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コロナ禍の大学院生活は私を豊かにしてくれたか

2020年4月に私は文系大学院の博士課程前期課程に進学した。

そして2022年の3月に修了を予定している。

もはや非日常だったことたちが日常に溶け込もうとしているが、その2年間はコロナと切り離すことができない2年間であった。

修了を目の前にして、同じ研究科の同期たち何人かに私は聞いた。

「大学院生活はどうだったか」と。

彼ら彼女らは口を揃えて言う。

「コロナ禍で構想として描いていたような満足いく研究生活ではなかった」と。

自分の大学院生活はどうであったか。
進学する前と今とで思いに違いがあったのか。

自分にとって大学院生活、研究生活はどのような生活だったのか書き留めておきたい。


↓客観的に大学院生活を振り返ったもの↓
※今回のnoteは主観的に書いてるよ


進学前の期待

私は大学院生活に対して2つのことを期待していた。

①学部時代の研究内容を深化させること
②国際色豊かな環境に身を置くこと

これら2つは言い換えると学部時代の後悔を晴らすことであった。

具体的に1つ目に関しては、私の担当教授とも話して現地に出向いてインタビューや情報を収集することで研究を進めることを検討していた。

2つ目に関しては、学部時代に留学することがなかったので留学生比率が8割を超える環境下で講義を受講したり交流をして過ごすことを重要視していた。


コロナ禍での文系院生の研究生活

だが、実際はどうであったか。

1年の春学期(4月〜7月)は休講期間が3分の1。

残りの3分の2は研究施設への入構が禁止された状態で講義が行われた。

そして夏季休暇後半の9月から、大学の研究施設への立ち入りが解除された。

相対的に満足な環境で身を置き学生生活を過ごすことができたが、私の期待していたことは実現ができないだろうということはこの頃にはうっすらわかっていた。

例えば、研究のための情報収集に関しては、1年の秋には情報収集を満足にしていないと、2年の春前後の就職活動、そしてその後の修士論文の執筆ができない。すなわち、2年で修了することが難しいことは理解していたからだ。

2年で修了することを最優先事項に設定していた私は、修士論文を執筆するために研究手法を変えることを余儀なくされた。


そして、大学の施設が使えるからといって私の研究科では学生が戻ることはなかった。

おそらく私と同じように、大学という研究施設で過ごすことを重要視している学生が少ないということ。

そしてオンライン講義が開講されていることから、大学に来る必要のない学生は大学に来ることがなかったのだろう。

あと日本国内に入国できている留学生が多くなかったことも、大学に学生が戻らなかった理由だろう。

所属する研究科での交流に限界があるとわかった私は、大学が提供してくれる留学生との交流機会や英語講師との交流を代替方法として用いることにした。

今日までで同じ研究科の留学生と対面で交流する機会は5回ほどだった。


考えていた大学院生活とは違ったけど

確かに振り返ると期待していた2つのことは十分に果たすことができなかった。

その点、大学院生としては満足することができたとは言えないかもしれない。
そして後悔がないとは言えないかもしれない。

かもしれないと表現していることでわかるかもしれないが、私自身は大学院生活自体に後悔はそれほどない。

その主な期待していたこと以外で多くの挑戦や学びが得られたと考えているからだ。


具体的に言えば、学部生の講義運営補助の業務や論文作成の指導、そして学外での学びの2つに分けられる。

「大学院生としてそれはどうなのか」という指摘があるかもしれない。
実際大学院生としての特権を活かしているかはわからないから。

それでも私は、これらの挑戦を通して私はさまざまな教授との関係が構築できたこと、自分が好きだと思えることを再認識することができたことが大きな財産になっていると感じる。

