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芋神様に捧げ飯

秋の味覚の代表格、薩摩芋。今や芋の代名詞とも言えるポピュラーな作物。南米原産の芋をそう名付けたのは青木昆陽。それにまつわる話を妄想しながら料理。

材料

お米  1合
薩摩芋 160g
醤油  大匙半分
バター 10g
黒すりごま 適量

まずは芋の両端を切り落とす。筋ばっていて食感がよくないからです。その後、四等分に。

研いだ米に水、その上に切った芋と出汁取り用に昆布。醤油を入れる。

30分程浸水させてから炊飯器のスイッチを入れる。やることはこれだけ。後は炊き上がるまで青木昆陽の人生でも振り返りつつ待つか。

江戸の魚問屋の息子として生まれた昆陽。子供の頃から学問好き。それが高じて都に上って学問を修めたいと考えるように。
恐る恐る父親に相談。
「おまえに魚問屋を継がせるつもりはない。思う存分、学問を究めて来い」
こうして上京。伊藤東涯の元で儒学を学ぶ。
江戸に戻った後、名奉行としても名高い大岡越前に抜擢され、幕府に出仕。
時代は八代将軍、徳川吉宗の御代。
ウンカの大発生により享保の飢饉が発生。豊かになった現代からはなかなか想像しにくいことですが、江戸時代、噴火等の天災や害虫の発生による飢饉は度々発生。餓死者が出るのも珍しいことではありませんでした。
飢える人々を救う方法はないものかと考えた昆陽が目を付けたのが、当時は甘藷と呼ばれていた薩摩芋。
南米原産の甘藷、琉球を経て薩摩に伝来。
薩摩は桜島の火山灰が堆積したシラス台地。水はけがいい土地。つまり水田が作りにくい所。米の取れ高がよろしくないので飢饉があると大変なこと。それに備える救荒作物として栽培されていました。それを関東にも持って来て根付かせたいと昆陽は考えたのです。
下総国千葉郡や小石川薬園で栽培を開始。
しかし、新しい物はなかなか受け入れられないのが世の常。
甘藷には毒がある等の俗説もあり、なかなか普及は進まず。それでも、この芋を薩摩芋と名付けて栽培と普及に勤めました。その甲斐あって徐々に広まり、見事に日本全土に根付いていきました。これにより、飢える人を救いたいという彼の思いは実現に近づいていきました。
おや、そんなことを考えている内に炊き上がり。

炊き上がったら昆布を取り除き、バターを入れて、芋を切ったり潰したりしながらバターをご飯に溶け込ませていく。

焼き芋等では皮は剥いて捨ててしまいますが、皮には抗酸化作用があるポリフェノールが含まれています。潰して混ぜ込んでしまえば、皮も気にせずに芋の栄養を丸ごと頂ける。

芋神飯

黒すりごまをお好みでかけて、完成。
醤油を味付けに使ったのは、青木昆陽が薩摩芋の栽培を始めたのが千葉だったことに因んでのこと。千葉と言えば、野田とか銚子の醤油という連想。醤油によく合うのはバターだろう。又、大学芋には黒胡麻を掛けるから、やはり黒胡麻を掛けるべしということから、この組み合わせとなりました。

芋が甘くご飯に絡み、醤油の塩気がよく合う。バターでコクが出て、黒胡麻の香ばしさもご飯を引き立てる。胡麻には抗酸化作用があるゴマリグナンを始め、ミネラルやビタミンも豊富。すぐれた栄養食となりました。

目黒にある青木昆陽の墓には、甘藷先生と刻まれているそうです。又、その功績に感謝した人々により、芋の栽培が行われた千葉の幕張には昆陽神社が建てられて、芋神様として祀られているとか。

江戸時代というと、身分が固定された窮屈な社会だったように思われがちですが、彼の事例を見れば、必ずしもそうではなかったということがわかります。
学問を修めたことから、商人から幕臣つまりは武士になったのです。
こうした身分を変えた事例は他にもありました。百姓の子が商家に丁稚奉公して暖簾分けということもあった。
よくわかりやすい例は新選組。
近藤勇とか土方歳三は元々、百姓でしたが腕一本で武士に成り上がり。
こうして身分や身代を変えて立身した人々も、決して自分の力だけでそう出来たとは思っておらず、周囲の人々や世間のお陰様という意識を普通に持っていたと思います。
青木昆陽に関して言えば、学問することを許してくれた父、引き上げてくれた大岡越前。
そうした周囲や世の中のために自分の力や権限を使った。決して私利私欲ではなく皆の幸せのために尽力した日本人は昔から多くいたと思います。
芋神様が普及させた薩摩芋により飢えずに命を繋いだ人々の延長上に我々の命や社会があるということに感謝しつつ、ごちそうさまでした。

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