夏野菜プラ小田氏治
印度の炊き込みご飯に二種類あり。ビリヤニとプラオ。
どう違うのか、よくわかりません。調べてみるとグレービーソースを使うのがビリヤニ?とかいう話もありましたが、基本的に肉食をしない私には、肉汁から出るグレービーソースは無縁。そうなると、今までビリヤニとして作ってきた料理はプラオと言うべきなのか?
そう思い、更に調べてみると作り手がビリヤニと思えばビリヤニ、プラオと思えばプラオという記述も発見。
ということで今日、作るのはプラオだと自分で決めました。
夏野菜でプラオを料理しながら、戦国最弱とも言われるオダさんを妄想した記録。
玉葱 1/2
大蒜 2欠け
生姜 1欠け
桜海老 好きなだけ
モロッコインゲン 3本
茄子 1本
ズッキーニ 1本
人参 5センチ
バスマティライス 1合半
シュレッドチーズ 好きなだけ
ターメリック粉 大匙1
クミン粉 大匙1
コリアンダー粉 大匙1
ガラムマサラ 大匙1
唐辛子粉 小匙半分
塩 小匙半分
シナモンスティック 1本
戦国のオダと言えば、織田信長と言いたい所ですが、今回、妄想しているのは小田氏治。
関東八屋形と呼ばれる名家がありました。
宇都宮、小田、小山、千葉、佐竹、長沼、那須、結城の八家。いずれも鎌倉時代から続く武家。
小田家は鎌倉幕府の御家人、八田知家の子孫。その十五代目として生まれた小太郎が後の小田氏治。
父親の政治が56歳で死去すると、十代で氏治は家督を継ぐ。その頃の関東は諸勢力が相争い、時に北条、時に上杉についたりと離合集散。
近隣の結城や佐竹の拡大に伴い、小田家は勢いに陰りが見え始めていました。
家督相続後の氏治、勢力を拡大しようと隣の結城家に戦を仕掛ける。ところが、返り討ちどころか、居城の小田城を奪われる。これが記念すべき?最初の落城。
北条家の助力を得て、奪い返す。
その後、佐竹義昭と交戦状態となり、そちらにも小田城を奪われる。
関東管領となった上杉謙信が関東へ出兵してくると、その旗下に馳せ参じて、謙信の助力を得て小田城を奪還。
謙信が越後に引き揚げた後、佐竹義昭が死亡。その時を狙って、佐竹へ戦を仕掛ける。
このことが謙信の耳に入ると、相手の弱り目につけ込む卑怯な手口を嫌った謙信ブチ切れ。自ら出陣して、小田城落城。
氏治、平謝りして返してもらう。
こんなことを繰り返すこと30年の内に9回。しかも大抵、氏治から戦を仕掛けてはやられるという繰り返し。
これは最弱と言われても仕方ない?しかしその都度、取り返しているのだから、最強とも考えられるのか?よくわからなくなってきた。
氏治が拠点としていた小田城は平地にあった城。戦国時代の城は守るに堅く、攻めにくい山城が多い。
平地にあるために攻めやすく、守りにくいという欠点。
思うに、小田城とは中世の武家館を改造して城にしたのではなかったか?
足利家の館跡に建てられている鑁阿寺とか、甲斐武田家の躑躅ヶ崎館跡に建っている武田神社とかを想像してもらえるとわかりやすいけど元々、武家の館は平地にあった。その延長が小田城?
いっそ山城を築いて移った方がよくね?とも思いますが、先祖伝来の城を捨てる訳にはいかないという思いがあったのでしょう。というか、小田氏治とはどうも目の前のことに熱中するあまりに大局が見えないという面があったようです。
天正十四年(1586)にまたも小田城を佐竹義重に奪われる。これが最後の落城。
失地回復に執念を燃やす氏治は再び、北条氏に援軍要請。しかし時が悪かった。この時、天正十八年(1590)は秀吉による小田原征伐の年。つまり北条家は自分の城を守るのに手一杯で、小田城奪還に送る援軍など出せない状態。
助けてくれないんだったら、いいよ別に自分だけでやるもんとばかりに氏治は独力で小田城へ攻めかかる。勝手知ったる自分の城の筈が、なかなか落とせない。その間にも秀吉による小田原征伐は着々と進む。
秀吉は関東の諸大名にも小田原征伐に参陣すべしと命令を出していました。佐竹義重はそれに応じていたのですが、目の前の小田城奪還しか頭にない氏治は秀吉の命令を無視あるいは軽く考えていた?こういう所が大局が見えていないということ。
そうこうしている内に小田原開城、北条家は降伏。こうなると秀吉の怒り爆発。
自分の命令を無視したばかりか、秀吉に臣従した佐竹に攻撃を仕掛けたということで小田家は改易。小田城奪還の望みは完全に潰える。
その後、秀吉に謝り倒したものの、秀吉は自分に仕えることは許さず、養子の秀康の臣下となるように命令。
秀吉の養子と言っても、秀康は徳川家康の次男。体のいい人質として預けられていた人物。更に持て余した秀吉は跡継ぎが絶えそうになっていた結城晴朝に養子として秀康を斡旋。こうして結城秀康となった人物。
そうです。あの結城。最初に小田城を落とした結城家の家臣になるという屈辱。秀吉もなかなか意地の悪い処置をしたもの。
その後、秀康が越前に移封となると、それに付いていき、慶長六年(1601)に越前にて生涯を閉じました。
野菜もすべて柔らかく炊き上がっている。スパイスと海老の出汁が沁み込んだご飯も素晴らしい。日本のご飯と違ったぱらぱら食感は正に印度飯。
スパイスで胃腸を整え、野菜のビタミンやベータカロチン、大蒜のアリシンと栄養もばっちり。
何度も居城を奪われるという失態を演じながらも、氏治の家臣は誰も彼を裏切りませんでした。寝首をかいて敵方に走る不忠者もなし。一時的に敵の家臣になっても、氏治が攻めてくるとあっさりと降伏して、臣下に戻る者もいたとか。
更に驚くべきは小田城下の領民。小田城に新たな城主が入っても、そこには年貢を納めず、わざわざ氏治の所に年貢を納めに行っていた。
家臣にも領民にも慕われる不思議な人徳があったのかもしれません。
何度取られても取り返す、正に戦国のフェニックス、小田氏治を妄想しながら、夏野菜プラ小田氏治をご馳走様でした。