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浅野長矩塩麹ポテト

もう11月も終わる。そろそろ師走。
平成の初期?位まで年末が迫ると風物詩のように「忠臣蔵」モノの映画が公開或いはテレビドラマが放送されていたものでした。
歴史好きな人が釘付けになる大河ドラマの題材にもよく選ばれ、昭和の頃には幾つも忠臣蔵モノが制作、今の時期にクライマックスの討ち入りが放送。
それもいつしかなくなり、若い世代には忠臣蔵を知らない人も増えているかもしれません。参考↓

今の所、最後の忠臣蔵大河ドラマとなっている「元禄繚乱」が放送されたのは平成十一年(1999)でもう20年以上前。そもそも赤穂浪士の討ち入りの発端となった事件を起こした浅野内匠頭長矩を妄想しながら料理した記録。


材料

ジャガイモ 3個
塩麹    大匙2
青海苔   好きなだけ

寛文七年(1667)播州赤穂浅野家の三代目として誕生した犬千代が後の内匠頭長矩。
浅野家は秀吉の妻、寧々の妹婿、長政が初代。長男が広島城主となり、三男が分家したのが播州浅野家。
幼少期に父母を失い、数え九歳で藩主就任。
赤穂には塩田があり、その収益で裕福な藩。
何しろ塩は人間が生きていく上で欠かせない。その塩が特産品なので実質の収入は七万石の大名相当だったとか。そのためか赤穂城は新たに築かれた城で、家臣の数もそんなにいらないだろうと言われる位に多かったとか。


ジャガイモを茹でて柔らかくする。圧力鍋を使うと早い。


裕福な大名家ということから、幕府から度々、儀式や典礼の饗応役を仰せつかる。その費用は担当する大名家の自腹。幕府による大名家に金を使わせる政策の一環。
朝鮮通信使の饗応を務めた後、天和三年(1683)に霊元天皇の勅使の饗応役を仰せつかる。この時、指導役となったのが吉良上野介義央。
幕府というのは形式上、朝廷という権威から徳川家の当主が征夷大将軍に任命されて権力を委託される形で成り立っている政権なので朝廷からの使者、勅使の接待は万が一にも失敗は許さない。
この時、17歳の長矩は吉良の指導よろしきを得、無事にやり遂げる。


茹で上がったら皮を剥き、食べやすい大きさに切る。

内匠頭長矩には「つかえ」という持病。
これは胸や腹に文字通りつかえるような症状が現れる。緊張状態や感情が高ぶった時に発作が起こりやすく、精神病に近い。現代風な病名だと強迫性障害。


油で炒める。

結構な出費となる勅使饗応役、何と二度目が回ってくる。
指導役は前回と同じく吉良上野介。
吉良家は高家。故実典礼に通じ、儀式の作法を大名に指導する役割。
元禄十四年(1701)という時代は好景気でインフレ。しかし年々、勅使饗応が贅沢になり過ぎているという批判が幕府内であり、武家らしく質実剛健にという声。それを受けてか、内匠頭は前回にかかった費用1200両の半分でと考える。
しかしそれを相談しようにも吉良は当時、江戸を離れていて、戻って来たのは本番の二日前。
経費節減の一環として高家に払う指導料も成功報酬ということにして、事後に支払うとして、事前に贈ったのは鰹節。
高家というのは官位は高いものの、領地は広くなく指導料が重要な財源。それまでケチられたということもあり、度が過ぎた吝嗇と内匠頭に告げた?
「物価も上がっているのに前回の半分というのはケチ過ぎる。少し減らす位にしておかねば物笑いの種となる」そんなことを吉良は言ったのではないか。あくまでも指導のつもりが、内匠頭はそうは受け取らなかった?


油が回り、一部カリっと焼けたら、塩麹を投入。

現代でもあることですが、言った方は覚えてなくても、言われた方は深く気にしていつまでも根に持つ。それが吉良と内匠頭の間にもあったのではないか。
「この前の遺恨、覚えたるか」
勅使饗応の当日、江戸城松の廊下で立ち話をしていた吉良へと、内匠頭は叫びながら脇差を抜いて斬りかかる。
吉良は額と背中に傷を負うが、一命を取り留める。
当然ながら、この顛末に将軍綱吉は激怒。


青海苔を塗す。

取り押さえられた内匠頭は一関藩、田村家の屋敷に預けられる。田村家は陸奥伊達家の縁戚。伊達家と浅野家は仲が悪い。わざわざそんな所に預けたのも綱吉の意向?
更にその日の内に切腹の沙汰が下されて、内匠頭は田村家江戸屋敷の庭先で切腹。詳しい取り調べもなされないままに命を取られてしまったので、内匠頭が抱いた遺恨とは何か不明なまま。
妄想するに、ケチとか吝嗇に近いことを言われたことを侮辱と捉え、ずっと胸につかえていたのではないか。それがついに爆発。


浅野長矩塩麹ポテト

炒めたことでしっかり焼けたカリっと面と柔らかい面が混在。普通に塩だとのり塩ポテチみたいですが、塩麹だと塩の尖った味だけではなく麹の微かな甘味も加わる。青海苔から海の香。
青海苔にはカルシウム、ヨウ素、ビタミンA,、B、C等も含まれる。
発酵食品は腸を整えてくれる。芋で腹が膨れるだけではなく栄養もしっかりと頂ける。

実は徳川綱吉の治世でこんな事件が起こったのは三度目。
延宝八年(1680)四代将軍家綱の七十七日法要が行われた増上寺にて、内藤忠勝が永井永尚を殺害。
貞享元年(1684)には稲葉正休が江戸城内で堀田正俊を刺殺。
しかも内藤は内匠頭の叔父、稲葉は又従兄弟。
「また、あの一族か」と、将軍の怒りの炎に油が注がれた。
内匠頭が患っていた「つかえ」つまり精神病は遺伝的なものの可能性。
精神病の因子が内匠頭にも受け継がれていた?

前者二人は共に相手を殺害。しかし内匠頭は吉良を取り逃がす。
内藤は儀式で永井が穿いていた長袴の裾を踏んずけて足止め、馬乗りになって何度も突き刺した。
稲葉は高名な刀鍛冶、虎徹作の脇差で一突き。
刃傷松の廊下の場合、内匠頭は大紋を着て長袴でしたが、吉良は狩衣に括り袴。これは内匠頭が従五位下、吉良は従四位上という官位の差で衣装が異なっていたため。長袴ではないので裾を踏みつけられず。
稲葉とは異なり、突き刺すべき脇差で斬り付けたので致命傷を与えることも出来なかった。
後に内匠頭家臣、赤穂四十七士は主君がやろうとして果たせなかった吉良殺害を遂行。それが赤穂浪士討ち入りの本質ではないか。となると、やはりこの事件は仇討とは言えない。
そんなことを妄想しながら、浅野長矩塩麴ポテトをご馳走様でした。

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