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AZism人特別編『手塚章文はどのようにアルバイトから取締役になったのか?』Vol.1

AZism人特別編として今回、取締役として活躍されている手塚専務にお話を伺いました。若手時代のエピソードたっぷりでお届けします!


――今回はAZism人、特別編ということで手塚専務にインタビューをさせていただきます。よろしくお願いします。

よろしくお願いします。


――手塚専務は役員になったのはいつでしょう?

2018年なので、AZismに入社して10年目ぐらいですね。

――たしか新卒入社でしたよね?

新卒入社なんですけど社員スタートではないんですよね。新卒で入る前にアルバイトで入ってます。

――入社前の話をお聞きします。幼少期、子供時代はどのような性格だったでしょう?

勉強とか運動は、イメージで言うと中の上か上の下で両方そんな苦手な意識はなかったって感じでした。

――そつなくこなせた理由は?

怒られたくなかった(笑)。親もそうだし先生もそうだし、なんか相手がイヤな感じになるのがすごいイヤで。だからそつなくこなそうとしてました。末っ子っぽい感じの。

――末っ子なんですね

姉が1人います。姉は僕とは真逆でけっこうアクティブな人で。僕はもう部屋の中でゲームやってたり、マンガ読んでたりが昔から好きでした。

姉は中学生ぐらいのころ、冬休みを使って広島のほうまで旅行に行って、冬休み終わっても帰ってこなかったっていうエピソードがあります。

今でもしょっちゅう旅行に行ってます。この間イタリアから写真を送られてきてて、見たらマンガのジョジョの5部を持って写ってて。聖地巡礼してました。

――アグレッシブですね(笑)

逆に自分は全然インドアでした。

ただまぁ栃木の超山奥の出身なので、山の中で遊んでたりもしましたね。山登って普通にクワガタやカブトムシ捕ったり。東京の人たちからするとアクティブだったかもしれない…。


――中学校は地元の中学へ?

地元の中学に進学しました。基本はあんまり小学生のころと変わらなかったと思うんですが何事も継続するのは苦手だったかもしれないですね。部活とか一年目二年目ぐらいまでやるけど、すぐ辞めちゃうみたいな。

――辞めちゃう理由は何だったんでしょう

もうめんどくさいからですね。全然ポジティブな理由はなくて行くのが面倒くさい、早く帰ってゲームやりたい、とか。

――他に中学時代のエピソードを教えてください

中学になってくると勉強がめっちゃ得意になりましたね。

塾に行き始めたんですよ。母親のお友達が塾を開いてて、子供の頃から仲いいお母さんだったんですけど、めっちゃ怖いんですよ(笑)

その人、普通に子供の目から見てもめっちゃキレてる…!みたいな。そんな人が塾の先生やってて、もう一回も怒られたくないと思ってめっちゃ勉強しましたね。


――怒られたくないから、というのが小学校でも中学校でも続いて勉強した結果、できるようになったと。

そうです。課題とかさぼれないし、縁故だからやめられないし。できないと怒られるので(笑)

――学力が上がった結果、高校はどんな高校を受験したんでしょう?

受験は普通にして、大田原高校っていう進学校に入りましたね。地元の公立の進学校みたいな感じですかね。けっこう離れてて家からだと山2つ、40kmぐらい離れてました。

――その頃、将来やりたいことはあったんですか?

昔は運動神経良くて幼稚園から小学生低学年の頃は「オリンピックに出れる!」とか言われたんですよ。だからオリンピック選手になりたいって思ってました。オリンピックが何かもわかってなかったですが(笑)

それが小学校の高学年になってくると、消費者金融業になりたいっていう夢に変わってました(笑)

――小学生でその夢はなかなか変わってますね(笑)。理由は何だったのでしょう?

小学4年生ぐらいのとき、学校の先生に「どんな仕事が儲かるんですか?」って聞いたんですよね。当時不景気だったんで。それで「消費者金融業がけっこう儲かる」みたいな話を先生から聞いて、それでなりたいって思ってました。

――小学校卒業するまでそうだったんですか?

