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【読書日記】マダム・エドワルダ

 角川文庫。ジョルジュ・バタイユ、『マダム・エドワルダ』を読んだ。収録されているのは短編が二本、中編が一本。まずマダム・エドワルダ。正気を失った娼婦と彼女を買う男、互いに露出願望がある。次が死者。夫が死んではっちゃける露出狂の女の話。
眼球譚。第一部のみで完結はしていない? シモーネが年老いた後日談がある(老いたといっても三十五歳。今の感覚で言うと十分若い、当時は今で言うと4,5十代くらいの感覚か。三十五歳で成長しない人間は痛い。でもシモーネは投獄と拷問で正気を保てずに死ぬ)

 安っぽい暴力と不感症、他者の感覚の不在に終始していた。最後にバタイユがエロチシズムについて語っていた。笑わせる。狂気、眼球、排泄機関、排泄物。繰り返し描かれる眼球のモチーフは「正常に見られることへの固執」の裏返しに過ぎない。睾丸と眼球の相似に関するアイデアもチープ。女性のオルガニズムと排尿。男性のようにほとぼらせる少女。目に見えないと感じることができない。目に見えない相手の感情を察することができないことの象徴のように思えて、失笑。

 エロスを謳いながらも描かれている行為は単なる反復だった。少女の体を通した「俺の」「私の」「ぼくの」自慰行為。眼球譚一部の最後にバタイユの反省と回顧がつづられていて興醒めした。盲目の父親への崇拝と嫌悪。彼を見捨てたことへの罪悪感。子供の頃に感じていた、父親の排泄を解除することへの嫌悪感、に対する自己嫌悪、悔恨。正気を失った母親に対する軽蔑。それを取り繕う崇拝。

 人体破壊を伴うあるいは相手の尊厳を失わせるサディズムは実際のところ性欲というよりも「俺を生かしてくれ」というメンヘラチックなオナニー行為なので笑ってしまう。

 規範を踏みつけて悦に入る行為は規範を取り上げられると途端に宙に浮いてしまう。幼稚でくだらない陶酔だ。強く反発すればするほど、ルールに縋らざるを得なくなる。隷属への欲求。自らが欲するものすら何かに逆らう形でしか規定できない。自立しそこなった青年の放蕩「もしも自分にこういうパートナーがいれば」男性的な性表現に耽る奔放な美少女。解体される聖職者、行為を見守る「厳粛な」英国紳士。物語の語り手すら。受け身の形で、少女の痴態をただ「見守っている」「翻弄されている」「逸脱を促されている」。傍観者、傍観者、傍観者。狂っていく女をただ見つめている。眼球をもてあそぶ女は「見られている」意識に狂っていく。見つめているのは誰か?

 互いの悪徳の限りを世間に対して見せつけるつもりのはずが彼らはなぜか、人前に出ることをためらい、恥じ、隠れる。内側から常に視線を感じて外側の膜を破壊しようとする。内臓、恍惚、愉悦。

 エドワルダは小説としてすごく下手だった。肉体の裂け目、不感症、作者は幼いころに何らかの性的虐待を受けたのでは、と思った。「感じないままの性刺激への暴露」という感じ。繰り返し描かれる描写は個人的な経験から導かれていることが多い。特に本人でも理解不能な経験。
 母親の亡骸の側で自慰に耽ったというバタイユの告白。どうでもいい。

 エロティシズムと死の魅惑、というタイトルの、バタイユの講義と市民の質疑応答はけっこう面白かった。当時の感覚をうかがい知れる。傍聴者から総ツッコミされていて草。みんなの感想が(一人明らかにバタイユへの対抗意識むき出しの変なおじさんがいた)おおむね私の抱いた感想をなぞるものであって安心する。バタイユはそれに正面から対峙することなく体を傾けて言い訳を並べていた。ださ。

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