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同期に自分は人を信じていないと言った日

仕事という場面において、私は人を信じている。

だけど、その場面を除くと自分は人を信じていない。
そう感じる場面が増えてきた最近、
同期5人くらいいる中で私は思ったことをそのまま言った。

「自分は仕事以外の場面で人を信じていない」と

その言葉を聞いた同期かも友達かもしれない君たちは
どう思ってその偽ることを知らない言葉を聞いただろう。


私自身仕事以外の場面で人を信じていないということを
うっすら自覚しはじめたのは最近のこと。

同僚と話す中で、業務的な内容から業務外の話をする。
その中で感じるのは、業務関係の話をしている際には、
その人に任せる・信じているという感覚。

一方で、業務外の話では全くと言っていいほど
その話を真剣に受け止めていない。

例えば、業務が落ち着いたらチームで飲みに行こうという話。
自分が長だから自分が言わないとおそらく始まらない。

だけど、どこかチームメンバーを誘っても実現しないとかいった
諦めの気持ちや聞き流している自分がいた。

業務関係の話で感じていた信じるといった感覚が全くない。


そのエピソードを1つの根拠に私は仕事以外で
人を信じるということができていない。


こうなった背景に思いあたりはある。

私自身これまで今の同僚じゃないが、
同期たちが飲み会を実施して欲しいという声に対して
2回ほど実施しようとしたことがある。

結果は人が集まらず破綻した。

自分の人の集め方も悪かった。
むしろそっちが悪かったと認めた上で、
どうしてもその経験で自分の中で強烈に残ったことが1つ。


自分の異質さ。


自分だと同期とのつながりを大切にしたい価値観を持っている。

だけど思ったよりそれは当たり前ではなく、
それを大切にしていない人、
もっと他に大切な価値観を持っている人
様々いた。


書きながら思ったこととして、次のこともあった。

人と話していてよく出る話題に対して、
着いて行くことができていない自分の姿があった。

これは意図的にざっくり書いた。
細かい出来事を書くことを自分の頭が拒否したことを感じたから。
よほど嫌なことがあったのかもしれない。

違うなんて当たり前だし、そんなちっぽけなことで
って書きながら思っている。


だけどそれを拒否している自分を見ると、
そういった当たり前な小さな異質さを自分を受け入れられていない。

自分が思ったことについて、他の人が同じように思っているとは限らない。

業務内外関係ないじゃんと書いていて思い始めた。
違いは自分から行動・期待した時の傷つき悲しむ度合いだろう。

業務のことは抑え理論的に判断することが多く、
そこの期待に対して感情は混じることは少ない。

でも、業務外の感情がより混じる場面において、
自分の期待がズレた際の痛みはかなりしんどいものがある。

きっとこれだ。


話を冒頭に戻す。

上であげた同期たちは少し信用していると感じている。

もっと信じられるようになりたい。

今回は仕事の話を交えて書いたけど、
人を信じられるようになることは
今の自分が抱えている問題の多くに通じていると感じる。

今の自分の1番の課題かもしれない。

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