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足利義昭茄子は嫁に食わすな

秋茄子は嫁に食わすなという言葉。
秋茄子は美味いので、嫁に食わせるなという意地悪い格言?
と思いきや、茄子の旬は夏なので、季節外れの物を食べると体に変調を起こしやすいので、嫁を大事にするなら食べさせるなという解釈もあり。
個人的には、夏野菜は体の熱を取る働きがあり、肌寒くなってきた秋に食べると体温を奪われてしまうという意味ではないかとも考える。
そんなことをつらつらと思いつつ、秋茄子を料理しながら、武力以外の方法で信長に抵抗し続けた人物を妄想した記録。


材料

茄子    2本
大葉    5枚
白摺り胡麻 好きなだけ
味噌    大匙2
味醂    大匙1
柚子胡椒  小匙1

天文六年(1537)に誕生した千歳丸が後の足利義昭。父は室町幕府十二代将軍、足利義晴。次男だったので十三代将軍の座は兄の義輝が継ぎ、興福寺へ預けられて出家。覚慶と名乗る。
何事もなければ、そのまま僧侶として生涯を終える筈でしたが、義輝が三好三人衆と松永久秀により殺害され、自身も幽閉される。
命も風前の灯。生かされても三好や松永の傀儡とされるは必定。


乱切りにした茄子を水に漬けて灰汁抜き。

細川藤孝らの助けで脱出。足利将軍家を再興すべく還俗して義秋、次いで義昭と名乗る。
越前の朝倉義景の庇護を受けていたが、自分のために動いてくれそうもない。そこで朝倉家に居た明智光秀の仲介で織田信長の元へ。
信長は願い通りに義昭を奉じて上洛。十五代将軍に就けてもらうことに成功。余程に嬉しかったのか、三歳年上の信長を御父とまで呼ぶ。
信長を幕府再興の忠臣と思っていたが、信長自身は義昭の存在を上洛、そして天下布武の大義名分として利用したに過ぎない。
何事も信長に相談すべしとか、他大名に書状を送るにも信長の添え状を付けるべし等と注文を付けられるに及んで、義昭は信長の本心を悟る。
自分を利用したに過ぎない不埒な信長を討つべしと武田、上杉、朝倉らの大名、果ては比叡山等の寺社勢力にまで御教書を乱発。
このお手紙作戦でついに信長包囲網を形成。


調味料を混ぜる。

義昭には大した兵力がない。しかし大きな武器。それが権威。
征夷大将軍というのは名目上、すべての武家の頭領。その命令となると無下には出来ない。
又、信長を苦々しく思っている勢力からすれば、信長に敵対する大義名分となる。
特に義昭が当てにしたのは武田信玄。
西上作戦を始めた武田軍に呼応して、ついに義昭自身も信長打倒の挙兵。
ところが、思わぬことに信玄急死。これにより武田軍は甲斐へ引き上げていく。拠点とした槙島城を織田軍に包囲され、城下を焼き払われた義昭はついに屈服。京都を追放される。これにより室町幕府滅亡。と一般的に思われ、教科書等にもそう書かれているかと思いますが、義昭はまだ将軍位にあり、幕府自体はまだ存続。
織田信長といえば、実力のみを信じていたようにイメージされますが、権威や伝統を無視出来なかった面があり、義昭を追放のみで命は奪えなかった。ましてや自分が擁立した将軍となると害を加えると外聞も悪い。
信長に比べると、平気で将軍殺しをやってのけた松永久秀の方が中世の枠を飛び越えていた?


茄子を炒める。

義昭が向かったのは備後の鞆。ここを拠点に反信長の旗。鞆は先祖の足利尊氏が光厳上皇から新田義貞討伐の院宣を賜ったという足利氏にとって所縁ある場所。
鞆幕府と呼ばれる。亡命政権と言うべきか。
義昭が頼ったのは毛利輝元。輝元を副将軍に任命。
織田家との関係は悪くなかった毛利家にとっては迷惑な話。
しかし信長が毛利と敵対している浦上宗景を支援、島津や大友という九州の勢力の和議を図る動きが毛利家を牽制しているように見えると、義昭の望み通りというべきか毛利家と織田家は断交、戦争状態に。
織田家の指揮官としてやって来た秀吉と毛利家は交戦。
その最中で起こったのが本能寺の変。
信長横死を隠して講和をまとめた秀吉は引き上げていく。弔い合戦に勝利した秀吉は信長後継者へと駆け上がる。


混ぜた調味料投入。

信長死後、義昭は柴田勝家を支援。しかし義昭を庇護している毛利家は動かず。
毛利が動かないとなればと、義昭は島津に大友征伐を命令。九州の太守に任じると約束。これで島津の支援を取り付けようと図ったが、天下の形勢はすでに秀吉が天下人の方向へ。
義昭はいつの時点で幕府再興、足利氏の天下を諦めたのか?
個人的には、打倒の執念を燃やしていた信長があっけなく消えてしまった時点で、義昭の気持ちも萎えてしまったのではないかと思っています。
信長死後の動きは、権力というよりも自身が都に帰る道筋を付けようとしていたように思えます。生まれた場所へ戻りたいという帰巣本能?


足利義昭茄子は嫁に食わすな

白摺り胡麻を振りかけて、細切りにした大葉を散らしました。
そろそろ大葉の季節も終わり。行く夏の名残を惜しむ料理となりました。
皮ごと調理したので、抗酸化物質のナスニンもたっぷり。胡麻の抗酸化物質、ゴマグリナンも豊富。
正にアンチエイジング料理。
甘い味噌に潜む柚子胡椒のピリリ感が味を引き締めて、ご飯が進む。

最終的に秀吉に迎えられるように義昭は十五年振りに京都に戻る。その後は因縁というべき槙島で一万石を与えられる。天正十六年(1588)に義昭は将軍職を返上。これを以て、足利幕府は正式に終焉。
前将軍ということで、秀吉から厚遇され、席次は徳川家康や前田利家ら五大老よりも上とされました。
別に秀吉は親切心とか将軍を敬っているということではなく、思惑あり。
秀吉は義昭に猶子にしてくれと依頼。猶子とは相続権のない養子とでもいうべきことで名目上、源氏の一族に連なることで秀吉は自身が将軍となり、幕府を開こうとした?
義昭はこの頼みを断りました。
それでも秀吉は態度を変えることもなく、義昭は秀吉のお伽衆、つまり話相手を務めた。
昔の大河ドラマ「秀吉」で玉置浩二演じる義昭が大坂城で遊んでいる場面がありましたが、史実というわけ。

義昭自身の嫁ですが、正室はなく、側室との間に息子、義尋がいましたが、その子、つまり孫が二人。二人の男孫は出家して子孫を残さなかったので義昭の血統は絶えました。
最後の将軍として、信長に意地を示し続けた足利義昭を妄想しながら、足利義昭茄子は嫁に食わすなをご馳走様でした。

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