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下北沢の部屋で始めた日本二周目は、これから進む道に勇気をくれた話。

俺は、2年間住んだ下北沢の1人暮らしの家から撤退し、実家に帰るために引越しの準備をしていた。
サラリーマンを辞めて、文章を書く仕事を始めるのだ。
とは言うものの、具体的に何をすれば良いのか右も左もまったく分からない。
威勢よくサラリーマンを辞めたものの、1円にもならない文章をただあてもなく、書いたり書かなかったり、完成した文章を媒体に投稿したりしなかったりしていた。

Googleの検索窓で「ライター なり方」と検索しても、どうやら俺が思っている「ライター」は一般的なそれとは違うらしい。
検索結果には「アフィリエイト」という言葉が現れ、それでどう稼ぐかというレポートが列挙されている。
俺は今後の行く末に一抹の不安を感じながらウィンドウの閉じるボタンを押した。

引越しの作業は七割方済んでいたが、押入れの片付けにはまだ手を付けられずにいた。
俺は、その中に2年間で溜めに溜めた仕事の書類、取引先からもらった粗品、使わなくなったライターなど、ゴミ箱に捨てるまでではない中途半端な’’もの’’が所狭しに詰められていることを知っていた。
そんなゴミ箱行き予備軍の処理もそろそろ進めなければならない。

俺はまず、何百枚もある書類を、手で限りなく小さく破りながらゴミ袋に詰め込んでいた。

ひととおり書類の山を整理していくと1つの段ボール箱が顔を出した。
その段ボールには「サカイ引越しセンター」と書かれている。

実家から、一人暮らしを始めるときに利用した引越し業者だ。
下北沢は、一人暮らしを始めてから3軒目の家になるが、この段ボール箱は引越しの度に開封されることはなく、今日この日まで放置されている。

この段ボール箱の中に何が入っているのか、まったく検討がつかなかった。
1つ手がかりがあるとすれば「大事なモノ」と段ボール箱の上面にメモ書きがされていることであるが、5年間何も触れられなかったことから考えるに、無くても生活に支障をきたす程のものではないことは分かった。

段ボール箱の上面に貼られたガムテープにカッターで切り込みを入れ、開封した。

マスクをしていたが、乾いたコーヒー豆と、木の屑を混ぜ合わせたような古い匂いが鼻の穴に入ってきた。
すぐに目に入ったのは、中学校・高校の卒業アルバムだった。一瞬手に取ったが、俺は特に華々しい学生時代を送ったわけでもなく、
むしろ、思い出すと恥ずかしく、悲しく、少し胸が締め付けられる思い出ばかりで、そんな思いはしたくないので、アルバムはそっと元の位置に戻した。

大きな紙袋があった。
中には、書類を一枚ずつ薄いクリアホルダーに入れられる、大きな青色のファイルがあった。ファイルの硬い表紙をめくると、ついこの間まで務めていた会社の入社書類や誓約書の類の資料がざっと20枚ほど、
あとは上京して初めて契約したアパートの契約書、そして家電製品の保証書などが雑多に入れられていた。
「大事なモノ」といってもたかだかこんなものかと思いながら、
俺の右手はファイルをくまなく確認すべく後ろのページに向け動いていた。

バインダーの最後のページに、ところどころ破れている、見覚えのある紙切れが入っていた。
俺は、何年もの間、脳の記憶の海に沈んでいた、とある思い出が一番上に浮き上がってくるのを強く感じた。

破けた紙は「日本地図」だった。
日本地図は、日本全土の周囲がマッキーペンでなぞられ、ところどころに日付けが書かれていた。


◇ ◇ ◇


俺は、大学生2年生のときに車で日本一周の旅に出た。

東京の三流大学に通っていた俺は、特にやる気も目標もなく、かと言って思い切って堕落した生活を送るでもなく、
いたって刺激の無い、「中の下」の大学生活を送っていた。

そんな生活を送っていた大学2年生の5月頃、にわかに周りの同級生の動向が騒がしくなってきた。
カナダ留学に行くために半年間休学する者、就職活動を見据えて企業へインターンに行く者、顔と名前が一致していない同級生たちの、耳を塞ぎたくなる噂が聞こえ始めていた。

