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【日記】メタ的な観客の視点から

The oldest and strongest kind of fear is fear of the unknown.
(古くからあり、かつ、最大の恐怖とは、未知なるものに対する恐怖である)

H.P.Lovecraft

《知る》という行為は、私たちの眼を覆い隠している愚かな布を取っ払ってくれる。それはわれわれを恋から目覚めさせ、憧れを薄汚い生活感に還元させる。また、われわれを幻想から現実に引き戻し、自らに抱いていた万能感や、外的要因に対しての恐怖を取り去る。
 われわれは、知らないからこそ恋焦がれ、憧れ、恐れるのだ――知ってしまうこと自体が恐怖である、というものは存在するだろうが。その人のことを深く知ってなお、その人を愛せるという人がいるならば、どちらかがよっぽどの聖人君子だろう。

 良い創作には《謎》がある。ミステリでなくともそうだ。「鬼になった妹を救う方法とは何なのか?」「タクシー運転手は殺人鬼の魔の手から逃れることはできるのか?」「愛する二人は身分を超えて結ばれるのか?」読者や観客は、その《謎》が作中で解かれることを期待して、作品世界へどんどんと没入していくのだ。何も起こらない、何も変化のない、まったく《謎》がない創作は、観る者を惹きつけるものをその意味では持たない。
 作中で《謎》が明かされる前に、悪しきなどによってその答えを知ってしまってはどうだろう。たちまち、われわれの精神は作品世界を廻遊することを辞め、現実世界から、メタ的な視点でもって、作品を俯瞰してしまう。
 この評論家じみた見方は、創作物への鑑賞方法の一つではあるかもしれないが、《主客未分な》体験を妨げるものである。

直接経験の上においてはただ独立自全の一事実あるのみである、見る主観もなければ見られる客観もない。あたかもわれわれが美妙なる音楽に心を奪われ、物我相忘れ、天地ただ嚠喨たる一楽声なるがごとく、この刹那いわゆる真実在が現前している。これを空気の振動であるとか、自分がこれを聴いているとかいう考は、我々がこの実在の真景を離れて反省し思惟するに由って起ってくるので、この時我は已に真実在を離れているのである。
 

西田幾多郎『善の研究』

哲学者・西田幾多郎の引用でも示されているように、何かに没頭している瞬間は、見る主体も見られる客体も、すなわち、主観的に認識する自己も、客観的に認識される対象も、その区別がついていない。これを《主客未分》と呼ぶ。
 《主客未分:主客未だ分かれず》であって、《主客不分:主客分かれず》でも、《主客非分:主客分かれるにあらず》でもないのである。創作へのかかわりという点に限定して言えばだが、主体と客体は、いつか分断される。主体と客体が鑑賞後も分断されないのならば、過剰な感情移入によってか、物語から永遠に戻って来れなくなってしまう。

 ともかく、主体と客体はいつか分かれる。そうでなければ、理性的な、メタ的な分析ができない。創作者がすべきは、むしろそういう見方なのだ。だがそれは、鑑賞後、愉しんだ後のほうが、私としては望ましい。
 音楽に聴き入っているのに、突如としてインターホンやコール音が聴こえたらどうだろう。映画を観入っているのに、誰かの手元から小さな灯りが零れているのに気付いたらどう思うだろう。襲い来る謎の怪物の、名前と生態を知ってしまってはこの先どうすれば良いのだろう。

 このようにして、創作の一つ上にある、メタ的な世界、すなわちわれわれの現実世界の存在を《知って》しまうことは、純粋経験を阻害するのである。
 だからといって、知識や知見を求めることを放棄せよと言っているわけではないことには留意されたい。

 ――待ちたまえ。キミ、薊詩乃アザミ シノという存在はどうかね? キミの理論に従うのなら、キミの物語の物語性を保つために、われわれはキミについて無知でなくてはならないのではないだろうか?
 ――なるほど、そのような見方もあろう。だが、そうしていられるのは、既に名の売れた芸術家だけなのだ。
 ――では、キミはその存在を知られたときどうなる?
 ――私はあくまで非実在的存在であるのだが。
 ――修辞レトリックはよしたまえ。
 ――だとしても、答えるべくもあるまい。決まりきったことではないか?
 ――すなわち?
 ――すべてが塵になるのだ。無価値、無意味、それ以下の物に。

 そう言うと、薊詩乃は、たちまち姿を変え、誰にも知られぬ草原で醜く揺れる薊の花として、人知れず朽ちていくのであった。

 本当は、そういう運命であったほうが賢明であったのかもしれない。


2023年5月2日 薊 詩乃

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