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その場だけの関係が続くことを願うのは私だけですか

家族・友人・知人など元から知っている人ではない人と話すとき、
欲が出てしまうのは私だけでしょうか。

なぜ私以外の人は「ではない人」と話すとき、
あんなにもその場だけの関係を当たり前に受け止め、
顔色一つ変えずに話すことができるのでしょうか。

この人は普段どんなことをしているのだろう。
業務的なことではなくて日常的な会話もしてみたいな。
また会ったり話したりすることはできるのだろうか。

自分と違う環境で過ごしている「ではない人」たちと
もっと話してみたいと思うことは周りからすると異端なのだろうか。

身の回りにあふれる「ではない人」

一学生として、「ではない人」に該当すると考えるのは…

・アルバイト先で話すお客様、先輩として対応する学生
・顧客として何かサービスを購入・利用したときの自身の担当者
(担当医や看護師、理容師・美容師、大学の職員など)
・巡り合わせで一定の時間を過ごした人
(就職活動で話した学生、就職活動での面接官)
・スーパーの店員さん(もはや話していると言えるかは不明)

自分の周りには「ではない」と話す時間の方が
家族・友人・知人と話す時間よりずっと多いからこそ
もっと話してみたいと思うのでしょうか。

無責任な言葉

なぜ今後もう二度と会えない方が
なぜ会えたとしても言葉を交わすことができる方が
ずっと確率としては低いはずなのに

無責任に「また会おう」とか言えるのでしょうか。

就職活動では、同じ選考を受けた学生からその言葉を聞いてまた会って話せることを夢見ることが何度もありました。

よく担当してくださったリクルーターの方との関係が不採用を機にその関係が途絶えることに対して、悲しく思うことが何度もありました。「また次の選考前に会おうね」という言葉を残して。

一つ一つの言葉を全て受け止めることは、
自分を疲れさせるだけであると、どこか理解しているつもりでいる自分がいるのと同時に、
言葉は人を喜ばせるものであったり傷つけ得るものでもある、もっと重いものではなかったかと思う自分がいます。

「ではない人」は自分の世界を広げてくれる人

他の人と自分の違いについて気になり、
自分がどこか人に期待している側面をお話ししました。

自分が他の人に対する興味が強いからとか
人に対する依存的な側面が強いのではないかとか
実はそこで声を能動的にかけられるかどうかが大切だとか
あなたがそう思っているだけで言葉ってもっと軽いものだとか

たくさん皆さんにも考えや経験があると思います。

少なくとも考えとは別に、
それまでつながりがなかった「ではない人」は
自分に持っていないものを持っている人だと私は思っている。

社会人として既に働いている人や
自分とは異なる教育を受けてきた学生、
自分がしたことのないアルバイトをしている人など

自分が出会った人でその人の経験や価値観を
全て自分が持っているとは思っていない。

「ではない人」は自分の世界を広げてくれる人と考える。

私と同じように考える人がいるのかなという少しの期待と、これまで関係のなかった人たちと話すことができる機会のハードルがもっと下がることを望んでいる人の話でした。

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