてくれる人を求めるのではないか。

これの一部に関しては、それこそ私が作り上げている
この立場にある人はきっとこう思っているはずという、
他人像みたいなものがあるので強くは言えないが。


私がかける言葉は

私は人によって命が奪われていない限り、
生を全うした人にはお疲れさまと声をかけている。

病気を理由に亡くなった人、
自ら命を絶った人に対しては特にそう思う。

1番似合う言葉が見つけられないが、
苦しかったことから解放されてゆっくり休んで欲しいと
心から願う。


私が過去にかけて欲しかった言葉

自分がかける言葉が正しいとは思わない。

だけど「信じられない」という言葉は、
自分だったらかけて欲しくない。

そう強く思ったことをきっかけに今回は書き始めた。

そう思ったときに「なんで?」と聞かれると、
きっと一度社会のレールから落ちかけた、落ちた時の私が

親が私に対してそう思っていると聞いて、
よりしんどく、やるせない気持ちになったからだろう。


「信じられない」という言葉を口にする人に対して、
無責任だと思い、攻撃的な口調で持論を展開した。

だけど私が述べた話も大差ないのかもしれない。

私は自分の経験をもとにこうして欲しいはずだ。
と、個人的なものをあたかも普遍的なものとして述べているからだ。

私がかけている言葉は当時私がかけて欲しかった言葉を
自己満足のようにかけているのかもしれない。

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