それが小学校6年生からは仙人になりたいって言ってますね。なんか人里離れたところで静かに過ごしたい、みたいな…(笑)。今でもこれ(仙人になりたい)に関してはそんなに途絶えた夢ではないんですよね。

――健康とかお金の心配がなくなったら、もう山奥に行って自給自足、みたいな?

一段落したらそうですね、もう本当にお地蔵さんみたいな生活したいですね。Wi-fiだけ繋がっててくれれば(笑)

――Youtubeは見ると(笑)

見ますね(笑)

――高校のときはどんな将来のビジョンがありましたか?

特に、これといって無かったです。

進学校だったので先生が「君たちはどこに行くにしても将来役職は高くなるから、こういうことできないとダメだぞ」みたいな授業があったんですよ。だからどこか会社は普通のところ勤めるのかな~っていうような感じでしたね。

――高校を卒業してからは大学へ進学したんですよね。

高校ではまったく勉強しなかったんですよね。(塾の先生の)怖さがなくなったので。だからかなり成績はビリの方でした。周りはすごい人だらけで自分は何もできないヤツと思ってました。で、受験勉強とか特にせず自分の偏差値に合わせて進学しました。

――大学ではどんなキャンパスライフだったんでしょうか?

まったく学校へ行かずに家でニコニコ動画ばっかり見てましたね。ゲームもずっとやってて、大学は極力行かず、行かずに単位取れる授業を探してました。

だからギリギリで単位が合格のラインを取るようにしてました。評価がAからDまであって、Cがギリギリ合格、Dが単位取れない、って感じだったのでAとか取っちゃうとちょっと後悔しましたね。コストをかけてしまったなって(笑)。

――Cを取れば、Aを狙うより時間が浮くから、って感じでしょうか?

でもまぁ、Dもちょいちょい取ったりしたんで、やっぱり最後までギリギリでヤバかったですけど。

――特に勉強に打ち込みのではなく、大学卒業できればいいと。

そうです。大学に行っても特にやりたいこととかなかったんで。

――やりたいことがなかったとのことですが、就活時期になっても同じような状態でしたか?

その頃まで、何か物事を深く考えたりすることはなかったんですけど、その時期にめっちゃラジオ聞いてたんですよ。それに影響受けて何事も考えた方がいいことにちょっと気づきました。

――聴いていた番組は?

『松本人志の放送室』を聴きましたね。最高に面白おかったし勉強になったし、今でも聞きます。

まっちゃんってツッコミ上手なんですよ。一般人が普通にやってる変なことに対するツッコミなんです。だからそういう風に物事を見るってかっこいいなって思うようになりました。


――松本人志の一般的な常識に対しての切り口、見方みたいなところがインストールされた?

インストールは無理ですよ(笑)

ちょっと人と違う見方っていう感じとか、いろんな角度で見たりとか面白いものととして取り扱うって大事だな、みたいな。そうするとむかつくことがあっても、後で話せるなこれって思いますし。


――そこで手塚専務のメンタリティ的なモノが培われた?

「考える」と「伝える」という努力はするようになりました。

――そんな変化を経て就活の話に戻します。就活は上手くいきましたか?

けっこう受かったんですよ。四社受けて四社受かって。

――それらの会社は、積極的に選んだ会社だったんですか?

それはもう惰性で選んだ感じです。面接までなんやかんやで相手に押し切られていったりとかして、だから内定者懇親会は全部バックれて(笑)

――せっかく受かったのになぜ?

面倒くさいからです。マジで働くの嫌でしたね(笑)。社会人にならなきゃいけないのかと。

――内定を全部蹴って、その後はどうしたんでしょう?

どうしようっていうそのタイミングで、とあるメルマガに登録してまして、それが家の近くのゲーム屋さんなんですけど、ちょうど社員募集のメルマガ流れてきたんです。

で、無職だしゲーム屋か~いいな~みたいな感じで面接に行ったのがPAOですね。


――そこで社員募集に応募して、面接を受けて合格した?

そうですね。当時あった羽村店の2階で。その面接で「社員募集だけど新卒なので4月までバイトさせてほしい」って言ったんですよ。

で、ぶっちゃけ嫌だったら4月までに辞めたらいいやくらいに思ってました(笑)。それで近所のPAO堀之内店でアルバイトを始める感じになりました。

――アルバイト自体は実際働いてみてどう感じましたか?

