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【ショートショート】台風とペトリコール【前編】

どおお──おお……どおおお……
台風が、眼を開けた僕を迎えに来た。

休校の知らせに大喜びできるほど僕は子どもじゃあない。僕にはやることがあるんだ。さあ、パジャマ姿のままじゃいられない。しゃんとした制服を着て、長靴をぎゅっと履いて、透明で大きなビニール傘を持って。準備は万端だ。家を出よう。

ぐっ……と力を入れる。なんてすさまじい雨風だろう! 僕の腕では彼に敵わないんじゃあないだろうか! だが負けるわけにはいかない。僕は、最高のペトリコールをこの鼻でいっぱい吸い込むために、外に出なくちゃあいけないんだ。

ペトリコール──なんていい響きだ。僕が愛するあのにおいに、こんな美しい言葉がついていたと知ったときに、僕がどれほど感激したか、想像できるだろうか! 《ペトリコール》……それは、雨が降ったときに、地面から立ち昇るあのにおいのことだ。

僕はあのにおいがたまらなく好きなんだ。雨の切なさや物悲しさを、ペトリコールで知ったんだ。僕はずっと雨が嫌いだった。けれど、あの日の帰り道、あのにおいがはじめて僕の鼻を抜けて心臓に達したとき、思わず立ち止まって、何度も何度もそれを確かめたものだ。

ガチャン! ドアを開け、鍵を締めた。

ああ、今、僕は、ひしゃげそうな傘の中で、雨に打たれながら、全身に鳴り響いて染みこむにおいを感じている! ああ、もう、情緒なんてないさ! 知っているさ! こんな台風の中でペトリコールに襲われているのだから!


僕は狂っている! 僕は。ペトリコールを、雨を、台風を愛している!

雨の降る日は、たとえ台風でなくても心が落ち着かない。どんなに弱い雨でも、通り雨でも、僕の鼻は、ペトリコールを嗅がせろと息巻いて、一刻も早く、早く早くと急き立ててくるのだ。おかげで、晴れの続く日なんか、僕の鼻はストレスで毛が全部抜け落ちてしまうくらいさ。

「櫻の樹の下には……」ではないが、雨にだって、狂気をもたらす何かがある! 僕はそう思わずにはいられないのだ。雨粒一滴一滴というのは、今まで死んだ人が流した泪なのではないだろうか? あるいは、《雨》という現象そのものが狂気じみた神様なのではないか……?

僕はびたびたに張り付いた制服の冷たさに恍惚とした微笑を浮かべながら、いつもの通学路を進んでいた。長靴で踏み鳴らす水たまり……零れる水しぶきがまたまき散らすのだ、アスファルトに愛想をつかしたペトリコールを! そのとき、狂喜乱舞する台風のいたずらによって、傘を吹き飛ばされてしまった。僕は感極まって叫び声すら上げてしまった!

ああ! 今日の雨はなんて素晴らしいんだろう!

僕はもはや、ペトリコールを愛する純朴な少年から、雨を信奉する狂信者になってした。だがその心地よさと言ったら! あなたも、台風に呼ばれたら、是非外に出て、全身で雨の畏敬に身を委ねるといい……。

(続く)


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