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山芋鉄塙団右衛門

福岡の居酒屋ではよく味わった山芋鉄板。摺り下ろした山芋をお好み焼きのような見た目に焼いた料理。鉄牛という出家名も持つ豪傑を妄想しながら、山芋鉄板を料理した記録。


材料

山芋   10センチ
卵    1個
水菜   1株
出汁つゆ 大匙3
干し海老 たっぷり
鰹節   お好みで
青海苔  お好みで

尾張生まれと言われる塙団右衛門。元は猟師とも言われますが、はっきりした出自は不明。
彼の苗字ですが「はなわ」ではなく「ばん」と読みます。つまり「ばんだんえもん」
「僕、ドラえもん」じゃないよ。
勢いある響きの名前ですが、本人もそれを狙って付けた名前。つまり自己顕示欲がかなり強い。
織田信長に士分として抱えられたものの、酒癖が悪く人を斬り殺したことから放逐されたという話がありますが、諸国放浪の牢人となったのは確からしい。


摺り下ろした山芋に短く切った水菜、卵、出汁つゆ、干し海老を混ぜる。

秀吉の天下が定まった頃に伊豫松山の大名、加藤嘉明に仕官が叶う。
朝鮮の役で大きな日の丸の旗竿を背中に差して度々、手柄を立てる。
目立つ格好をしていたのは武功を認めてもらうため。目立たなければ、証人になってくれる人がいないから。
こうした活躍が認められて、知行千石の鉄砲大将に出世。しかし、これが彼のキャリアのケチの付き始めになろうとは。


しっかりと混ぜ合わせる。

慶長五年(1600)の関ケ原の合戦、鉄砲大将として参戦したものの、命令を無視して勝手に足軽達を突撃させる。
そもそも鉄砲隊の役割は離れた位置から鉄砲を撃ちかけて威嚇することにありかと思います。現代の鉄砲とは違い、連射も効かないし、命中精度も高くない。射程距離もそんなに伸びない。音を響かせて人馬、特に馬を驚かせて足を止めさせる役割があったかと。それを理解していなかったか。というよりも団右衛門は鉄砲が嫌いでした。
理由は鉄砲で敵を仕留めても、誰が撃った玉だかわかりません。自己顕示欲の塊からすれば、討ち取りの手柄を立てても認めてもらい辛いなど、耐えられない。
個人の武勇ばかり求めているようでは、兵を指揮する器ではないと叱責を受けると憤慨。
「遂不留江南野水 高飛天地一閑鴎」という漢詩を残して出奔。
意味は小さな水には留まらずに、鴎は高く飛んでいく。
小さな水と言われた主君、加藤嘉明は激怒。奉公構を掛けます。


ホットサンドメーカーに流し込んで焼く。引っ繰り返すのが楽だから。

奉公構というのは、大名の元を去った牢人が他の大名家に召し抱えられないようにと働きかけること。これによりもう武士としては生きていけまいという処置。
しかし拾う神あり。
小早川秀秋が団右衛門を召し抱える。秀秋は元々は秀吉の甥。小早川家は毛利一族。加藤家とは格が違うということから、嘉明も文句が言えず。
関ケ原で西軍から東軍に寝返り、徳川家康に大きな貢献をしたことから国を二つも貰う大出世を果たした秀秋。家臣が足りないということから、団右衛門はスカウトされたのでしょう。ところが秀秋が急死。跡継ぎがいなかったので小早川家は断絶。またもや牢人に。
今度は松平忠吉に仕官。この人は家康の四男。嘉明はまたしても文句が言えずに歯がゆい思い?
ところが忠吉は子なくして急死。この家も断絶。
団右衛門、今度は福島正則に仕える。待ってましたとばかりに嘉明は奉公構を持ち出す。正則は元々、嘉明と同列な豊臣家臣。正則は仕方なく団衛門を放出。


片面、3分焼いていく。

その後、妙心寺に入門。出家して鉄牛と名乗る。しかし仏弟子となっても自己顕示欲は失せず。刀と脇差を帯びたままで托鉢。これには信徒も呆れる。
慶長十九年(1614)に勃発した大坂冬の陣。再び武士としての名を挙げる機会と張り切って還俗。大坂に向かう途上で考えた。
東軍は勝って当たり前、手柄を立てても人数が多いので認められるのに手間がかかる。大坂方ならば、目立つ機会多し。
ということで大坂城へ入城。別に豊臣家に義理がある訳でもないが目立った武功が挙げられるなら、そちらへということか。
有名な逸話として、蜂須賀至鎮の陣へ夜討ちをかけて、
「夜討ちの大将、塙団右衛門」と書いた木札をバラまいた。
ここでもしっかりと自分の宣伝を忘れない。


山芋鉄塙団右衛門

鰹節と青海苔をお好みでかける。
出汁つゆを混ぜてあるので、そのまま食べられますが、味が薄ければ、醤油でもソースでも。マヨネーズかけたら見た目もお好み焼きに。
卵の良質なタンパク質、海老のカルシウムやキトサン、山芋からビタミンB群や食物繊維。
もっちりした食感の中には水菜が混ざる。水菜は加熱してもシャキシャキ感が損なわれ辛い。これは正解。キャベツを入れてお好み焼き風にするよりも、この味には水菜が合っている。

翌年の大坂夏の陣では樫井の戦いで一番槍を競い、前面に出過ぎたことから他の味方と離れてしまい、包囲されて攻撃をくらい、討ち死に。


食べやすい大きさに切って、頂く。

塙団右衛門、命よりも名を挙げることを選んだ武士と言えます。
客観的に見れば、我を張り過ぎて身を滅ぼしたとも言えますが、
「命を惜しむな、名をこそ惜しめ」という武士の本分としてよく言われることを、武士階級出身ではない彼が体現したと思えます。
漢詩を書くことが出来たことからも、武勇ばかりではなくそれなりの教養も身に付けていた人物だったからこそ、文武兼備として語り継がれているのかもしれません。そんなことを妄想しながら、山芋鉄塙団右衛門をご馳走様でした。

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