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坂道を転がり落ちるようだ

 ケイト・ザンブレノのヒロインズを読んでる。Lady GaGaのThe monsterを聞きながら。Dance in the darkっていう曲が好きなんだけど、この本と被るところがあって雰囲気が出ていい。

 実家に昔読んでいた本を取りに帰った。足を踏み入れるのは何年ぶりだろう。ざっと十年。小説を書き始めて、自分が今まで読んできたもので構成されていることを知った。若いころはそれが恥ずかしくて、どうにか隠してしまいたかった。今では開き直って居直っている。それどころか、取り戻したくて、避け続けていた実家に足を踏み入れる始末だ。多くの物語と同じ。スタートに戻る。


 ザンブレノの書くヒロインたち。言葉をとりあげられた妻たち。ヒステリーの診断を受け、根拠のない治療’(ほとんど悪魔祓い的)を受けた女たち。ザンブレノは彼女たちの半生をシビュラの伝承に重ねて読み解いていく。


 実家から持ち帰った本には乙一とか京極夏彦とか大塚英志とかがあって、引き出しに入っていた昔のイラストも持ち帰ってきた。あのときいらないと判断したものたち。置いてきた私の私物。

 学習机の引き出しの中にはコバルトとかルビー文庫が入っていた。ティーンズ文庫というかヤングアダルトというか、性描写含めた恋愛小説。懐かしい、と思った。中学生の時にBL小説を買って読んでたんだっけ。そっと引き出しを閉めた。猫田・D・米蔵氏の同人アンソロが出てきたのでそれは持ち帰ることにした。懐かしすぎる。同人漫画は高いからあんまり買わなかったけど、唯一全年齢の女神転生罪と罰のコミックアンソロと猫田先生のテニプリアンソロだけは自腹で買った。

 部屋には母もいて、久しぶりに少し話しながら本を片付けていた。

「机の引き出しにも本が入ってたと思うけど」

 引き出しを覗いて、そっとしめ直した直後の私に母が言った。なんだかすごく懐かしい、私は母のこういうところが嫌いで、母は私が子供だった頃から何一つ変わっていなかった。例えば人の私物を勝手に把握しているところとか、プライバシーに関する意識がほとんどないところとか、粘着質な言い回しとか、全部。

 反抗期とかそういう言葉で片づけられるのが心外なくらい、私は母が苦手だった。人として気持ち悪いと思っていたんだ、と思って納得した。

 子供の頃はなんとなく母と同じ遺伝子を受け継いで、造血機能すら遺伝子にコントロールされているのが不快だった。瀉血の感覚で血を抜こうとしたこともある。でも気がついてしまった。造血機能そのものを破壊されると人間は死んでしまう。私は他の遺伝子を持った生命にはなれない。この体に生まれついてしまったので。

 自己同一化というのだろうか。未熟だったころは自分が何か失敗するたびに、やはり母と似てしまった気がする。だから自分はだめなんだ。と自責に励んでいた。今はそういう気持ちにはならない。ただすごく気持ちが悪くて、自分と彼女に血縁関係があることすらほとんど意識しなかった。私の認知の上ではほとんど、他人だ。すがすがしいくらい。


 ザンブレノの本にも毒親の描写がある。笑ってしまうくらい、その分析はきっと当たっている。家から逃げ出したところで、結局行くつく先は同じような場所だ。凍りつく男、燃えさかる女。

 自己予言的で、私と「あの女」の境界はほとんど溶けてなくなってしまいそうだ。わたしたち。の言葉の中に溶けていく似通ったいくつもの人生。魔女のスープ。継ぎ足し継ぎ足し煮込み続けて、もうほとんどなにが入っていたのかもわからない。彼女たち、あの子たち、あの女たち、わたしたち。





 

 

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