穴子義久
戦国時代、多くの大名家が栄え、そして滅亡。
滅びた大名家、歴史の表舞台から消えた後、どうなったのか?
一族皆殺しになったという事例は、実はあまり多くない。
いい時代が過ぎ去った後でも人生は続いていく。
そんな事例の一つを妄想しながら、穴子を料理した記録。
穴子 2尾
生姜 1欠け
パプリカ 1個
玉葱 半分
大蒜 1欠け
白ワイン 大匙1
米粉 適量
塩 小匙半分
胡椒 少々
オリーブ油 大匙2
出雲、石見(共に島根県)を中心に山陰、山陽地方に覇を唱えた尼子氏。元々は守護代。
室町幕府の守護大名は基本的に京都に常駐。領国支配のために代官を派遣。
つまり守護の代官が守護代。
幕府の支配力が弱まってくると、地元密着で力を蓄えた守護代が下剋上で領国を奪って大名化するケース。尼子家もそんな家。
守護の京極氏から出雲を奪って大名に伸し上がったのが尼子経久。↓
この時も穴子、我ながら捻りがないのに呆れる。
経久の嫡男は親より先に亡くなったため、孫の晴久が跡を継ぐ。
その晴久の次男として天文九年(1540)に誕生した三郎四郎が後の尼子義久。
経久の死後、尼子家は毛利元就の謀略などのために徐々に弱体化の道を辿る。
そうした時期に生まれたがために、義久は大名としての尼子家に幕を引く役割を担うことになった。
出雲はたたら製鐡で有名。この時代、鐡は貴重な資源。何しろ刀とか槍を作るのに欠かせない。
石見には銀山。これまた貨幣として使われたので貴重。
鐡と銀という資源を押さえていたからこそ尼子家は大きく成長。毛利元就は資源豊富な尼子の領国を欲しがったということ。
晴久と義久親子、老獪で謀略に長けた元就に翻弄されていく。
尼子家には新宮党という武闘派集団。
新宮谷を本拠としていた尼子の分家で経久の次男、國久が当主。晴久にとっては叔父に当たる。
謀反の疑いをかけられて、晴久の命令により一族の殆どが誅殺。
影響力が大きくなり過ぎた叔父が邪魔になり、家中統一を図るためだったという説もありますが、尼子家の戦力を削ぐための元就の謀略だったとも言われる。
因みに國久の娘が晴久に嫁いで、生まれたのが義久。つまり母の実家が父により滅ぼされたことになる。戦国の世は無情。
永禄三年(1561)尼子晴久が四十七歳で急死。
昔の大河ドラマ『毛利元就』では妻により毒殺されたと描写されていましたが、実際には妻は新宮党族滅以前に亡くなっていたようです。
妻が生きている内に実家を攻撃するのは、流石に憚っていたか。
急死というだけで死因がよくわからない。もしかしたら毛利方による暗殺?
ともあれ、このために義久が尼子家の家督を継ぐ。この時、数えで二十二歳。
この頃の毛利家は大内家も滅ぼして山陽地方、更に九州北部にも勢力を伸ばそうとしている大勢力。
経久の時代には毛利家は一時、尼子傘下にいた。その時とは完全に立場が逆転。
一代で毛利家を急成長させた謀略の鬼、元就と弱冠二十二歳の義久では完全に分が悪い。
家を滅ぼしてしまった当主は大体、後世の評価が良くない。尼子家についても義久どころか晴久からして経久よりも見劣りするように言われる。
それでも晴久存命中は毛利の攻撃を退けて、銀山を奪われるようなこともなかった。
新宮党という母方の実家もなく、有力な親族がいない状態で当主になった義久は、幕府に毛利との和睦仲介を依頼。毛利方が出した条件は石見への不干渉。これを了承せざるを得なかった。尼子方の國人衆が毛利方に懐柔され、最終的に銀山を奪われる。
やられぱなっしではなく九州の大友氏と連携して毛利家に二方面作戦を取らせることで戦力分散を図った。これで時間を稼いで高齢の元就が死ぬのを待った?
思いの他、元就は長生き。大友家と和睦して九州から手を引いた毛利勢により、ついに本拠の月山富田城も囲まれる。
戦国時代の攻城戦、全滅するまで戦った例は殆どない。決着には幾つかのパターン。
信長や秀吉の時代では城主が切腹して城を明け渡せば城兵は助命。
それよりも前である月山富田城では、義久は降伏して開城。
城将、城兵ともに助命。誰も腹を切らずにすんだ。
城を明け渡したことにより、大名としての尼子家は滅亡。
義久は出雲から離されて毛利家の本拠、安芸(廣島県)に連行。
ほぼ幽閉される。
殺されなかったのは、厚遇していると示すことで尼子旧臣達を繋ぎとめる目的。
と同時に監視下に置かざるを得ない理由。
毛利家に仕えることを良しとせず、あくまでも尼子家再興を願う旧臣、山中鹿介に奪われないようにしなければならない。
山中鹿介。↓
ここでも穴子、藝のなさに呆れる。いっそ三つの料理を穴子三兄弟とするか。
尼子家再興の旗印として鹿介が担いだのは新宮党の國久の孫、勝久。
しかし新宮党は粛清された一族であり、尼子家の正統な当主は義久。
義久本人は鹿介や勝久の行動をどう思っていたのか?
尼子の武名を挙げてくれていると、密かに心中では応援していたか?
当主である自分が降伏して恭順の意を示しているのに、要らざることをして、このままでは自分や他の旧臣にも害が及ぶかもしれないと苦々しく思っていたのか?
義久の考えや言葉は伝わっていません。それはそうでしょう。うっかりしたことを口に出せば、すぐに監視している毛利家に伝わる。黙っているしかなかった。
旧主の義久奪還ではなく傍流の勝久を担いだ鹿介は旗印になるなら誰でもよかった?
武士の鑑とか忠臣と言われる山中鹿介も意地の悪い見方をすれば、そうなる。
天正十七年(1589)に元就の孫、毛利輝元により義久は客分とされて屋敷を賜る。すでに戦った元就、尼子再興運動をしていた鹿介も勝久も亡く、秀吉の天下が定まりつつある頃。
実に月山富田城開城から26年後。
慶長元年(1596)出家して友林と名乗る。
生姜が魚臭さを中和して、仄かな塩胡椒が穴子自体の旨味を引き出してくれる。
パプリカの食感、玉葱も加熱十分で甘い。
玉葱のアリシンで増進された食欲がタンパク質やカリウム、ビタミンAたっぷりな穴子を進ませる。
パプリカからβカロチンやビタミンCと抗酸化作用も期待出来る。
慶長十五年(1610)に友林こと尼子義久は七十一歳を一期として死去。
大名であった時代よりも、その後の人生が遥かに長い。
甥が跡を継いだが、後に佐々木と改姓。
これは先祖が佐々木氏だったので、先祖の姓に戻した。というよりも尼子を名乗り続けるのは仕えることになった毛利家に憚りがあると判断したのでしょう。何しろ旧敵の苗字ですから。
或いは大名から毛利の一家臣へと家格を下降させてしまったことを偉大な先祖、経久に対して恥じる気持ちがあったのだろうか。
そんなことを妄想しながら、穴子義久をご馳走様でした。