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炊き込みカ烈公

車の展示会だの、葬儀の引き出物とかで最近、レトルトカレーを頂くことがあります。基本的に自炊なのであまりそういう物は食べないようにしているのですが、食べ物は無駄にしたくないということで、自分なりにアレンジして調理した記録。


材料

レトルトカレー   1袋
玉葱        半分
発芽玄米      1合
白米        1合
推し麦       1袋
シーフードミックス 半分
ミックスチーズ   適量
粗びき黒胡椒    お好みで

カレー、烈公ということで水戸の烈公こと徳川斉昭を妄想しながら料理開始。
水戸徳川家の九代目当主にして最後の将軍、徳川慶喜の実父。
激烈な性格だったということから、烈公と称されています。
寛政十二年(1800)生誕。彼が生きた時代は幕末の動乱が始まりそうな頃であり、沿岸に外国船がちらちらと姿を見せ始めていて、それに対する備えを一早く為さねばならないと考えていたようです。


炊飯器に研いだ米、シーフードミックス、カレーを入れて浸水後、炊飯。

基本的にはこれで終わり。しかし、これではあんまりなので、炊き上がりを待つ間に少しトッピングを作ります。

優秀な人材を育成するために藩校、弘道館を設立。

弘道館

ここは学校とはいっても、入学とか卒業という概念がなく、学びたい者が学びたい時に来て学ぶという学校。言わば生涯教育の走り?
いざという時のために国を富ませて、力を蓄えておかないといけないということから藩政改革にも積極的。
下士層から藤田東湖や武田耕雲斎等の人材を登用。
農村救済に稗倉を設置。「愛民専一」を掲げ、農民を象った銅人形を作らせて、食事の前に人形の笠に飯を供えるのが日課。
如何にも民のためを思う名君といった風情ですが反面、百姓には学問は不要。それどころか生業の妨げになるという考えの持ち主。
政治は武士、学問は学者、百姓は農耕とそれぞれの分を守って生きるべしという思想があったようです。

岡山の後楽園、金沢の兼六園と共に三名園として知られる水戸の偕楽園を作らせたのも烈公。

偕楽園

梅の名所としても知られ、庶民にも開放されていました。
訪れた時、配膳用の手動エレベーターを見たのを覚えています。


玉葱を微塵切り。

水戸藩は光圀公以来、大日本史の編纂を続けていて、日本の歴史を研究すると当然に天皇の存在を考えねばならなくなり、南朝が正統という思想に。
幕末、志士と呼ばれた人々はほぼ全て、この水戸学に影響。
それを突き詰めたので、南朝の血を引くと言われる大室寅之助と明治天皇のすり替えに至った?
徳川家の研究が徳川の天下を覆すイデオロギーになっていったというのも皮肉なことです。
水戸黄門こと徳川光圀については以下を参照下さい。あまり知られていない一面を書いています。↓

烈公こと斉昭も歴史や天皇の研究に没頭した結果、神道を熱心に信仰し、領内の寺院を弾圧。これが幕府に聞こえて、一時は強制的に隠居。
一度、思い込んだら激しいことを為す。これが烈公と呼ばれた所以。
激しい逸話をもう一つ。後に最後の将軍、慶喜となる七郎麿の寝相が悪いので、それを矯正するために烈公は寝床の両脇に剃刀を置いたと言います。

玉葱を素揚げ。

ペリー来航、そして外圧に揺れる時代が烈公を表舞台に。幕政への関与を求められて復帰。
ペリー暗殺を含む強硬な尊王攘夷を掲げていた烈公ですが、外国の実力を知ると現実的には攘夷は現時点では無理と悟ったものの、立場上、自分の口から開国とは言い出せないので、越前藩主の松平春嶽に言ってくれと頼んだとか。
それでも江戸防備のために大砲74門を鋳造、弾薬と共に幕府に献上。更なる大砲鋳造のために領内の那珂に反射炉を作っていました。


炊き上がり。

日本を守るために自国で武器を作るべしと考えていたので、ペリーから贈られたコルト製の拳銃を模造して、領内で量産。
水戸の東照宮で安神車なる物を見ました。これは烈公が作らせた戦車。
銅製の桶を大八車のような物に乗せて、牛に引かせるという代物。桶の中に人が入り、覗き穴から小銃を撃つという物。しかし、戦場で牛に引かせていたのでは、のろくて実用的ではない気がしますが。


チーズを混ぜる。

13代将軍、家定に子がない、というより出来そうもないとなると、次の将軍を誰にするかという跡継ぎ問題が浮上。この時に烈公は自分の息子で、一橋家を継いでいた慶喜を推す。
この時、最大のライバルとなっていたのは大老、井伊直弼。
少し本筋から外れますが、井伊家では牛肉の味噌漬けを代々、作っていて将軍や幕府の要人に献上する習わしがありました。烈公は牛肉好きで、これを楽しみにしていたそうですが、直弼の代になると廃止。
熱心な仏教徒だった直弼は肉食を止めるべしという考え。神道を信奉する余りに領内の寺院に圧力をかけた烈公とは、正に神仏の戦い?


玉葱も混ぜ込んで。

結局、この政争は井伊直弼に軍配が上がることに。
直弼が推す紀州徳川家の慶福が14代将軍に決定。
更に直弼は後に安政の大獄と呼ばれる強権政治を発動。
多くの志士が獄に繋がれ、死罪へ。その矛先は烈公にも及び、蟄居を
命じられることに。


炊き込みカ烈公

井伊直弼が殺害された桜田門外の変。それを起こしたのは水戸脱藩浪士。
主君、烈公を弾圧した大老へ恨みの一撃?


お好みで黒胡椒を散らすと、より美味しく。

レトルトカレーが人数分ない時の裏技としても使える炊き込みカ烈公。
シーフードから出た出汁がより美味しくしてくれます。素揚げの玉葱が香ばしいアクセント。チーズでタンパク質もしっかりと補給。

安政七年(1860)三月に桜田門外の変が起こり、改元された万延元年(1860)八月、蟄居処分が解けず、水戸に居た烈公、厠に立った後に倒れて急逝。
彦根藩士による、桜田門外の変の報復?という説もあるようですが、一応は否定されています。
水戸では光圀公は義公、斉昭公は烈公、二人をご祭神とする義烈神社で祀られています。
国を思い、民を思っていた烈公こと徳川斉昭を妄想しながら、炊き込みカ烈公をご馳走様でした。


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