マジで働くの嫌で(笑)。迷惑ばっかりかけてましたね。やる気も全然なかったと思います。当時、壇さんに言われましたもん。「普通のアルバイト面接で来てたら落としたかもしれない」って。

まぁでも、でへーって感じで悪びれずに過ごしてました。とはいってもすごい良くしてもらってたんで。壇さんには本当によく育ててもらったなと思いますよ。

▲ゲーム社員時代の手塚専務と壇店長。若い!(2009年)


――自分が当時店長だったとして、当時の手塚専務がアルバイトにいたとしたらどうします?

とてもじゃないけど壇さんほど丁寧に触れ合えなかったと思います(笑)。

たしか3か月くらい遅れて外海くん(現経理部)がアルバイトで入ってくるんですけどとんでもなく優秀でしたよ。こんな子が社員になったらいいのにって全員思ってたんじゃないですかね(笑)


――外海くんともアルバイトで一緒に働いてたんですね

そうです。頭いいし、動けるし、尽くせるしですごかったです。当時の外海君も僕のこと「大丈夫かなこの人」って思ってたらしいですよ(笑)


――なかなか…アレですね(笑)

ほんと壇さんとか周りの人が良い人ばっかりで、ちょっとずつ仕事を好きになっていったんですよ。労働とは素敵なものなのかもしれない、みたいな。壇さんすごかったですよ。会話してくれる量もすごかったし。すごくこうなりたいと思える店長像です。

――そんな風に凍てついた心が壇店長によって溶けてきた結果、社員になった形でしょうか。

そうですね。大学卒業と同時にアルバイトから研修社員になりました。

――研修社員になったときも、堀之内店に勤務を?

いや、PAO八王子店のオープニング(開店)ですね。

――オープンは大変だったのでは?

大変でした。その時の店長(今は退職済み)がマジでまったく働いてなかったですからね。だから最初に会社やめようと思ったらそのタイミングだと思います。壇さんしか社員をしらない状態で、結局壇さんが魅力的なだけか、と思ってました。

▲当時存在したPAO八王子店。ゲーム専門店でしたがコロナ禍の影響で閉店となりました。


――なるほど、そんな状況の中、動かなきゃいけないという

そうです。当時の店長が本当にびっくりするぐらい仕事しなかったのもあって大変でしたけど、店長嫌われすぎてアルバイトさんたちが「手塚さんが辞めたら自分たちも辞める」っ言ってました。だからアルバイトさんたちのおかげで、会社辞めないでちょっと続けようかなとも思いました。

――オープン後はどんな感じだったのでしょう?

オープンを経てまた別の店舗に異動になりました。同期の社員と一緒にダブル店長をやってた記憶があります。

で、その同期はやる気があって仕事をしてたのでやっぱり当時の八王子の店長がヤバイだけだったんだなって客観的にわかりました。だから八王子時代と比べると変わりましたね。楽しい日々です。同期やる気あるし真面目にやってたし。

――その頃、店長業務はだんだん見えてきたと思うのですがいかがでしたか?

その時、店舗周りっていうのがあって、店長が各店を回って良いところ悪いところを指摘するんですが、当時Mさんって人が自分の店舗に来たんです。その人は僕と初対面だったんですが、けっこう怒られたんですよね。お店をちゃんと丁寧に取り扱ってないっていう。「一生懸命やってるのかもしれないけど、そういうクオリティにはとても見えないよ」っていう話をされて。

壇さんや当時の同期に継ぐ3人目のいい社員が現れたんで、実はいい会社なんだろうってすごい思ったんですよ。やっぱり初めて会って、そこまで言えるってちょっと勇気いることだと思うんですよね。本当に仕事を頑張ろうっていうギア、今までも外れてない大事なギアをはめてくれたのはそのタイミングだと思います。

――店長だから仕事しなきゃいけない、という状態から、その時大事なギアをはめてもらったことでモチベーションが変わっていったんですね。

そうですね。ものすごい良いきっかけをもらったと思ってます。

そこでやる気が上がって動きに差が出たからなのか、僕は羽村店に異動になったんです。そこで当時の部長に質問しまくってたんですよね。これどうしたらいいですか?って。その人は雰囲気がちょっと怖かったんですけど、僕はあんまり気にならなくて。毎日話し掛けに行って、本当に色々教えてもらってたんですよ。だから知識も実力もついてきたと思いますし、経験値がすごい溜まってきて。それで信用を得た結果、小作店に異動になりました。

――小作店といえば、伝説のエピソードがありますよね。

あれですよね。初日にアルバイトさん全員に退職してもらった。っていう…

――経緯はどのような感じだったのでしょう?