そこから得られたことは、私にとってはコロナ禍でもやもやしていた大学院生活のやるせなさを十分に帳消しにしてくれたと感じる。


コロナ禍における文系大学院生

「コロナ禍の大学生活」に対する大学生の不満を取り上げたニュースはこれまでに見かけたことがあった。

では、大学院生はどうだったのか。

結論から言うと、他の研究室の同期が言っていたように不満を持っている人が多かったのではないか。


そしてその結果として、私自身が特にそうだと思うが、コロナ禍に在籍していた文系大学院生は世間が想像し期待している文系大学院生像と結構離れていると考える。

ちなみにその想像された典型は、これまでの大学院の先輩たちを見ていて構成されたものだ。


コロナ禍後の大学院生は、対面でディスカッションや交流をすることがほとんどなく、語学力も実践的に活かす機会はほとんどなかった。

研究に関しても、フィールドワークや海外に出向いて調査をするということが制限されたことによって、研究の内容が制限された。そして自然と研究のレベルも例年と比べると下がっているのではないかと思っている。


じゃあどの点でコロナ禍の文系大学院生は魅力を持っていて強みを持っているのか。
文系学部生と差別化することができるのか。

上記を根拠としてそれに対して回答することはとても難しいと感じる。

学部生たちが私たち同様に活動に制限をかけられた結果として、相対評価として大学院生の方が人材としての価値が高いのではないかというくらい。

サークル活動や留学ができなかった学部生たちと同様に、コロナ禍における大学院生も同じように不満が多い立場を経験したのではないだろうか。


私から大学院生活と文系大学院進学を考えている人へ

私の大学院生活は、期待していた内容の半分程度が叶わなかった。

そして、予想しない形の活動が大学院生活の主要な活動として占めた。

その結果コロナ禍の大学院生は、私にとってもあるいは世間一般が抱く大学院生像とは離れたものになった。


世間や社会からすると、大学院生に対して持っている期待に応えられていない点で「この2年間、大学院で何していたの?」という厳しい声もあるかもしれない。

「学部で卒業して社会人として働いていた方が、よかったんじゃないの?」と結果論に近いことを指摘されるかもしれない。


だけど、私自身は大学院生活に対して大きな後悔はない。
(小さな後悔として、もう少し研究活動に打ち込みたかったというのはあるが…)

モラトリアム期間と言われることもあるが、大学院生活の中でたくさんの貴重な経験をすることができたと思っているから。

上記で抽象的に話した一例としての、学部生の講義運営補助の業務や論文作成の指導、そして学外での学びという2つの経験は、私の私自身に対する理解を深めてくれたと感じる。

これらの経験がなければ、今内定をいただいている企業からも内定を頂いていなかっただろう。


上記の点だけだと、学部生時代にやっておけとも言える。

だけど、私は学部生時代のときはその時でとても貴重な経験をすることができている。

その経験に基づいて、これから自分がどうしたいのかという点をより考える時間として使うことができた。この考えに関しても、「行動が第一でしょ」と思う方には理解されにくいとは思うが。

自分が挑戦したいと思ったこと、やり残したと思っていたことに挑戦することができるだけではなく、その都度自分が挑戦したいことや学びたいことに挑戦することができる立場を2年間さらに持つことができたことは、とても有意義であったと思う。

それはもうあと何年でも欲しいくらいに。

言い換えるとこんな予想外だらけで、私の周りでは不満も溢れるコロナ禍での大学生活ではあったが、大学院生活は私という個人をとても豊かにしてくれたと自信をもって言える。


そしてこれから進学を迷っている方がいるのであれば、私は次の言葉を贈ります。

「専門とする学問の研究に限らず、大学院に進学して挑戦したいと思っていることがはっきりとあるのであれば、大学院生活は大変になるけど多くの収穫がある。進学する価値はあると。」

それは本人の意思としてだけでなく、第三者からも文系は特に「大学院に進んで何をしたかったのか」と聞かれる傾向にあるからこそそう答える。


コロナ禍ではあるが、大学院という場所は大学院生の挑戦をより支援してくれる場所であると考えています。

本当にこの2年間大変だったけど、進学することを決断した自分とそれを理解し支援してくれた両親をはじめとする周りの人への感謝を込めて。

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