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焼き鬼切り丸

桜が咲いた。天気もいいし、出かけるか。ということで、軽く持って行ける鬼切り、じゃなかった。おにぎりを作りながら徳川十六神将の一人を妄想した記録。


ご飯以外の材料

ツナ缶   1缶
白摺り胡麻 好きなだけ
バター   10グラム位
醤油    小匙1

勿論、ご飯が茶碗に大盛。

東京、四谷の西念寺という寺院に鬼切丸という槍が保存されています。
この寺の開基、西念という僧侶が俗世にある時に使っていたという槍。
安政地震で穂先が欠損。戦時中の空襲で柄も焦げていると聞きますが、全長2・5メートルを超え、ずっしりと重いらしいです。
西念寺には行ったことがありますが、残念ながらこの槍は未見。
西念の俗名は服部半蔵正成。徳川家康に仕えた伊賀同心や甲賀同心の統領。


ご飯に水気を切ったツナと摺り胡麻を混ぜていく。胡麻に水気を吸わせる感じ。

天文十一年(1542)に三河国伊賀に生誕。

三河なのに伊賀?と思ったら、伊賀八幡宮という神社がある周辺が伊賀町と呼ばれているとか。主君、徳川家康と同年生まれで、父親は服部半三。ややこしいですが、父もはんぞうと読む名前。
半蔵や半三は代々、服部家が名乗る通称で、今回、妄想している正成は三河服部家の二代目。
父親が松平家に仕えたのが縁の始まりですが、半蔵は幼少から立派な体格で忍者というよりも武士として徳川家に仕え、特に槍の名人として知られ、鬼半蔵の異名。
ということになっていますが、本当か?私が妄想するに、伊賀者は全国の大名に忍びの技を持って仕えたと言います。初代半三もそうだと思います。となると、お家芸である忍術を子の半蔵がまったく身に付けていないとは思えない。武士として仕えたとなっていますが、本当は半蔵正成は武士のフリをした忍びだったのではないか?
服部家というのは、伊賀では藤林、百地と並ぶ上忍の家。その苗字を持つ者が忍術とまったく無縁の筈がない。


少しだけ油を塗ったフライパンで固めに握ったお握りを中火から弱火でじっくりと焼いていく。

西念寺に保存されている鬼切丸という槍は家康から賜った物で、この槍で戦場を駆け回り、半蔵は多くの武功を挙げたといいます。
姉川の戦いや三方ヶ原の戦いでの一番槍等。やはり槍の名手ということか。

徳川家康の長男の信康、武田と内通しているという噂があり、それを疑った織田信長に切腹を命じられた時、半蔵は介錯を勤めることに。
しかし、主君の子を切ることが出来ないと嘆く。見かねた天方通綱が代わって信康の首を討ちました。
それを聞いた家康、
「鬼と呼ばれる半蔵でも、主君の子は討てぬか」と言ったとか。
これも意地悪く妄想すると、半蔵の計算?
幾ら主の命令とはいえ、嫡男を殺したとなると、主従の間には何となくわだかまりが残る。どうしても討てなかったという方が評価が上がる。
実際に信康の首を討った天方ですが、その後はぱっとした話がない。一方、半蔵はこの後の大活躍で名を馳せ、更なる重用。


ある程度焼けたら、バター投入。絡めていく。

天正十年(1582)信長の招きで上方へ赴いた家康が少数の家臣と堺に居た時、本能寺の変。信長が急死。こうなると長年、信長の忠実な同盟者だった家康は危機に陥る。明智勢に討たれるか、恩賞目当ての野盗に襲われるか。
実際、この時に家康同様、少人数で上方にいた武田家の旧臣で織田方に寝返った穴山梅雪は討たれています。
これも妄想すると、もしかしたら穴山梅雪は家康の身代わりになったのではないか。家康と間違えられた、或いは間違われるように仕向けられた。そうだとしたら、そうした偽情報を野武士や野盗に流したのは半蔵?
家康主従は伊賀の山中を超えて、伊勢に出て船で本拠の三河に逃げることに。この時、先乗りした半蔵は父の故郷である伊賀の地侍達に話を付けて、家康主従の警固を依頼。その甲斐あって家康主従は無事に三河へ帰還。


いい色になってきたら、醤油を鍋肌で焦がしながらお握りに少しづつ絡める。焦って一気に絡めると水分で崩れます。

神君伊賀超えの危難と言われる場面。半蔵の働きがなければ、家康の命もどうなっていたことか。
この後、警固を勤めた伊賀、甲賀の者達はそのまま徳川家に仕えることになり、半蔵がその束ね役となりました。こうして誕生したのが伊賀同心や甲賀同心。
主君、家康が大大名になっていくにつれて半蔵も身代が大きくなっていき、八千石の旗本となり、石見守という官職まで得ました。


焼き鬼切丸

バターと醤油は黄金の組み合わせ。それで焼いたお握りは冷めても美味い。ツナからタンパク質、胡麻からはゴマグリナンやセサミン。
炭水化物はやはり重要なエネルギー源。日本人は米からそれを摂取してきました。大豆の発酵調味料である醤油は米との相性よし。

徳川家が江戸にやって来ると当然、半蔵も江戸へ。そして出家後に信康の菩提を弔うためとして建立したのが西念寺。
介錯が出来ず或いは敢えてやらなかったことで、腹を切った信康の苦痛を断ち切ってやらなかったことに気が咎める所があった?
慶長元年(1597)に死亡した西念こと服部半蔵正成の墓も西念寺に。
死因は不明。ということはもしかしたら死んだことにして、影から徳川家のために働いていた?死んだことにした方が忍び仕事には有利ですから。
忍者ということから、様々な妄想が楽しめる。
半蔵亡き後の服部家ですが、三代目半三は伊賀、甲賀の同心達に罷業つまりストライキめいたことで反抗され、忍びを纏める力量なしとして罷免。
四代目は幕府から離れ、桑名松平家の家老となり、そのまま存続。家老にまでなると、隠れた忍びではなく本当の武士になったのだろうか。
出掛けた先でも妄想を堪能しながら、焼き鬼切丸をご馳走様でした。


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