当時の小作店店長が退職することになったんですが、事前情報でけっこう良くない、内部的にちょっとずるいことしたりとかっていうのは聞いてたんですよ。

それで一人一人面談しようってなって。それでそういう話を深めに話したら、ちょっとこの子と上手くいかないなと感じました。ただ、揉めて辞めた人はいないですし、何なら感謝して辞めていった人ばっかりでした。泣きながらそこまで言ってくれてありがとうございます。みたいな握手してのお別れなんで、強引ではないですね。お互い納得した上でしたから。


――その事を振り返ってみてどうでしょう?

えーと、今思うともっとうまくできたなと思います。ただ副作用が良かったです。

――副作用とは?

尾ひれ背ひれ付いてどの店舗に異動しても「手塚店長はアルバイト全員辞めさせたらしいよ」ってうわさが先に流れていて、みんな緊張してスタートから頑張ってくれました。だからちょっと話すだけ「優しいですね」って言われまくりです。ヤンキー理論みたいな感じでした(笑)

――他の店長が経験しないような事を色々していたんですね。

業界的に前年比90%が続くようなつらい時期だったんですけど、そこそこ売上たてられていましたね。

当時、小作店店長だったときの話ですけど。木曜日ってゲームの発売日だから来る理由があるんですよ。土日も仕事が休みだからとか来る理由があるんです。でも火曜日ってなんの日でもないんですよね。

――火曜日って当時は在庫移動の日でしたっけ?(※在庫移動=売り切れた商品が他店から送られてるくる日)

そうなんです。商品移動って従業員からすれば業務が増える日なんですけど、お客さん目線で言うと在庫が補充される日なんですよ。だからそれが伝わる展示とかしてました。「火曜日は商品一番多い日」みたいな。実際にお客さんに認知されてくると、その日の夜とか見に来てくれたりするんですよね。

商品でも展示でも従業員でもなく、曜日に価値を持たせて来店動機にするってなかなか良くないですか(笑)

▲当時のPAO立川店の店内。


――考えると当たり前のことですが、当時できてる店長はなかなかいなかったのでは?

個人的には良い発見だと思ってました。もちろん大前提として展示や提案コーナーは重要でした。なので他の店長は展示で良いモノ作ろう、いい提案コーナーを作ろうってやっていましたけど、自分としてはそれもするけどそれ以外の売り方もあるよなっていう感じでしたね。

――ここまでお話いただきましたが、小作店で店長をやっていたときって入社何年目だったんでしょう?

実はさっきまで話したやつってかなり密度高くて、入社して1年ぐらいまでの話なんですよ(笑)

だいぶ密度の濃い1年でしたね。僕PAO出身っぽい雰囲気出してますけど、実はPAOで働いてたのって2年しかないんです。小作のあと、立川店に半年行って、そのあとマンガ喫茶だったし。

▲お客さんと写真を撮ったときの手塚専務(2009年)。ゲーム店長として活躍していました。


――他に、これ考えて実践したというエピソードを教えてください

PAOでPOPを書くときに使ってるポスカっていうカラーマーカーのペンがあるんですけど、書く前にインクを出すために振るじゃないですか。これみんな左右に振るんですけど、それって中のインクが右と左の端にぶつかってインクが出てくるんですよね。だけど実際は片側だけからしかインクが出ない訳ですよ。

そこで考えたのが野球のピッチングみたいに、片面だけに圧力をバッってかけたらインク出るんじゃねって思ってやったら、それ1回でインクが出るようになったんですよ。でみんな十回二十回左右に振ってるなか僕だけはもう一発でインクが出せるっていう技が手に入りましたね。時短じゃんって。新品のポスカでも2振りで終わります。

