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勝海舟マイ

坂本龍馬の師と言えば勝海舟と一般的にはイメージされます。
果たして本当にそうだと言えるのか?勝と龍馬の本当の関係はどういう風だったのかを妄想しながら、これは本当にシューマイか?と思う料理を創造した記録。


材料

鰯   3尾
塩麹  小匙1
生姜  半欠け
卵   1個
味噌  大匙1
米粉  100グラム
片栗粉 大匙1と小匙1

文政六年(1823)に生まれた勝麟太郎が後の勝海舟。
諱は義邦、後に安芳。海舟とは号。
海舟の祖父は盲目の按摩。江戸時代、盲人には高利貸しを行うことが特権として認められていました。目が見えない人への救済措置みたいなもの。
そこでこつこつと貯金。男谷家の御家人株を買って武士に成り上がった、言わば金上げ侍。
その三男の小吉が小普請組の無役旗本、勝家に養子に。その子が海舟。
政治への関与など、平時なら考えられない小身でしたが、幕末という動乱期が運命を変える。


頭と内臓を取った鰯を手で開く。

嘉永六年(1853)にペリーが来航。その時に老中、阿部正弘は情報を開示して、広く意見を求めました。
西洋式兵学校の設立と正確な翻訳書刊行という海舟が提出した意見書が認められる。
こうして重用されるようになり、幕府の遣米使節の護衛艦に乗り、米国にまで行きました。
神戸に海軍操練所が開設されると、そこを任される。
こうした歩みを進んで来た海舟の下に出入りするようになったのが坂本龍馬。


骨を取った鰯を包丁で細かく叩く。

千葉重吉の道場で北辰一刀流を学んでいた龍馬は重吉の息子、重太郎と共に海舟の家を訪れる。海軍の興隆や開国の必要性を説いている海舟を国賊と見て、斬りに行ったと言われています。
海舟自身が後に語っている話ですが、どうもこれは海舟の法螺ではないかと思われる。というのも、海舟も龍馬も共に佐久間象山の私塾に通っていたので、そこで知遇を得たのが本当だろうと思われる。
ならば、どうして海舟はこんな法螺を吹いたのか?話を面白くするため?或いは龍馬との関係をはぐらかすため?


叩いた鰯、卵、味噌、摺り下ろした生姜、片栗粉小さじ1をミキサーで混ぜる。つみれを作っています。

神戸に海軍操練所を設立されることになり、軍艦奉行となった海舟はそこを任される。
その塾頭となったのが龍馬と思っている方もいるかもしれませんが、さにあらず。
幕府が作った操練所とは別に海舟は私的な海軍塾を設立。龍馬が塾頭を務めていたのはそちらのこと。
とはいえ、設備等は操練所のそれをそのまま使っていたようで、公私混同というか何だか曖昧。実は勝海舟という人物も曖昧というか、掴みどころない。
この辺りが、海舟と龍馬の蜜月時代。


米粉、片栗粉大匙1を混ぜて、水を少しずつ投入。捏ねていく。

この頃、よく都で政治活動をしていたのが西郷吉之助。どういう人物か気になった海舟はまずは龍馬に会って来るように依頼。
「西郷というのは掴みどころがなく、大きく叩けば大きく響く。小さく叩けば小さく響く大きな釣り鐘みたいな人」というのが龍馬の西郷評。
それを聞いて興味を持ったようで、海舟は西郷に接近していく。
幕臣でありながら、海舟は薩摩と通じている。更には龍馬を始めとする脱藩者を匿って幕府の施設で学ばせているという辺りが問題視されるようになり、ついに海軍操練所は閉鎖。勝も江戸への帰還と謹慎を言い渡される。
この後、龍馬は西郷の庇護下に入る。
西郷も別に惻隠の情から龍馬や他の塾生を受け入れた訳ではなく、龍馬が身に付けた操練術を薩摩にもたらして欲しいという思惑。というよりも、海舟と西郷の間で、そうした取引?


生地を伸ばして、皮を作っていく。

どうやら、この時に海舟は龍馬にも見切りを付けた?
以後、連絡を取った風は見られず、海舟は幕府に仕える身でありながら、幕府を内側から崩して、西郷達、薩摩、それと結んだ長州という革命勢力に心を寄せていく風が見えてくる。
つるむならば、威勢がよく様々な人脈はあるものの所詮は脱藩浪人でしかなく、何の後ろ盾もない龍馬よりも、薩摩を代表する人物とも言える西郷。という風に海舟も決めたのではないか。


皮につみれを乗せて、可能な限り包む。

龍馬が後に唱えた「大政奉還」は平和裏に政権を幕府から新政府に移行させるというものでしたが、それでは困る勢力。それが日本で内戦を起こして武器を双方に売って大儲け。ついでに日本国も頂こうという野心あるフリーメイソン。明治維新というのはそうした外国勢力に背中を押され、煽られた薩長の下級武士が起こした革命ですが、海舟は幕臣でありながら、そちら側に与した。時代がそちらに流れているのならば、そちらに付いた方がいいという打算か、或いは幕府ではなく徳川家を守るには、その方がいいと判断?


蒸し器で15分位、蒸す。

徳川家に仕える武士として、主家だけは残るように画策という一分位は持っていたのかもしれません。
そのためには主戦派の旗本とか御家人は邪魔になる。そうした連中を一か所に集めて、戦を最小限にして徳川家とは関係ありませんということにして薩長に始末させる。そんな絵を描いて結成したのが彰義隊?
新選組も甲府に追いやって、万が一にも将軍、慶喜を担いで一戦などはさせない。
大きな戦にならないようにうまく立ち回ったとも言えるし、どちらにも顔が利くように二股膏薬をしかけたとも見える。


勝海舟マイ

グルテンフリーな米粉の皮。そのため柔軟性がなく崩れやすく包むのに苦労。型崩れ。繋ぎになる物を加えた方がよかったか?今後の研究課題。
そでも米粉皮はもっちりとした仕上がり。つみれも味噌が入っているので、タレや醤油なしで、そのまま頂けます。
青魚である鰯からDHAやEPAが頂けます。
通常のシューマイとは異なり、つみれから海の香がする創作料理となりました。

勝海舟と西郷隆盛、官軍の江戸攻撃前に会見。江戸城の無血開城を取り決めたという話が美談めいて語られていますが、示し合わせての芝居だったとすれば、何やら空々しい。
かって蜜月だった龍馬が暗殺されるであろうことも、薩長と通じていた海舟は事前に知っていたかもしれない。幕府と新政府の間を蝙蝠のように飛び回っていたようにも見えてしまい、勝海舟の人生自体が芝居のようにも思えてしまう。そんなことを妄想しながら、勝海舟マイをご馳走様でした。

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