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ふきの遠山の金さん

「おいおう、さっきから聞いてるととぼけやがって、この桜吹雪が目に入らねえか」
と言って片肌脱いで、桜吹雪の入れ墨を見せると、お白洲の悪人達は、奉行の正体が遊び人の金さんだったことを知り、恐れ入る。
最近は放送されることもあまりなくなった「遠山の金さん」でのお決まり場面。
子供の頃、ドラマを見ていて不思議でした。入れ墨見なくても顔を見れば、金さんだとわかると思うんですが?
そんなことを考えるひねくれた子供だった。
春の味覚を料理しながら、遠山の金さんを妄想した記録。


材料

ふきのとう     1パック(8個)
米粉        適量
ベーキングパウダー 少量
水         適量

遠山金四郎景元が金さんの本名。つまり彼は虚構の名奉行ではなく実在の人物。江戸の奉行所は北町と南町の二か所。両方の奉行を体験した稀有な人物。つまり有能だった。
北町と南町と言っても、江戸を半分に分けて担当していたのではなく、月番交代。つまり今月は南町、来月は北町が江戸市中をすべて担当という風。
江戸の奉行所とは現代風に言うならば、都庁と警視庁、裁判所まで兼ねていた場所。
また、与力は南北それぞれ25騎、同心は百人づつ、合わせても300人に満たない数で治安を守っていました。というより、江戸が平和な町だったと言うべきか。


根元を切り、外の皮を1枚はいだふきのとうを水に晒す。

遠山金四郎ですが、若い頃は無頼な生活を送っていたようで、その時に彫り物を入れたとか。絵柄は桜吹雪だったかは?で、一説には女の生首だったとも?
彼が生きた時代は江戸時代後期、老中、水野忠邦による天保の改革が行われていました。この頃、金さんは北町奉行。
天保の改革とほ質素倹約を旨とし、贅沢や娯楽は禁止。江戸に出てきた者達も地方に帰して耕作させろという趣旨。


米粉、ベーキングパウダー、水を混ぜる。粉っぼさが無くなるまで。

大火て芝居小屋が焼けると、そのまま芝居小屋を全て撤廃されそうに。そこで金さんの出番。幕府と交渉し、彼方此方に点在していた芝居小屋を浅草に全て集めるという条件で存続を認めさせました。
このことに感謝した芝居関係者が、金さんをモデルにした裁判物の芝居を作るようになったのが後々まで存続し、テレビドラマにまで続いたという訳。


ふきのとうの水を切る。

商業面の締め付けとして、幕府は株仲間の解散を命令。
株仲間とは価格カルテルというか、談合みたいな形で同業者間で価格調整。
水野忠邦は商人達はこれにより不当に価格を吊り上げていると考えたようですが、見方を変えれば、同業者間で適切な価格を維持しようという面も。
こういう命令は奉行所から商人達に通達することになっていましたが、金さんはこれをサボタージュ。
過度な人返し令にも反対の意見を上申。
倹約令についても、町人の贅沢は禁止しておきながら、武士階級にはそれが適用されていないと指摘。
庶民の痛みがわかる真面目な人だったようです。
しかし、上からの命令に従わないことから奉行を罷免。大目付に役替え。
大目付、江戸時代初期には柳生宗矩も務めたことがある大名の統制役。というのは既に形骸化していて、実際にはやることがない閑職。
この措置は水野忠邦の腹心とも言うべき、南町奉行鳥居耀蔵の差し金とも。


ふきのとうに米粉の衣を付ける。

天保十四年(1843)金さんが大目付になった同じ年に水野忠邦が罷免。この時、鳥居耀蔵は反対派に寝返って地位を保全したものの、翌年に水野が返り咲き。報復人事で鳥居失脚。
鳥居という人物、奉行だった頃は水野に唯々諾々と従い、江戸庶民からは嫌われていました。
その後、鳥居は投獄。明治維新の時に恩赦で出獄。明治六年まで生存。
話を金さんに戻します。
弘化二年(1845)に金さんは奉行職に復帰。今度は南町奉行。
解散させられていた株仲間の再興や寄席の制限撤廃と江戸庶民のために働く。水野の後任の老中、阿部正弘にも重用されました。


油で揚げる。

嘉永五年(1852)に隠居。家督を嫡男に譲り、出家、帰雲と名乗りました。
この翌年、ペリーが黒船で来航。幕末の幕が上がる。
隠居から3年後に63歳を一期として死去。
本格的な幕末動乱に巻き込まれることがなかったのは幸いだったのか。ライバルの鳥居耀蔵も獄中に居たので無事だったことになる。


ふきの遠山の金さん

米粉を使うと、さっくりと揚がる。しかも時間が経っても衣がしなしなにならない。小麦粉よりも米粉を勧めます。
ふきのとうの微かな苦みこそ、正に春の味覚。この苦みはポリフェノールであり、食欲増進、消化促進に効果。
老化防止に効果があるビタミンEも豊富。
天つゆで頂きましたが、塩を振っても美味。

食べ物の話ですが、食べ終わったということにして、下半身の話を少し。
遠山金四郎、ひどい痔に悩まされていたそうです。彼の身分では通常、出仕する時には騎馬でなければならないのですが、馬に跨るのも苦痛ということから、特別に駕籠の使用を許可されていたそうです。
奉行職はお白洲の裁きばかりではなくデスクワークも多かったでしょうから、座り時間が多かったせいで痔疾悪化?
若い頃は無頼な生活をしていたようですが、だからこそ人の痛みに寄り添う奉行になったかと遠山金四郎を妄想しながら、ふきの遠山の金さんをご馳走様でした。

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