やっぱりやりたいことをやるためには様々な時短の工夫が必要になりますから。セロハンテープの貼り方も角度の違いで劣化が全然変わるんですよ。

――お店で文房具とPOPを書く場所の距離を測って、1年で名古屋まで行ける分を短縮したって話も聞いたことがあります。

確かに名古屋まで行けるっていうそんな話はしたことがありますね。

例えば大きな工場で機材を一センチとかずらすと、そこで働く人たち一日の移動距離が3万歩減るとかあるんですよ。

だからお店でよく行き来するところの距離を短縮するといいってことはわかってはいたんですけど、それってどのぐらい得するかを出してみたら、より面白かったなって感じです。1日8時間の立ち仕事だと、歩く数がだいたい1万歩とかなんですよ。だからさっきの3万歩削れるとかっていうのは相対的には偉大なんですよね。

展示物とかもみんな一時間で作ってとかやってましたけど僕、申し訳ないけどやってないですもん。一時間で作りましょうねとか三十分で作りましょうねって目標を掲げてみんなやってましたけど、僕はそういう形じゃなくてお客さんの来店頻度を計算して、結局2週間に1回コーナーが変化してたらもう一緒じゃんって思ってたんですよ。当時は一時間で作りなさいとか2個作りなさい3個作りなさいって言われてたけど、計算合わないんですよ。1週間で何個作るの?って感じで。

だから最大公約数としてコーナーが2週間に1回変わってればいいからいいよね、だから6時間かけてガッツリ壊れなくて良いやつ作ってっていう方がけっこう効率が良かったりして。結果、他店舗より圧倒的に仕事量を圧縮できたと思います。効果的にも、一応年末年始以外で当時の売上新記録は出させてましたね。

――大学時代に松本人志のラジオを聴いていたことが、人とは違った視点、切り口で行動できることにつながっているわけですね。

ほんとずっと何も考えずに生きてたので、考える大切さは影響出てると思います。

――そういった経験や実績を積んできた中、とある出来事があったそうですね

東日本大震災が起こったんですよ。揺れがやばくて、収まったときにテレビ見てみたらやべぇってなって。外も電気ついてなくて信号も消えてて。

僕は当時青梅に住んでいて、PAO立川店に電車が動いてないけど行く行かないとかってどうなんだろうってすごい思ったんですよ。一応お店には電話繋がって大丈夫?って聞いたら被害なかったんですよ。良かったってなったんですけど、世の中のニュースとか見てて帰れない人とかがいっぱいいるところも見て。それで「出勤するってどういうことだろう?」って思うようになったんですね。

ちょうどどその時期にとあるドラマをレンタルしてて。草彅剛さんが主演の『僕の生きる道』ってドラマの中で『明日、世界が滅亡しようとも、今日私はリンゴの木を植える』っていう言葉があったんですよ(※出典はドイツの神学者、マルティン・ルターの言葉)。それにすげー引っ張られて、明日もう一回地震が来るとしても僕お店開けますよ、って当時の上司にメッセージを送って、自転車で立川行ったんです。そのメッセージに上司がえらい感動してくれたんですよね。

その影響で、なぜ店を開けるのか?って考えるようになりました。単純に物を売るためでもないと思ったし。そこから『明日地球が滅亡するとしても行きたいお店』というテーマが自分の中にできたんですね。僕にとって震災は店を開けるとか、そもそも仕事することって何なのか?を考えるきっかけでした。

どうせ百年後死んでるとしたら、働く意味ないじゃんってなっちゃうじゃないですか。だからちゃんと出勤したいと僕が思える職場にしようって思って。その経験は今でも心に残ってます。

ここまでが入社して2年間の出来事です。

――濃すぎる2年ですね…

この後、マンガ喫茶に異動になるんですよね。僕の7年間の店長人生で最長の5年間を過ごした時代です。その5年はめっちゃエピソードありますね。

▲エンタメ事業部しかなかった時代AZism社員陣(手塚専務は下段左から3人目)。辞めた方もいますがAZismに戻ってきてくれている方含め現役で活躍されている方多数!


――より濃い話が伺えそうで楽しみです!

AZism人特別編、次回はマンガ喫茶の店長時代、そして本部長へと出世していった過程のお話をしていただく予定です!
(インタビュアー 企画戦略室 板垣)

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