その噂は、何も出来ない「中の下」の俺には、朝方のカーテンの隙間から差し込む朝日の様ににうざったいもので、俺は、まだ温かい布団の中で寝ていたかった。

しかし、二度寝はそう長く続かなかった。

ある日、授業前に学内の喫煙所に行くと、大学に3人しか友達がいなかったが、その内の1人、佐々木がいた。
佐々木は俺の顔を見ると、いつもの調子で気だるそうに片手を挙げた。

「よう、次の授業は何だ?」

俺は別に佐々木の次の授業など微塵の興味も無いが、こうでもしないと特に話すこともないので、不本意ながら言葉を発した。

「ドイツ語。めんどくせーわ。もうどうせテストも取れねえし、出なくていいかな。」

俺は、この男の怠惰を隠さないところが好きだった。

正確に言うと、怠惰を隠さないことが、佐々木にとって生まれつき自然であって、佐々木のそれは、怠惰を隠さず言うことが「俺ってばサボっちゃってカッコいい」という大学生だけがかかる流行り風邪の症状とは一線を画しているところが好きだった。

こいつは根っからのやる気の無さを隠そうとしない。
俺はそれを知っていて、「こいつよりかは上だ」と勝手に大した価値のない自尊心を保っていた。

「俺も、出席日数足りない気がする。ていうか、ドイツ語を選択した自分を殺したいよ。」

「まあ、そんなもんだよな。」

佐々木がラッキーストライクの煙を少し寂し気な顔でくゆらせた。

「そう言えばさ、俺、大学辞めるわ。」

「は?」

俺の心臓は冷たい氷でなぞられたようにキュッとしぼんだ。

「本気か?」

「大学辞めて、バーテンダー目指すわ。今のバイト先の社長もフォローしてくれるって言ってるし。こんなつまらない大学生活ずっと続けてても意味ないだろ?別にお前に口を出す義理もないけど、まあ、お前も適当に頑張れよ。」

ちょっと待ってくれ。こんなはずじゃない。
お前まで、自分の道を切り開いていくのかよ。
誰も俺の周りにやる気の無い人間がいなくなっちまうだろ。

その日以来、佐々木を大学で見かけることは無かった。
噂によるとバイト先の代々木のバーで本格的にバーテンダーとして就職し、毎日朝方まで働いているらしい。
一方俺はというと、佐々木という自尊心の拠り所をなくし、二度寝から完全に起きなければならない時間を迎えているのを分かり始めていた。

周りを見ると、まだ寝ているのは俺だけで、早く何か活動をしないと一生置いていかれるような不安に駆られていた。
俺がやりたいことは何なのか。考えれば考えるほどに自分が何もスキルを持っていない人間だと思った。スキルを持っていないならまだしも、やりたいことすらない、陳腐な人間であるということに嫌気が指していた。

唯一決まっていることがあるとすれば、夏休みを迎えると山形に車の運転免許を得るために、教習合宿に行くことくらいだった。

6月のとある金曜日、俺は、数少ない地元の友達、一年遅れで大学に入学したAをいつもの公園へ呼び出した。
Aは口数は極端に少ないが、友達が非常に多い男だった。
Aを前にすると、母親に学校で起きたことを聞いて欲しくて喋りまくる小学生の様になってしまう。

バイト終わりで疲れているのか、Aはゆっくりと俺が座っているベンチまで歩いてきた。Aのバイト先の、うだつの上がらない5個上のフリーターの話をひととおり聞き終えたあと、俺は口火を切った。

「おい、日本一周旅行やらねえか?」
「どうした、また急に。」

それから俺は夢中になって、これまでの大学生活のこと、周りが何か積極的に自分の道を進もうとしていること、佐々木が辞めたこと、
そして俺はやりたいことが無いこと、でも何かやらなければならないことを説明した。

Aは、ペットボトルのお茶を飲んで言った。

「なるほどな・・・。まあ、行くか。そしたら。」

「そう言うと思ったよ。」

「特に俺は、やりたくもねーけどな日本一周。まあ、大学生じゃないと出来ないかもな。」

話が決まるとすぐに、出発日は俺が教習合宿から帰ってきた翌日。
持っていくお金はバイト代で稼いだ、貯金10万円と、親から借りた10万円、合わせて20万円が2人分で40万。
車はAの母親が乗っていた古い軽バンを借りる、ということを決めた。

