石原裕次郎ズマリー蕪
近隣の農家から蕪を頂くことがある。旬をそろそろ過ぎようとしているが、まだまだ美味しく頂ける蕪を料理しながら、昭和を代表するスターの豪快伝説を妄想した記録。
蕪 1つ
大蒜 1欠け
ローズマリー 小匙1
オリーブオイル 大匙2
塩 小匙1
黒胡椒 少々
昭和九年(1934)12月28日又は翌年の1月3日に兵庫県に誕生した石原裕次郎。
どういうことかというと、公式プロフィールでは12月生まれだが、戸籍上は1月生まれとなっている。誕生の届け出を実際の日よりも遅く届けることは昔は結構、あった?私の知り合いにも実際の誕生日と戸籍上の誕生日が違うという人がいる。
それはともかく、誕生からして伝説めいている。スターとはそうした存在。
お坊ちゃんのように思われがちですが、父は汽船会社に勤めるサラリーマン。北海道小樽や神奈川県逗子で育つ。
兄は石原慎太郎。私にとっては政治家としての印象が強いのですが、元々は作家として世に出て『太陽の季節』で芥川賞受賞。同作品の映画化において裕次郎は端役で映画デビュー。
以後、日活の看板スターとして多くの映画に出演。
自身の会社、石原プロモーション設立。演じるだけではなく映画を作る側にも回った。
『嵐を呼ぶ男』とか『黒部の太陽』等々、多くの主演作がありますが、正直な所、私の世代では石原裕次郎と言えば、『太陽にほえろ!』の藤堂係長や『西部警察』の木暮部長になる。
主にこうした時代の大物っぷりを示す逸話をあれこれと妄想。
『太陽にほえろ!』のプロデューサー、岡田晋吉は学生時代、電車で通学していたが、同じ電車でよく裕次郎を見かけていたが、いつも取り巻きを連れていたという。最近では死語となった番長とでも言う風で、沿線では有名だが近寄りがたい不良だったとか。
裕次郎はガキ大将氣質な人物だったことを、この逸話は示している。
彼が設立した石原プロモーションには様々な俳優達が集まってきましたが、男ばかり。
もっとも有名な人と言えば、やはり渡哲也。
初対面の時、渡が挨拶に行くと、裕次郎は立ち上がって挨拶。
「君が渡君ですか、どうぞよろしく」
挨拶に行ってもろくに相手もしない大物俳優が多かった中、立ち上がって挨拶されたことに感動した渡は裕次郎に心酔。
この対応は伝統芸能のように受け継がれる。
後年、舘ひろしが渡に挨拶に行くと、渡も同じように立ち上がって挨拶。これで舘も渡に心酔。渡の背中を追って石原プロへ。
西部警察の撮影中、裕次郎と渡は自前のディレクターチェアーで出番待ち。
舘は渡の横に自身のチェアーを置いた。
他の出演者達が立って出番待ちしているのに座っている舘を見て、裕次郎は
「10年早いな」
「今は時代が違いますよ」と若く威勢がよかった舘が口答え。
スタッフ達は青ざめる。
「そうか、時代が違うか」と裕次郎は笑って済ませる。
大物は滅多なことでは怒らない。
『太陽にほえろ!』でジーパン刑事を演じた松田優作が遅刻。それも喧嘩してきたのが理由。
この時も怒らず。
「おまえ、喧嘩強いのか」
「ええ、まあ」
「勝負するか」
「勘弁して下さい」
「何だ、俺なんか相手が3人までなら負けなかったぞ」
「俺も負けたことありませんよ」
とかえって和んでしまったとか。
石原プロには入らなかったが、裕次郎と逸話を遺した俳優は他にも。
ラガー刑事を演じた渡辺徹。
「おまえ、どこに住んでいるんだ」
「アパートの三階です」
「俺の家をやるよ」
ところが電気代だけでも数百万かかる豪邸。分不相応ということで渡辺は断念。
裕次郎が演じたボスはデスクについて、指示を出す芝居が多い。実は机の下にはビールケース。カットがかかる度に一本、栓を抜いてグビッ。
後に渡辺も主演ドラマで真似をしたら、しまいにはフラフラして撮影にならず。裕次郎とは酒量も器も違ったということか。
「みんな一生懸命やってるのに何やってるの!」
と渡辺を怒鳴ったのは後に結婚する榊原郁恵。
映画スターという立ち位置にこだわりがあった裕次郎。最初は『太陽にほえろ!』も1クール、13回で降板するつもりだったとか。やっている内に面白くなったのか、テレビドラマに新たな魅力を見出したのか結局、昭和四十七年(1972)から昭和六十一年(1986)まで全718回の殆どに出演。
14年に渡った長寿番組が終わるきっかけも裕次郎の病。
最終回、裕次郎演じるボスは命の大切さを説く長セリフ。ほぼアドリブですが、その中でスコッチ刑事について言及。
演じた沖雅也が自殺したことにショックを受けていたことから、このセリフが生まれた。
大根程には筋ばっていない蕪、少量の塩で甘みが引き出される。ローズマリーの香が更なる風味を加えてくれる。
大蒜のアリシンが食欲倍増。
蕪に含まれるカリウムは過剰な塩分を排出してくれるので少々、塩が多くても大丈夫。食物繊維やビタミンAやCと体によい成分も豊富。
勿論、女にもモテたことでしょうが、男にも慕われた石原裕次郎。
幼少期を過ごした小樽には平成二十九年(2017)まで石原裕次郎記念館が存在。残念ながら行く機会がありませんでしたが、聞いた話では年配の男性が記念館から出て来る時には肩を怒らせていたとか。すっかり裕次郎気取り?男に憧れられる存在だったことを示しています。
記念館もなくなり、石原プロも解散。昭和も裕次郎もどんどん遠くなる。
『わが人生に悔いはなし』という歌を録音していた裕次郎、死後に発売。
大概の人は人生に悔いや未練を残すものと思いますが、悔いはないと言える人生を全うしたのは石原裕次郎と『北斗の拳』のラオウくらいかも?
ここに紹介した逸話もすべて本当かはわかりませんが、こうした豪快な話が伝わるということ自体、石原裕次郎が大物スターだったことを示しています。今、これ程に大らかで豪快な伝説が似合う人物がいるだろうか。人間の質が全体に小粒になっていると感じる。
昭和、特に戦後の日本を明るく照らした、正に明星(スター)だった石原裕次郎を妄想しながら、石原裕次郎ズマリー蕪をご馳走様でした。
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