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「自分への視線」から解放されたい

最近私は他の人の視線が気になっている
自分が他人からどう見えているのかが気になる
人から見た自分というものをとても気にしている

そんな私は「他人からの視線」から解放されたいと願っている

他人からの視線に左右されている感覚が辛く
結果として1番に疲れるからだ

他人から見られている感覚は大事?

同じような悩みを持っている人はいないかと適当に検索をかけた

その時に驚いたのは
 「他人から見られている意識を持つということが大切である」
と考えている人の意見が多く私の検索画面では見られたからだ

確かに自分自身の原動力になる点などから
それらの意見に対して ある程度の納得をしたし
忘れかけていたプラスの側面だなと思った

しかし 疲弊するほどの意識はいらないのではないか
人のために何か取り組むことは否定しないが
自分の意思はどこにあるんだ とその時に思った

視線が私を疲弊させるまで

私は大学の学生である一方である界隈では有名人みたいなものだ
その状況はここ1年で形成された

その界隈の約2分の1である500人ほどが私を知っている

一方で私は彼女ら全員を知らない
なんならほとんどを知らない

一方的に私を知っている人がいる状況ができている

つい1年前までは私のことを知らない人がほとんどだった
呑気に構内を散歩できたしイベントなどにも参加していた

だがそんな状況ではなくなった
いつどこで「私」を認識した上で見られてもおかしくない状況になった

この常に一方的に認知されていると思い込んでしまう状況が私を大きく疲弊させた

自分の願いと他者の期待

他人からの視線とこれまで書いてきたがふと1つ気がついた

「他人からの視線」ではなく 
「自分への視線」というのが正しいのではないか


自分もまた自分に対して視線を向けていると感じたからだ
だから「自分への視線」は2つから構成されると考えている

1つは「自分はこうありたい あるべきだ」という自分の起点のもの
他者から見て 私自身がこう見えたいと思うもの

もう1つは「この方がいいよ 期待しているよ」という他者起点のもの
他者が思い描き 想像する自分である

願う姿に近づくため 維持するために努め
期待される姿から離れないように努める

反する2つあるいは別個として存在する視線に私はとらわれている

「自分への視線」から解放されることを望むのは間違いか

これまでは外に原因や一種の責任を見出してきた

しかし 他人から向けられるの自分への期待を実現することは
自分が必要とされている感覚を満たし
場合によっては自身が願う姿と重なるかもしれない

「自分への視線」から解放された時
それは 自分を見失うことにつながり
解放された喜び以上に 辛く失うものが多いのではないかと思う

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