俺は久しぶりに熱く喋ったせいか、灰皿として使っていた飲みかけの缶コーヒーを飲んでしまった。
中には吸い殻が3・4本入っていて、飲んだ液体が「タバコの吸い殻が染みたコーヒー」と分かった瞬間、胃から水分が逆流してきて吐き出した。
それでも、まだ胃の中が気持ち悪く、俺は中指と人差し指を喉仏まで突っ込んだ。
黒い水がベンチの後ろの草むらに飛び散った。

大学生活で身につけた唯一のスキルは、嫌々出席していた、バイト先の激しい飲み会を最後まで乗り切るために、自ら指を喉に入れ、嘔吐するというスキルだった。

俺にも1つスキルがあった。


◇ ◇ ◇


友人Aとの日本一周旅行は、埼玉の実家を出発し、海岸線をおよそ一カ月かけて帰って来るというものだった。
それ以外に決めていたことは、世界遺産を見たり、有名な観光地、建造物を時間が許す限り巡るというシンプルなものだった。
旅が始まる前は、この旅が終わったら、すごいことを成し遂げたのだから、今までの生活とは何もかも一変すると本気で思っていた。

蓋を開けてみれば、日本一周旅行は朝起きてから暗くなるまで海岸線を走る。暗くなったら、その日車中泊をする道の駅を確保した上で、その土地の「パチンコ屋」に行くという日々の繰り返しだった。

やっていることは、日本一周の言葉を借りた、ギャンブル旅行で、東京で大学に通っているときと大きな違いは無かった。

出発してから27日後、夏の太陽にこんがりと焼かれた、パチンコ中毒になった俺が出来上がった。
唯一の救いは、日本中の城に詳しくなったことくらいだった。


◇ ◇ ◇


ダンボールにはもう一つ紙袋があった。
中には、色紙が2枚あった。

俺は、日本一周するときにAに宣言した。

「旅で会った人に、その人が大事にしていること、名言を貰おう。それを色紙に書いてもらうんだ。日本中の名言を集めるんだよ。面白いと思わないか?そしてそれを、物語にするんだ。」
 
「そんな面倒臭いこと続くか?お前が勝手にやってくれよ。」

結果として、Aの予想は的中し、27日間の旅行で集まった色紙はたったの4枚だった。その内の俺が持って帰ってきた2枚が、今ここにある2枚のようだ。

■色紙1
「ヒトニメイワクカケズ ワガ道を行く」

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「26年8月31日 ヨシダ76才。」
旅に出たのは2013年なので、正しくは25年(平成)と思われる。
ヨシダさんとは、北海道の知床エリアに行く前夜、付近の道の駅で出会った。ご健在であれば御年、83才、84才であろうか。
叶うのであれば、今一度お会いし、そしてお話をさせて貰いたい。
「人に迷惑をかけず、我が道を行く」
当時はピンとこなかったが、27才の今、実感を持って刺さる言葉だ。

■色紙2
「東海の小島の磯の白砂に我れ泣きぬれてカニとたわむる 石川啄木」

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こちらの色紙は当然、石川啄木に貰った訳ではない。
あなたが大事にしていること、名言を教えて下さいとお願いしたところ、
石川啄木の作品を書いてくださった方がいた。
調べてみると、詩集、「一握の砂」の冒頭に置かれている作品とのこと。
また、詩の解釈をいくらか調べたが、現在の自分自身を投影出来る部分があり、非常に感慨深い。
こちらの詩を頂いた場所は失念してしまった。今度友人Aに聞いてみることにしよう。


そうか。俺はこのときから、名言を集めたり、物語を書きたかったんだ。
随分遠回りしたが、いつかはこれをやる運命だったのかもしれない。

普段運命など信じないが、サラリーマンを辞めた今、
偶然大学生のときの旅の破片を見つけたことが、
これから進む道が必然だった、運命だったと思ってしまうほどには不安な気持ちでいる。俺にやれるか。

地図を見ながら、日本一周旅行で巡った地のことを思い出す。
7年前のことだが、鮮明に各地の景色を思い返せることに驚く。

岩手のひまわり畑で蜂が車に入ってきて大慌てしたこと、
高知の佐田沈下橋の駐車場で布団を干したこと。

人指し指で日本地図をなぞり、俺は反時計回りに日本二周目をする。
時間にして約20分の旅。
下北沢のアパートでの日本二周目は俺に少しの勇気をくれる旅だった。

日本地図1



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