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鮭ほぐ柴田勝家

瓶詰のほぐした鮭。ご飯にかけて食べたり、お握りにしたりと活躍。しかし、スーパー等で販売されているほぐし鮭には保存料とか着色料が使われていることが多い。そこで自作。
鮭ほぐしを作りながら、猛将と呼ばれた人物の虚実を妄想した記録。


材料

鮭     2切れ
塩麹    大匙1
白摺り胡麻 たっぷり
胡麻油   適量
酒     大匙2

生誕年については諸説ある柴田勝家ですが、織田信長よりも一回り程年上だったようで、信長の父、信秀の代からの家臣。
信秀には正室、土田御前との間に家督を争う二人の男子、信長と信勝(信行)
柴田勝家は信勝に付けられた家老でした。
よく言われていることですが、若い頃の信長はうつけ者と呼ばれ、だらしない恰好でうろうろしたり、歩きながら瓜とか柿を食べたりと行儀が悪いことこの上ない。
織田家臣の中にも、信長よりも信勝を当主にした方がいいのではないかという声。


胡麻油を引いたフライパンで鮭を焼き、皮と骨を取り除いていく。

信勝に仕えていた勝家も当然、信長廃嫡派。
その機運が高まっていき、ついには武力衝突。それが稲生の戦い。
信勝方は敗北。
信勝は母、土田御前と共に信長に謝罪。一度は許される。
信長の同母弟の名前ですが、私はこの時に改名を命じられたのではないかと妄想。
信長に勝つという名前はよろしくないので、信長の言うことを行う信行にせよと。
勝家という名前は恐らく、信勝から一字貰った偏諱だったのではないか。


骨と皮を取ったら、塩麹と酒を投入。蓋をして2分、蒸し焼き。

これで心を入れ替えて信長に忠実になるかと思えば、またしても謀反を企む弟。それを知った勝家は信長にこの動きを密告。
信長は病気になったと周囲に告げて、清須城に閉じ籠る。それを聞いた弟は見舞いにやって来る。
騙し討ち。
この時、主君の弟を討つという大役を果たしたのは河尻秀隆。
以降、柴田勝家は信長に忠実に仕える。


蓋を取ってほぐしながら、摺り胡麻を混ぜていく。

「掛かれ柴田」という綽名が柴田勝家には付けられています。
威勢よく「掛かれ」と兵に号令して敵陣に向かっていく。よく考えたら、先頭に立って戦うのではなく自分は後ろにいて、兵達に命じている?
つまり自身が猛然と突進するのではなく、人を使うのが上手かった?
同じく人たらしと呼ばれた人使いが巧みな秀吉は「木綿藤吉郎」との綽名。
木綿は様々な用途に仕えて便利ということから付けられた名前。
勝家は秀吉を嫌っていたようですが、これは秀吉が下賤から成り上がったことだけではなく、自分に似た所を見て反発していた?磁石の同極同士みたいなもの?


いい感じになってきた。

主に北陸方面の軍事作戦の指揮を取り、信長の天下統一に大きく貢献した勝家、上杉景勝から魚津城を奪う等の活躍。しかし、これも信長という強力な後ろ盾があってのこと。
本能寺の変で信長がいなくなると、撤退を余儀なくされる。
そして信長の後継者を決める清須会議に参加。
有力な候補者は信雄と信孝。勝家は信長の三男、信孝を推す。
しかし秀吉は長子相続の原則を持ち出す。といっても信長の長男、信忠は父と共に本能寺の変で死亡。ということで秀吉は信忠の遺児、3歳の三法師を後継者として指名。
明智光秀を討ち、信長の仇を討った秀吉の意見であり、勝家と並ぶ重臣、丹羽長秀も秀吉案に同意したことから、三法師が織田家の後継者に決定。


鮭ほぐ柴田勝家

鮭には強い抗酸化作用があるアスタキサンチンが豊富。
胡麻も抗酸化作用ということで、これはもう強力なアンチエイジング食。
塩鮭を使用したので、塩麹を控えめに使用していますが、生鮭を使う時は適宜、塩とか塩麹を追加して下さい。

清須会議のもう一つの議題、信長の妹で未亡人のお市の方は三人の娘と共に勝家と再婚。
勝家はこれが初婚。といっても上杉謙信のように生涯不犯とか不能だったということではなく、勝家にも子はいました。婚姻はしていなかったということ。武家の結婚は政略。家格が釣り合う相手とか、政略に丁度よい相手に恵まれなかったということ。

美人で名高いお市の方を娶ったからといって勝家は収まらない。幼児の三法師の後見になった秀吉がこれから織田家の天下を簒奪していくことは明白。ついに反秀吉の旗を明確にして起こしたのが賤ケ岳の戦い。


ご飯にかける。

これだけで飯がいくらでも食べられそうです。

ところが、ここで重要な寄り子であった前田利家が戦線離脱。
「寄り子」というのは家臣ではなく、主君に命じられた協力関係にある者。
それを命じた主君、信長がもういないので離れても文句は言えない。
利家も勝ち馬に乗った或いはより親しい関係にあった秀吉側に付いたということか。
貴重な戦力が減ったことから士気もダダ下がり、勝家方は敗北。
それでも敗走の途上、利家の下に立ち寄り、これまでの協力に感謝を述べてから、居城北ノ庄城に落ちていきました。
北ノ庄城は秀吉方に包囲され、勝家とお市は自害。
三人の娘は逃がされました。

福井にあった北ノ庄城は五層の天守閣が聳える城だったといいますが現在、まったく城の遺構は存在せず。建物どころか石垣とか堀もなし。
その存在すら消し去られた?秀吉の意向だったか?

どこの戦の逸話だったか失念しましたが、籠城していた勝家達、瓶に残った水を皆で飲んだ後、槍の柄で瓶を叩き割り出陣。もうここには戻らないという意志を形で見せて、勝利を拾ったという話。ここから「瓶割り柴田」という綽名でも呼ばれたとか。
猛将と呼ばれた男の姿を妄想しながら、鮭ほぐ柴田勝家をご馳走様でした。

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